成田良悟『バッカーノ!』

ミハイル・バフチンは、ドストエフスキーの一連の小説群が、ある意味、奇妙な構成となっていることに注目する。

ドストエフスキーの関する厖大な文献を読んでいると、そこで問題にされているのは長編小説や短編小説を書いた一人の作家=芸術家のことではなくて、ラスコーリニコフとかムィシキンとかスタヴローギンとかイワン・カラマーゾフとか大審問官とかいった、何人かの作家=思想家たちによる、一連の哲学論議なのだという印象が生まれてくる。文学批評家の頭の中では、ドストエフスキーの創作は、彼の主人公たちが擁立するそれぞれの別個の、相互の矛盾した哲学体系に分裂してしまっているのである。作者自身の哲学思想は、そこではけっして中心的な位置を占めているわけではない。ドストエフスキーの声は、ある研究者にとっては彼のあれこれの主人公たちの声と融け合っており、別の者にとってはそれらすてのイデオロギーの声を独特に総合したものであり、さらに別の者にとっては、結局はただ他の者たちの声によってかき消されてしまうのである。人々は彼の主人公たちと論争し、あるいは彼らに学び、あるいは彼らの思想を完結した体系にまで発展させようと試みる。主人公は、そのイデオロギーに関しては権威ある自立した存在であり、自らの確固としたイデオロギー概念の創作者として受け止められているのであって、作者ドストエフスキーの総括的な芸術ヴィジョンの生んだ客体として捉えられているわけではない。批評家たちの意識にとっては主人公の言葉のまっすぐで掛け値のない意味が小説のモノローグ的な平面を斬りさき、直接の答えを要求しているのである。あたかも主人公は作者の言葉の客体ではなく、れっきとした価値と権利を持った自らの言葉の担い手であるかのように。
B・M・エンゲリガルトは、ドストエフスキーに関する言説のこのような特性を、次のようにきわめて正確に指摘している。

ドストエフスキーの作品に関するロシアの批評を読んでいてすぐに気づくことは、少数の例外を除いて、批評がお気に入りの主人公たちの精神的レベルを越えていないことである。批評が当面の批評対象を支配しているのではなく、批評対象がすっかり批評を支配してしまっているのだ。批評は依然としてイワン・カラマーゾフラスコーリニコフやスタヴローギンや大審問官に学ぼうとして、主人公たちを困惑させたのと同じ矛盾に困惑し、彼らが解き得なかった難問の前で立ちすくみ、複雑で苦悩に満ちた彼らの経験に対してうやうやしく頭を下げていのである。

J・マイヤー=グーフェも同様な観察を行なっている。

いったいかつて『感情教育』[フローベール]の中の無数の会話の一つに自ら参加しようと思い立ったような者がいるだろうか? しかるにラスコーリニコフとは我々は議論を交わす。いや彼のみではなく、どんな端役ともだ。

ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)

ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)

