青木高夫『ずるい!?』

ホンダの社員として、著作活動を続ける掲題の著者による。ルール論。
なかなか、時事問題にからんでいて、多くのことを考えさせられる。
日本は戦後、サンフランシスコ平和条約の受諾によって、戦後レジームへの仲間入りが「許された」。戦後の、枠組みに「同意することによって」。しかし、その内容は、いわば、日本の戦争は「ナチスと同列である」ということである。
多くの識者が指摘するように、一部はねあがりによる、ナチスとの同盟の締結により、確かに、その色彩が強くなったことは確かであるが(ナチスと同盟するということは、ナチスの思想に完全に賛同すると考えられることは、戦後の常識からは、当然と言えなくもない)、日本そのものの戦争は、同じというには、あまりに性格の違うものであった。もちろん、日本そのものを世界に押し付けることの是非はあっただろうが、逆に言えば、実に、「素朴な(野蛮な)」作法であったというレベルで、そのことそのものの是非を、ナチスのようなレベルで比較することは、多くの問題をはらんでいるだろう。
ナチスは言わば、本気で「悪」を実現しようとしていた。本気で、ユダヤ人を全員殺そうとしていたし、実際に、かなりのユダヤ人が毒ガスで土に埋められている。日本の中国や韓国での作法はかなり、野蛮なものだったかもしれないが、上記と比べれば、「悪のレベルが違いすぎる」。日本が主張していたのは、日本民族の優越であって、それは、つい最近までの、被差別部落や武士と庶民の差と同様、身分の違いを要求するものであり、それまでの時代と、そう違っていたものと考えることもない、とも言える。
言わば、ナチスの悪は「マジだったのである」。悪の親玉。悪の中の悪。その覚悟がハンパねえ。これに比べれば、日本のやってたことなど、前時代の慣習の延長にすぎないと言えなくもない。
しかし、力勝負に勝つとは、こういうことなんだ、という考えもある。もしあのまま、ナチスが戦争に勝利していれば。原子力爆弾を完成させたのは、アメリカだったが、ドイツから移民したユダヤ人も関係している。そういう意味からも、その爆弾の完成が、なぜドイツでなくアメリカだったのかは、それほど明確な理由があったわけではない。ナチスが負けたのも、ソ連が連合国側に「なぜか」ついたから、それだけだ、という学者もいる。もちろん、スターリンが「ナチスの悪が許せなかった」などという人道的な理由で、それを選んだ「はずがない」(そんなことは、戦後、スターリンがやったことを考えれば分かる)。
しかし、そんなナチスも、以前に書いたように、自分たち、アーリア民族への「福祉」だけはムチャクチャ充実していた。結局、ドイツ内のユダヤ人も富者は、勝手に国外に逃亡するのだが、貧しいユダヤ人はドイツ国内にとどまるしかなかった。ナチスも、そういった貧しいユダヤ人の扱いに困り、ナチスの管轄範囲外の国々に、「売ろうとしていた」ということを前に書いた。しかし、そんな貧しい人々を、わざわざ、お金を出してまで、受け入れようとする国はなかった。もちろん、このナチスの判断に疑問を呈することは当然である。しかし、アーリア民族への福祉で「手一杯だというのだ」。しかも、富をもっている、ユダヤ人はさっさと、アメリカ辺りに逃亡してしまっている。そんな、貧しいだけのユダヤ人を、「養うお金など残っているわけねーだろ」。そりゃー、あんだけ、アーリア人への福祉にお金を注ぎ込んだら、なんにも残ってねーだろーな。余計な税金を使わない最も合理的な「処置」が、かたっぱしから、貧しいユダヤ人を毒ガスで穴を掘って土に埋めることだった、というわけだ。ナチスはこんなところまで「科学的だった」というわけだ。
大事なことは、ナチスの悪が、国民福祉とのトレードオフだったことだ。アーリア民族には、たらふく飯を食わせて、しかも、リゾート旅行までプレゼント。そしたら、お金なくなっちゃったー。貧しいだけで、なんのとりえもない、ユダヤ人さん、そういうわけで、あなたたちへの福祉のためのお金がないってわけですんで、この世から、消えてくださいねー。アーリア人たちは、さぞ、うまいもんたらふく食って、リゾートで、きゃぴきゃぴ水着美女と遊んで、極楽気分だったんでしょーね。
