萱野稔人『暴力はいけないことだと誰もがいうけれど』

みなさんは、この本を読んで、どう思われたでしょうか。
前半は、ナイーヴな印象でしたが、後半は、なかなかおもしろかった(そういう意味で、前半は、ない方がいい)。
武器こそ、国家そのものと考える、著者は、そういう意味で、国家の萌芽は、「あらゆる」場所にある、という。

要するに、国家をうみだす暴力の運動というのは社会のどこにでも転がっているわけですね。
もちろん、いまの社会では、合法的な暴力を独占している国家がそうした動きを取り締まり、非合法化しますので、それらの動きが実際に国家へと結実することはありません。しかしそうした動きを取り締まる国家の暴力の実践がなければ、それらの動きは必然的に国家をうみだすことになるでしょう。つまり、国家がなければ国家ができてしまう、ということです。

そういう意味では、あらゆる共同体は国家だと言っていい。国家でない、共同体はない。著者の言う国家とは、あらゆる共同体のことを言っていると考えていい。

国家があろうとなかろうと私たちは必然的に暴力の問題に対処しなくてはならない以上、考えるべき問題は、どのような仕方で暴力に対処するのが私たちにとってもっとも望ましいのか、ということになります。

共同体の存在しない、世界を思い描くことは難しい。それは、人間社会に武力がなくなることを、想像することの難しさと、イコールである。
著者にとって、問題は、どうやって、人間の叡智によって、武力を人間がコントロールできるか、にかかっている。それに関して、著者は、武力は次の方法によって扱われるしかない、という。

私たちは暴力に対処するといっても、じつは原理的には三つのなかからその仕方を選択するしかないのです。整理してみましょう。
1. 合法的な暴力を独占する国家をつうじて暴力に対処するという仕方。
2. 合法性はもっていないがその地域を実効的に支配する暴力組織に守ってもらうことで暴力に対処するという仕方。
3. 自分たちで暴力を組織し行使することによって、自力で犯罪や外からの暴力に対処するという仕方。
では、これら三つのうち、どの仕方がもっとも望ましいでしょうか。
それは明らかに 1. の、国家をついじて暴力に対処するという仕方ですね。
なぜかといえば、まず、3. のように自力で暴力の問題に対処するというのはあまりにつらいことだからで。
たとえば私たちがある集団に襲われた場合、3. の仕方では自分(たち)で身を守るなり反撃するなりしなくてはならず、もし相手のほうが強ければどんなにひどいことをされても何も文句は言えません。

この部分が、私は、あまり賛成的ではない。著者の考えでは、武力は、どこまでも、一極集中していかなければ「安定しない」と考える。それは、逆説的だか、現代、三権分立国家のイメージの延長において、そう考えられる。国家による、世界の、武器の一極集中が起きると、普通は、その国家による、武力の好き放題の使われ方に陥ると考えられる。ところが、そうならない。そうならず、むしろ、「法による、統治に向かう」。
これは、今のアメリカを考えてみればいい。アメリカの武力は、世界でも、群を抜いて、巨大である。そのため、あまりに、差が大きすぎるため、アメリカに牙をむく国家は、近年なくなってしまった。ところが、その国の一番偉い人は、はるか昔から、さんざん、差別されてきた、非白人である。
しかし、このことは、一見、武力の一極集中は、好ましい風景に思えるが、そんなに簡単ではない。事実、アメリカによる、傍若無人な振る舞いは、ずいぶんと指摘され続けたものである。アメリカが理性的な振舞を今後も続けるかは、不定である。
であるなら、どのような世界秩序を考えるべきか。
私の立場は、どこまでも、地方分権主義となる。巨大な武力に対して、恭順の意を呈することには、同意する。そういう意味では、衛生国家に私は理解を示す。圧倒的な、武力の差には、それなりの礼儀が必要である。しかし、だからといって、武力をまったく持たない、ということとは別である。防衛的武力は、むしろ、自分たちのレゾンデートルである。少しでも、「自分たちの」武力を所持すること、つまり、「州兵」をもつことが、その地方を始めて、「独立」させる。その規模は、たとえ、小さくても、問題ではない。そういう小さいところからの、一矢報われることの積み重ねが、大国のボディーブローとなる。大きな自己主張なのだ。
上記において、国家が「法による統治に向かう」ことの重要さを記した。問題は、ここにある、と言っていい。たとえば、鳩山首相は、朝鮮学校を、子ども手当対象外にするプランを示した。その理由は、国交のない国の出身者がどんな教科書を使っているかをどこまで確認できるか、あやしいから、だそうだ。しかし、そんなことを言うなら、学校の認定をすんなよ。鳩山の公約は「高校に子ども手当」だったんだろ。金持ち私立にも、子ども手当を認定して、朝鮮学校だけ、やらん。問題は、自分が「約束」したことと、矛盾しているところにある。
これが、リバイアサン、である。

たとえば少し古い話になりますが、現代フランスの哲学者であるミシェル・フーコーは『監獄の誕生』という著書のなかでこんな指摘をしています。すなわち、絶対主義体制のフランスでは、国王殺害のような重大な犯罪に対しては、あらかじめ刑罰が法によって定められてはいなかった、と。
なぜ定められていなかったのでしょうか。それは、法によって刑罰をあらかじめ規定されてしまうと、犯罪者への制裁がそれによって制限されてしまうからです。