これが有名な、「ポリフォニー」である。バフチンは、その多様な主人公たちの思想が、ドストエフスキーの作品の中で、「共存する」事態を、重視する。例えば、村上春樹の小説を考えてみればいい。どの作品の「自分語り」も、まるで作者の生き写しである。気持ち悪いくらいに、作者のエゴイスティックな自意識に満ちている。悟りすました作者の「達観」は、どの作品を読んでも、瓜二つ。
ドストエフスキーの作品にしたところで、外見的にその形式をとっていない、というわけではない。違うのは、その「非連続性」である。各登場人物は、それぞれに少しずつ、作者の思想とは違っているし、その違っている、ということこそ本質的である。
一体、この事態をどのように考えたらいいのだろうか。例えば、『カラマーゾフの兄弟』において、イヴァン・カラマーゾフとアリョーシャ・カラマーゾフは、兄弟でありながら、まったく、違っている。生き方からなにから。事実、彼ら二人は、作品の中においても、深刻な思想的対立を演じることになる。
しかし、それは、各作品においても、変わらない。それぞれに、深刻な対立をもたらすような、思想的違いを示す。
では、誰が作者なのだろう。いや、どれも、ある意味、違っているように思える。いや、そういうふうに言うのではなく、むしろ、バフチンは、そのように捉える、という表現の方が正しいのかもしれない。バフチンは、ドストエフスキーがそのように意図している、と考えた、ということなのだ。問題は、それが成功しているかどうか、ではない。
それにしても、なぜ、ドストエフスキーは、このようなスタイルを選んだのであろうか。そこには、やはり、「そうすることによってしか捉えられない、世界があるから、ではないだろうか」。
(つい最近このブログで書いたように)ライチョウの、白い羽と、黒褐色の羽は、「共存する」。いつまでも、その割合の分布は変わらない。淘汰されない。雌雄が決しない。この事態は、私たちを困惑させる。この世にあるのは、強い者と弱い者の二者択一じゃなかったのか。そして弱い者は強い者に滅ぼされることこそ「運命だったのではないか」。もちろん、相手はてごわいのだろう。時間がかかるのはしょうがない。でも、きっと、いつか。人類終末の、その日、この努力が報われる日が来るはずだ。ところが、どんなに待ってもその日が訪れることはない。なぜなら、「お互い必要だからだ」。
(どうだろう。この構造が、宗教における、善と悪の二項対立に似ていないだろうか。経済学には、実は、宗教が混じっていないだろうか。私は、むしろ、新古典派経済学のあの、単純化された経済モデルにこそ、キリスト教宗教道徳による「汚染」を感じる。)
同じことが、ドストエフスキー作品群における、各登場人物各自がもつ、イデオロギー的な傾向性にも言えるであろう。それぞれは、単純に他が他を「駆逐する」という性格のものではない。エリート主義者、天皇主義者、優生学主義者、経済原理主義者、...。はたまた、平和憲法主義者、民主主義万能主義者、マルクス主義者、地方分権主義者、...。彼らはそれぞれ、自分の思想が、いずれは、「勝利する」と信じている。大衆はバカでマヌケだから、私の思想の無謬性に気付かない。その姿こそ、『罪と罰』の、ラスコーリニコフに典型的に示される。彼が、自らのナポレオン主義を、どれだけ、絶対無謬なものであることを確信すればするほど、彼自身の現在の姿、つまり、それを考えているその場所が、汚い安アパートの屋根裏部屋、という「小宇宙」であることが、喜劇的んまでに強調される。
ドストエフスキーがモノローグ作家でない、という表現が正しくないことは、『地下室の手記』を読めば、分かる。むしろ、過剰なまでに、モノローグ的である。しかしそれは、分裂している。言わば、そのモノローグは、内側から語られない。外から照射される。『地下室の手記』において、相手をどんどん先回りして、語るこの姿は、強迫的であり、神経症的でもある。しかしそのことは、村上春樹の小説の主人公にも起きているはずなのだが、こちらでは、このような特徴を描き出せていない。
ドストエフスキーの各作品群に登場する、それぞれの人物は、それぞれ、各自の「出自をもち」各自なりの確固とした、思想をもつ。それは、彼らを構成するバックグラウンドを考えれば、それしかないとでも言わざるをえないような、必然があるのかもしれない。そして、彼らに共通した特徴として、それらの各自の、その思想をもつがゆえの「深刻な思想のアポリアとの、絶望的なまでの対決」と直面せずに逃げることができないことだ。彼らは、それぞれで、そのアポリアと「対決している」。その真剣勝負。自らの実存を賭けたその勝負は、そう簡単に答えがでることはない。
ここには、明らかに、ドストエフスキーの世界観が反映しているように思える。このポリフォニーは、作者の描く、この世界の姿。まさに、マンダラ、である。作者は、その思想的に多様なそれぞれを、並列することによって、「この世界の姿」を逆に、投影しているのであろう。
掲題の、エンターテイメント小説において、一体、誰が主人公なのだろう? 著者は、第一巻の、あとがき、において、だれかを主人公として、固定するスタイルをとらなかったことを、ある映画の影響から、着想を得ていることを語っている。
私たちは、小説において、村上春樹のような、ああいった「私小説」の方が、高尚な文学だと考えがちだ。自らの「独我論」を、ばか正直に、「科学的」にアプローチするなら、自らの視点を固定するスタイル以外に、真摯な態度はありえないのではないか。これは、ミステリ小説の正統さ、とも対応している。そして、こういったものと対比されるものとして、大衆文学の「神=作者」語り、の世界がある。そして、前者は後者より、高尚である、とされる。しかし、前者では、「描けない真理」があるとするなら、もし、その真実を描こうとするなら、我々には、純文学スタイルにこだわることは、もう一つの欺瞞なのかもしれない。
掲題の、エンターテイメント小説において、たしかに、主人公はいない。いや、たくさんいる、という表現の方が正確であろう。しかしそれは、私小説的な表現からは矛盾でしかない。著者も、その「マンダラ」を描こうとしているのだろう。ただ、例えば、バッカーノ・シリーズには、分かりやすい、「トリック・スター」が存在する。アイザックとミリアのコンビである。二人の発言や行動は、まさに「マンガ的な」非現実的ばかっぽさ、があるが、各登場人物たちは、この二人に出会い、「感染」することによって、日々の日常の合理主義的な自意識の殻が、「混乱し」不規則な動揺を見せ始めることが、一つの主旋律となっているように見えなくもない。

「ああ、そうか...そうだったよな...あー......俺はさ、アイザック・ディアン」
「えっとね、私は、ミリア・ハーヴェント!」
一瞬、二人が何を言っているのか解らなかった。それが彼らの名前だという事に気がついて、慌てて単語を悩に刻み込む。アイザックとミリア。
「あ......私は......エニス。名字は無いの......ただのエニス」
「そっか、名字は無いんだ。変わってるなあ」
「覚えたよ、エニス、エニス、エニスだよね?」
子供のような笑顔を見せる二人に軽く手を振って答えると、エニスは車を発進させた。
ミラー越しに、二人が小さくなって行くのが見える。
何かを叫んでいる。エニスは耳を澄ましてみた。
「またなー!」
「また会おうねー!」
その声を聞いて、思う。
自分も、彼らとまた会いたい。恐らく無理だろうが、できる事ならもう一度だけでも。
短い出会いだったが、あの二人だったら何度でも会いたい。
そう思った時、彼女は本当に...少しだけ笑った。作り笑いではない、自然な笑み。
自然に笑う事は、彼女にとって初めての体験だった。
それに気がついた時、彼女は少しだけ泣いた。
バッカーノ!―The Rolling Bootlegs (電撃文庫)