少し、話が脱線してしまったが、しかし、いずれにしろ、戦後レジームが、どんなに欺瞞的に思えたとしても、嘘に塗り固められていると思っても、それを受け入れることを「選んだ」ということなのだ。有名な話であるが、カール・シュミットが考え始めるのは、ドイツの第一次大戦での敗北の後の、戦後の枠組みへの不満からであった。そういう意味で、世界は今だに、「戦後処理というものが、どういったものでなければならないのか」の、知に辿り着いていない。
日本では、戦後、そういう意味での、日本人の「たてまえ」志向がさらに突鋭化してきたように思える。日本人は、本音を人前で表明しない。戦後レジームが「嘘で塗り固められている」ことを、だれもが知っていながら、こんなものちゃんちゃらおかしい、と言えない。言ったら、「角が立つ」。では、どうしてきたか。名を捨て実を取ってきたのだ。
日本にとって、なによりもの課題は、国が貧しかったことであった。国民は、ごはんを食べないと、明日の、飢え死に、が目の前に迫っていた。だとしたら、どうしたらいいのか。世界が日本人をどう見ているかを、気にしない。無視する。どんなに侮辱されても、どんなにさげすまれても、聞こえないふりをする。得意の「へらへら笑い」だ。日本人の顔には、笑顔がへばりついている。いつも笑顔の、なになにさん。なに言われたって、へっちゃらさ。明日のごはん。それがあれば、うちの、かわいい、ちびたちに、たくさん、うまいもん食べさせてやれるんだ。あいつらの、うまそうに食べる笑顔が目に浮ぶよ。
日本以外の世界中の人々は、そんな、なにを言われても、どんな侮辱を浴びて、自尊心をズタズタにされても、ヘラヘラな日本人を、「珍奇な動物」でも見るように、物笑いの種にしている間、そんな、日本人の覚悟は「マジだった」。あらゆる不満を押し殺し、どんな不公平もいつかきっといいこともあるさと忍従して、脇目も振らずに、前だけ見て突っ走ってきた。あっという間に、GDP世界第二位。アメリカにつぐ世界で二番目に発展した国になっていた。
しかし、そーなると、世界は困るのである。
変な子ちゃん、とからかってきた「いじられキャラ」が、立派にセーチョーしちまってんじゃねーか。いつまにか、俺の方が使えない、いらない子、になり下がっちまってやがる...。こうなったとき、一番てっとり早い方法は、「ルールを変える」ことだ。とにかく、「日本人だけ不利なルールにしちゃう」。どーせ、バカでマヌケな日本人は、文句も言えない、なんにも言わず、いつもの通りの、ヘラヘラなんでしょ。
ルールが変わる、ということは、どういうことなのだろうか。日本人は、自分がルールの決定者になる、という慣習がない。ルールは、「お神」が決めることであり、自分がその決定プロセスに入るなど、恐れ多いと思っているということらしい。

2009年9月、毎年、スイスで開催される世界経済フォーラムダボス会議」の概要を説明する講演会が東京で開かれたので出席してみました。
講演のパネリストであり、またダボス会議を主催するワールドエコノミックフォーラムの理事でもある竹中平蔵氏は、最新の情報が入手できるうえ、ルール・メーキングの最先端でもあるこの会議に、日本の経営者の出席が少ないことを残念がっておられました。
ダボス会議というのは、出席した企業の経営者や政治家、学識者などが、個人同士でフリーな討議をする場で、ある意味、個人の実力も問われる会議です。良くも悪くも、スタッフの作った原稿をトップが読み上げるだけの日本式の会議とは正反対の性格を持っています。