ときに、国家が権力を、自らの好きにする。やりたいようにする。そこにこそ、国家の本質がある。国家権力にすりよる学者たちは、国家権力が、その欲望をかなえる、理論的サポートを提供することこそ、その本質としている。
しかし、なぜ、法による支配は、比較的成功するのだろうか。
そもそも、暴力という表現は、どうなんだろう。最初から最後まで、それは、自明のなにかとして語られる。「みんな分かるよね」。なにか文学的なイメージをずっと、やりとりしている。
力というからには、物理学的な力に関係して、なにかを言おうとしているのだろう。力学、電磁気学、重力、原子力、はたまた、相対性力学、量子力学
しかし、著者は、そういうことが言いたいわけではないようだ。死刑は暴力だ。戦争は暴力だ。教師の体罰は暴力だ。
なんのことを言っているのか?
著者の主張は、次の二点の間を、行ったり来たりする。道徳、暴力、道徳、暴力、...。
しかし、それは「どこでの話なのでしょうか?」。一般に、「現場」においては、こういった表現は使われない。
例えば、法廷において、争われることは、被告が、「殺人罪相当」かどうか、である。被告が殺人罪かどうかは、裁判官が最終的に判断するが、殺人罪がなんなのかの定義などない。
たとえば、こんな例を考えてみよう。ある人が、木の棒を振り回していた。野球のバットでもいい。バットを木の枝に当てて、その感触を楽しんでいたのかもしれない。そうでないのかもしれない。よく分からないが、そうしていた。すると、そこに、たまたまいた、人にそのバットが当たり、その人が、大怪我をしてしまった。そのため、木を振り回していた人は、裁判所に訴えられた。あるケースにおいては、彼は、その人を殺そうとして、意図して、その人の頭めがけて、バットを振り下したということで、殺人罪という判決が下った。別のケースでは、彼は、まったく、その意図はなく、偶然通りかかった人にかすったが、彼には回りを注意していることは必要だったかもしれないということで、過失致死という判決が下った。また、さらに別のケースでは、そもそも、あそこでバットを振ることを責めることなんてできない、あの状況に不注意にも近づいたことの方が、あまりにも意識散漫だった、ということで、正当防衛となった。
大事なことは、上記のケースのどこにも、「道徳」「暴力」という言葉が、でてこないことと、上記の三つのケースにおいて、その裁判官が、そのどれの判決を下したのか、だけが存在する、どれが正しいかではないことだ。
だれも、人殺しがなぜ悪いのか、など「話していない」。人殺しではないのである(これは「文学」だ)。殺人罪「という無定義用語」なのである。
現代社会を定義付けるものこそ、この形式性ではないだろうか。
こういうことを言うと、この世に意味がない、というのか、となる。しかし、問題は、「意味」という無定義用語の方にある。だれかが定義する「意味」が、ほかの人に通じるということが、どういうことなのかを「定義」できない。
カントは理性というものを、突き詰めていった先に、カッシーラーも注目する、ある、形式性に行きついてしまう。カテゴリーを含めた、いわゆる、文法というやつである。これは、合理的ということが、無定義であること、と同値であることを示唆している。
他方で、カントは、実践的という表現をもってくる。これは、理論的な思考態度に、「反する」形であらわれる。

たとえば自分の家族を殺されてしまった遺族が、その犯人を復讐や処罰のために自分たちで処刑したら、その遺族は殺人罪で逮捕されてしまいますよね。
いくら大切な人を殺されてしまった遺族でも、犯人を勝手に処刑することは法的には認められていません。それが認められているのは国家だけです。

そうでしょうか。問題は、国家とは誰か、ではないでしょうか。ある警察官が市民を殺したとき、争われることは、その警官の行動に、法的な裏付けがあるのかどうか、のはずです。警官が、もし私怨にもとづいて、市民を片っ端から、皆殺しにしたとき、それは、国家権力だから「しょーがない」でしょうか。国家公務員である、公務員学者が、自分の研究成果に逆らってむかつくからと、生徒を一斉退学させたたとして、でも「国家の一部である公務員学者が国家権力でやったんだから咎めることはできない」でしょうか。そういう意味では、たとえ、警察庁長官であろうと、防衛庁長官であろうと、総理大臣であろうと、その行為は犯罪を構成する可能性がある。彼らの行為がテロリズムになりうる。
だとすると、国家の実体とは、どこにあるのでしょう?
アジアにおける、国家が、ことごとく、クーデターによって、軍事独裁となっていることは、周知の通りである。どうして、日本がそうならないと言えるであろう。日本がそうなっていないのは、たんに、今までのアメリカとの距離にあったにすぎない。経済的に緊密な関係が簡単に斬り捨てられないということもあっただろう。そして、アメリカと一定の距離をとり始めることが、この地域のパワーバランスの変化を生み出す。一瞬でなにもかも変わる。

暴力はいけないことだと誰もがいうけれど (14歳の世渡り術)

暴力はいけないことだと誰もがいうけれど (14歳の世渡り術)