エニスは、18世紀に錬金術によって不死の体を手に入れて200年を生きるセラードと、人間から彼によって作られた「キメラ」である。エニスも不死ではあるが、セラードが彼女を殺すことは、(自分の一部という理由から)「そう思えば」死ぬという設定になっていることが、彼女の従属感、無常観を形成している、という設定になっている。不死は不死者を手の先から吸収することにより、相手の知識を受け継ぐ(この辺りは、デスノートを思わせるような、SF的論理的設定だ)。エニスも一度、それを体験した頃から、たんなるロボットのようなコピーから、複雑な人間の煩悶に悩むようになる。そんな彼女の「幼い」感情は、アイザックとミリアの、「非常識な」村作法に戸惑うと同時に、ここから、彼女は今までではありえなかったような、不規則な行動を行うようになる。
そういう意味でも、バフチンが、カーニバル化を、もう一つのドストエフスキー小説群の特徴として指摘したことは、うなずける。この現代の、村共同体から抜け出し、都会に働きに来ている、私たちには、「根っこがない」。村共同体内部で、通用した常識は、この都会では、普通であることは、保障されない。あらゆることは、非決定である。なにが常識なのか。そもそも、この都会空間において、常識はないのだ。そんな、アナーキーな空間で、まったく、村作法を共有しない、全然出自の違う村から出てきた二人が出会ったとき、一体何が起きるのか。それは、一見、「悲劇である」。村上春樹的な自意識から見るなら、そう言うしかない事態であろう。しかし、ドストエフスキーのこのポリフォニーから言うなら、それは、まさに喜劇そのものである。まったく、お互いの作法が、からみ合わない。衝突し、すれ違い。花火のように、軋轢だけを残し、まるで、毎日がカーニバル、祝祭のような様相を示す。
掲題の著者による、最新のデュラララ・シリーズにおいて、折原臨也(おりはらいざや)は、自殺志願者サイトにつられ、やってきた二人の女子高生をからかう。

愛だよ。君達の死には愛が感じられないんだ。駄目だよ。死を愛さなきゃ。そして君達は無への敬意が足りない。そんなんじゃ、一緒に死んではやれないなあ
女の一人が、最後の力を振り絞って臨也をにらみつけた。
「絶対......許さない! 殺して......やる......!」
それを聞いて、臨也はことさら嬉しそうな表情になると、女の頬を優しく撫でてやった。
「大変結構。恨む気力があるなら生きられる。凄いな俺、君の命の恩人じゃん。感謝してくれ」
女の意識が完全に無くなったのを確認して、臨也はこめかみに片手を当てて考える。
「あー、でも恨まれるのは嫌だな。やっぱ殺しておいたほうがいいかもね」

デュラララ!! (電撃文庫)

デュラララ!! (電撃文庫)

自殺をしようと、集まったはずの、この女子高生は、そのはずなのに、臨也を恨む。今から、お前は死のうとしていたはずなのに、彼女たちは、その折原臨也という、あまりにも奇妙な存在との遭遇によって、困惑する。
彼女たちの村作法からすれば、彼女たちの今の境遇は、「自殺にふさわしいのだろう」。ところが、そうやってネットで呼びかけて集まった3人の一人、臨也が「裏切る」。しかし、そのことによって、その女子高生たちは、怒りに震える。このことは、彼女たちが、「別の文脈においては」生きることを選んでいたことを示している。彼女たちが、自死を選ぼうとしたその作法が、非常に慣習的であった可能性を示していると言っていい。つまり、彼女たちは言わば、彼女たちが生きてきた今までの村作法によって「去勢されていた」と言ってもいいだろう。そういう意味では、臨也は「何もしていない」。勝手に彼女たちが吹き上がっていると言っていい。この都会という、「カーニバル空間」においては、すべては喜劇である。彼女たちと臨也は、ほとんど会話らしい会話も成立していない。しかし、その、一度は死を覚悟したはずの、二人は、こうやって怒りに震えている(怒りは生にしがみついている姿の象徴であることは言うまでもない)。つまり、どういうことなのだろうか。少なくとも一つだけ言えるとするなら、彼女たちには「怒り」が足りなかった、ということだけは言えるのではないだろうか。臨也は「触媒」にすぎない。
この二人の女子高生を公園のベンチに残して、臨也は池袋の夜の街に消えていく(イザヤという名前が、聖書から来ていることは言うまでもない)。