竹中さんの言っていることは、一理ある。しかしこのことは、ルールというものが、実に、権力闘争の場として使われやすいことを、逆に、照射している。たしかに、ルールの改悪は、多くの局面に影響を与えることを考えれば、決定プロセスへの参加は重要に思える。しかし、よく考えてみると、これはおかしい。なぜなら、庶民はみんな、自分の仕事をかかえ、忙しいのだ。どっかの学者のように、一日中、本を読んでいるわけにもいかない。だとするなら、ルールなるものを、どう考えたらいいのか。
この事情は、郷原さんが指摘する、コンプライアンスの話に酷似している。ようするに、あまり、枝葉末節にこだわらないことなのだ。そんな部分は、たいてい、ゴミ・ルールだ。ルールは、その「基本原理」の理想的コンセプト、その考え方だけを理解して、普通に振る舞えばいい。それで、おかしいと言ってくるなら、「そう言ってくる方がおかしいのだ」。どんなに枝葉末節の、一言一句に違反している、と鬼の首をとろうと、そもそも、枝葉末節が、そんな分厚いことの方が「間違っているのだから」。ルールとは、違反するためにある。そして、違反してるじゃねーか、と言ってくる奴には、こう言ってやればいい。「でも、基本理念には合ってると思いますから、その枝葉がゴミなんでしょ」。
たとえば、掲題の著者は、自分の体験を、こんなふうに語る。

この話で思い出したのが、私が海外の販売会社に自動車を輸出していた時代のことです。私の会社では、販売会社に対しある種の掛け売りをしていました。つまり、即金ではなく、あとで代金を受け取る保障を得たうえで、先に品物を渡してしまうのです。
先に品物を渡すわけですから、販売店の規模や経営状況に応じて、売掛金合計の上限が決められていました。これは経理部門が販売部門に課す「社内ルール」です。
しかし、ビジネスには「ここが勝負!」というタイミングがあるのは、皆さんもご存知のとおり。自動車販売なら、ニューモデルの発売時期がお客様獲得の最大のチャンスです。ここで「社内ルール」にこだわって出荷を控えたりしたら、せっかくの販売機会を逃すことになりかねません。
販売側である私の言い分は「ノーリスク・ノーリターンだよ。ここで勝負しなければ販売は伸ばせない!」ということです。そして、もちろん私は上限額を超えた売掛金を許容結果はどうなったでしょうか?
当時のボスたちの裁定は見事なものでした。
売掛金の条件は平時のスタンダードだ。そこを目安にして、あとは状況に応じた判断をしろ」、つまり「社内ルールは状況に応じて柔軟に運用するように」という意思決定があって、まだ若かった私は「やった!」とある種の感動を覚えたものです。

ようするに、原則論と、マニュアルの差と言ってもいいのかもしれませんね。リーダーがマニュアルの隅々に精通しなければいけない社会は、悪夢そのものでしょう。
掲題の著者は、たとえば、さまざまな、国際ルールの変更が、必ずしも、日本バッシングと決めつけられない面がある、ということを強調する。
たとえば、長野オリンピックにおいて、スキーのジャンプが、日本があまりに強すぎたこともあり、その後すぐに、ルール改正が行われた。その「たてまえ上の」理由は以下である。

この「BMIルール」、それ以前の、板の長さは身長プラス80センチ以内という「80センチルール」を変更したものですが、なぜ、国際スキー連盟がルールを変更したかというと、「80センチルール」では、極端な減量をして飛距離を稼ごうとする選手が続出し、選手の健康を損なうおそれが出てきたからです。

変ですね。「ほとんどの」スポーツが、身長の高い人が有利だ。日本人が、そのため、どれだけ苦労してきたか。身長の高い、手足の長い世界の人たちに対抗するために、どれだけの苦労をして、ジャンプ力を伸ばしたりしてきたものか。ところが、「たまたま」身長がそれほど有利でない競技があらわれると、「ダイエットして困る」だってさ。
いずれにしろ、それだけ欧米において、スキー競技は、重要だったのだろう。メダルが取れなくなることで、スキー人口が減りでもしたら、リゾート観光から、さまざまな所で影響がでる。
しかし、ある意味、アマチュアスポーツは、そうはいっても、落ち着くところには落ち着くと言えるのかもしれない(上記のジャンプの例でも、それが「本当にフェアなら、よりおもしろくなるのでしょう(そうなりゃ、どうせ、また、ダイエットが始まるんでしょ)。問題は、その境界線が明らかに、恣意的だったからで)。なぜなら、競技は「おもしろくなければならない」というのが、絶対条件だからである。
柔道の国際化にしても、たしかに、外国選手の技は、ほとんど、足取り系だった。世界中の格闘技において、それは常識的な技だったからだ。しかし、そのため、ほとんどの試合が、袖と衿をつかんで組み合うことがなくなってしまった。よって、ほとんどの試合で、選手が使う技が、「捨て身」系になってしまった。このことは、その競技のルール設定になにか問題があったと考えるべきである。
サッカーが、パスだけの試合になったとしたら、多くの人は、それはなにか「違うスポーツ」だと思うだろう。おもしろくなくなるのである。
サッカー日本代表が、東アジア選手権で惨敗しても、岡田さんが解任されなかったことが、ずいぶんと揶揄されているようですが、私は、あれで逆に、解任できなくなったんじゃないかと思った。闘莉王が、ゴール前で、韓国選手が勝手に倒れて、レッドカードを受けてたでしょう。あれだけ痛がってたのに、レッドカード出たら、韓国選手、ガッツポーズ。韓国に帰れば、英雄なんでしょ。日本選手は、なんとか、韓国選手に怪我をさせられて、選手生命を短かくなることだけは、避けていた印象がありましたね。韓国は、徴兵制があるし、今でも、日本は仮想敵なのでしょう(いずれにしろ、岡田さんは、選手の招集にはかなり、フェアにやってきたんじゃないでしょうか。選手の個性を尊重するタイプの指導者であることは間違いないんでしょう)。
今回の、女子のフィギュア・スケートも同じようなことが言えるかもしれません。ルール変更の前まで、キムは浅田にずっと勝てませんでしたが、ルール変更から、それは逆となりました。
このルール変更の特徴は、二つ指摘されています。まず、非常に点数の採点方法が細かくなったことです。それによって、一見フェアになったように思えます。ところが、3回転半や4回転の点数が非常に低く抑えられる結果となっています。
細かなルールの設定は、その競技の自由度を奪います。難しい技は、世界でも、一部の人しか演じられません。また、その大技への集中も必要なため、他の小技の数の減少という結果になります。しかし、そういう難度の高い技術にだれも挑戦しなくなれば、その競技自体が衰退していくでしょう。チャレンジャーを賛嘆をもって迎えない世界は、ドリブルのないサッカーのようなものです。
フィギュアは、細かく技に点をつけ、さまざまに義務を課したがゆえに、だれも、このアマチュアの世界で、「新しい技」を開発したり挑戦しなくなります。そんなことをしたら、逆に「反則」にでもなるのでしょう。よけーなことすんじゃねーよ。
ルール変更が民主主義的に行われれば行われるほど、こういう喜劇が起きます。なぜなら、こんな、まるで修行者のような、困難なウルトラCは、だれも、最初から挑戦しようとすらしないから、ですね。こんなことを、非力な女子がやろうなどと思った時点で、「変な子」扱い、仲間外れ、です。すると、こんなことをやらせてるのは、日本くらいですから、1対多数で、こういう結果になる、というわけです。
しかし、これは、よく考えると変な話です。浅田が今回、一人だけ、その技ができたし、成功させた、というなら、まず、他の選手たちは、その一点において、彼女に勝てていないことを意味しているわけでしょう。その状況で、「でも私は浅田より成績が上よ」と言うことには、なんの意味があるのでしょうか。自分は、3回転半はできないけど、それと同等の、他の人ができない技で勝負した、というのであれば、納得もできるでしょう(4回転のような)。しかし、そういうわけでもない。だとするなら、「なにを勝ったのでしょう」?
こういった問題を解決しているスポーツが一つだけあります。大相撲です。ここでは、あまりにも、格が上位になった選手は、「横綱」という地位に坐らされます。もちろん、それ以降も、やることは変わらないのですが、ある種の特別扱いを「世間も含めて」するようになる、ということです。
今回のルール変更はあまりにも、ルールブックをぶ厚くしたために、もう一つ、奇妙なルールをすべり込まされてしまいました。審判の採点は、非公表、そして、そのうちの何人かが採用される(決勝の審判に、日本人はいなかったが、韓国とカナダは普通に入っていたことが報道されてますね)。
しかし、こういったルールの話は、実際に競技した、選手には関係ない話だ、と考える立場もあります。しかし、私は、キムのショートプログラムには、いい印象を受けませんでした。もちろん、007はハリウッドを代表するような、アメリカ大衆文化そのものであり、カナダでの大会で、ポピュリズム的な称賛を浴びるかもしれません。しかし、007は、ご存知のように、かなり、アダルトな大衆エンターテイメントです。ジェームズ・ボンドは、毎回毎回、かわるがわる、違う女をたらしこんで、「必ず」ベットシーンがある。あきらかに、審判団のような、上の世代の男たち向けのアピールの印象を受けます。キムが演技中、さかんに、流し目をして、にやにや、しているのは、フェミニズム的にも、男社会にこびる女の姿を思わせ、気分が悪くなります。オリンピックは、むしろ、子供たちのものでしょう、子供が夢みる世界のはずです。最後のピストルのポーズも、今でも、世界中で多くの子供たちが、戦争にまきこまれ、苦しんでいることを考えれば、悪い冗談にしか思えません。こういうことは、プロになってから、いくらでもやればいいんじゃないでしょうか。世界中の男を、挑発したらいいんじゃないんですか。やりたきゃ、勝手にやってください。いずれにしろ、オリンピックという子供の夢の舞台で、こんなことをやられるのは、下品だと思ったというだけです。
浅田は確かに、失敗がありました。しかし、それは、あのプログラムを考えれば納得です。長い間、この世界をひっぱってきた、ロシアを代表するコーチが、自身の集大成として、「彼女以外にこのプログラムを演じきることはできない」と用意したものです。その複雑さは、NHKの特番でやっていた通りでしょう。
そのことで、そのコーチのプログラムが、今の採点方式に合っていなかったことが、敗因だという「たわけ」がいるそうですが、ちゃんちゃら笑止でしょう。そのルールを作ったやつと、彼女のコーチ、どっちが格が上でしょう。こんなゴミのようなルールを作る方が、どうかしてんでしょ。
しかし、逆も言えます。「オリンピックに間に合わないかもしれないくらいに難度が高かった」ことは、ある意味、最初から分かっていたが、彼女の今後を考えて、選んだプログラムの一つだった、ということなのかもしれません。
(ですから、多くの選手は、金メダルを目指して戦ってきた、と言いますが、メダルというカテゴリーは、選手たちの実力を図るバロメーターと考えるべきではないでしょう。日本の3選手は、それぞれに、チャレンジして、失敗もあったが、地力は段違いだったから、みんな入賞した。めでたい結果ですね。)
確かに、彼女がキムに劣っていた部分もあったのでしょうし、一部の失敗も残念でしょうが、本来、オリンピックとは、そういう所でしょう。チャレンジすることこそ、価値があるのであって、それだけ、高い壁である、芸術だということなんでしょう。ラフマニノフの、前奏曲「鐘」は、NHKの特番でもあったように、非常に重厚な暗い曲であり、今までの浅田のイメージにはなかった。しかし、ロシアにおいて、「鐘」がなにを意味しているのか、知らない人はいないでしょう。ロシア革命での、ロシア正教の弾圧をイメージさせるものであり(そのとき、多くの鐘が壊されたんだそうです)、鐘は、まさに、ソ連時代のスターリンなどによる、民衆弾圧からの、ベルリンの壁の崩壊から始まる、民衆の解放を意味しているわけですね。彼女がプログラム中で、非常に深刻な表情をする場面があるのは、民衆の弾圧による苦しみを表現しているそうで、そう簡単に民衆の苦しみは解放されない。そう簡単に、このプログラムは完成しない、ということなのでしょう。だからこそ、完成したときの喜びは、いや増すわけでしょう。
いずれにしろ、浅田は、オリンピックでの、一つのプログラムに、二つの、3回転半という、女子では、だれも行ったことのない、前人未踏の荒野に一人足を踏み入れたということなのでしょう。個人的な、満足感はあるんじゃないですかね。
彼女が、ミョンウォルのように、師の舞譜を破らなかったこと、最後まで、この前奏曲「鐘」にこだわったことは、よかったんじゃないんですかね。以前、私がこのブログで書いたことと矛盾するようですが、コーチへの信頼感は、長くこの世界をひっぱってきた、ロシア・フィギュア・スケートへのリスペクトでもあるし、子供の頃から、あこがれてきた、オリンピックへのリスペクトでもあるのでしょう。このプログラムが「今のルールから考えて」得点が伸びないのに、リスクばかり大きい、などという、さかしらな、浅知恵で、師の舞譜を破ったら、興醒めでしょう。ミョンウォルも師の自殺の後、苦しみますね。そりゃあ、お互いが信頼し合えて、リスペクトしあえる方がいいに決まってますね。