高橋透『サイボーグ・フィロソフィー』

この本は、現代の工学の最先端の成果をまじえながら、すすむ、サイボーグ論とある。この本の内容の全体を考察するには、自分の準備が足りないように思う。ただ、基本的な部分での感覚の違い、とでも言いましょうか、思ったことはある。
著者は、今にも、iPS細胞が実用化するだろう、という見通しを語る。

この章の冒頭で、iPS細胞について言及したが、iPS細胞作成の技術は、今後再生医療において中心的な役割を果たすと言われている技術だ。

しかし、そうだろうか。私は、そういう意味で、福岡伸一さんの考えに共感的だ。iPS細胞は、がん細胞と変わらない、と言われている。非常に低い確率で「なにかの間違いで」がん化しなかった細胞を、iPS細胞と称しているにすぎない(そんな、「欠陥品」がそう簡単に実用化と言われても、疑問符ということだ)。
iPS細胞とは、人工的につくった幹細胞、である。おもしろいのは、その生成にさえ、がん細胞が使われることと、その生成過程で、放射能が使われることだ。
NHKでの立花さんの、がん特番でも、がん治療、などと言うが、がんがそう簡単になくなる病気ではないことが、説得的に説明されていた。
番組では、ある50年前に亡くなった人の、がん細胞が今でも増え続けている映像が紹介されていた。
がん細胞は、ある意味、「正常な」細胞である。なぜなら、生物がこの地球に生まれ、今に至る過程で、「そうあるべきだった形態」そのものだからだ。
がんに対しては、人間の免疫機能も無意味である。なぜなら、がんとは、「本来の人間そのものなのだから」。それは、排除すべき外部の異物ではない。自分自身として、むしろ、守られる。
むしろ、今の人間が、なぜ、がん化せずに、天寿をまっとうできるのか、不思議なくらいである。今この一瞬にさえ、なぜ、がん化せずに存在するのか、その方こそ、不思議な「奇跡の」現象だと言っていい。
そういった意味でも、私は、臓器移植についても、あまり過大な期待をすることには、懐疑的である。脳死状態の人から、臓器を取り出すとき、非常に残酷な印象を与えるくらいに、摘出される脳死の人が暴れる、という話を聞いたことがある。そして、そこまでして、移植された臓器が、どれくらいの確率で、生体となじむか。よく考えてみればわかる。移植される臓器は、その人にとって、本来なら「自分ではない」異物なのだ。免疫機能が、本来なら、体外へ排除するべく機能しなければならない存在である。それを逆に、自らの免疫機能を「殺して」、無理矢理、体内に「置く」。それを「なじんでいく」と表現することは、欺瞞である。決して、自分「でない」ものが、自分に変わることはない。そんなことが起きたら、まさに「キメラ」だ。それによって、たとえ、一時的に機能が始まったとして、どれくらいの期間、維持してくれるのか。
私は、こういった延長で、サイボーグのようなものも考える。
もちろん、上記のようなことは、工学的なトレーニングを受けた人たちにとって、その研究を躊躇させるなんの障害にもならないだろう。

[2005年にNHKで放送された]サイボーグ特集によれば、サリバン氏は事故で両腕を失ったが、現在では、サイボーグ技術により、「考えただけで」義手を動かすことができるようになっている。また、視力を失ったナウマン氏は、小型カメラからの映像を直接送信し、外界から視覚を可能にする「人口眼」のサイボーグ技術により視力を取り戻した。ただし、この技術はまだあまり知覚の精度は高くないらしい。さらに、脊椎損傷により四肢を動かすことのできなくなったネーゲル氏は、やはり悩とコンピュータを直接繋ぐサイボーグ技術によって、「直接」コンピュータ画面上のカーソルやいろいろな周辺デバイスを動かすことができるようになった。

ディスカバリーチャンネルが作成した『寿命100歳を実現する科学』というDVD資料によれば、悩外科医ロバート・ホワイトは、二匹のサルを用いた実験で頭部移植に成功した。ただし、この場合、脊髄が修復不能であったために、体を動かすことができなかったが、悩は生きていた。この技術を発展させて使用すれば、老いたり、病弱になった身体を若く健康ん体に交換することも可能になるのかもしないと言われている。

たとえば、「攻殻機動隊」はまさに、多くの工学系を志す若者にまさにバイブルのように読まれ、多くの想像力を刺激してきた。
サイボーグとは、人間の生に対する、さまざまな、工学的な「加工」の総称である。しかし、そのためには、人間とは、生物とは、なんのことを言っているのか、をめぐる、衒学的な議論と関係せずにいられない。
たとえば、記憶というのは、なんなのだろう。森博嗣スカイクロラ・シリーズにおいて、キルドレたちは、死しても、何度も再生する。それ、つまり、彼らが何度も再生される理由は、飛行機乗り、としての、技術を継承することのため、として作品内で説明される。

キルドレには「記憶障害」、場合によっては「人格崩壊」が特有の現象として見られる、と小説では語られている。ということは、キルドレたちは人格の境目がはっきりしないということだ。とすれば、「僕」はクサナギでもあり、カンナミでもある、と考えるべきでもありうるだろう。彼/彼女たちは特定の個体でありながら、連続体でもあるのだ。
それゆえ、『スカイ・イクリプス』に収録された短編「スカイ・アッシュ」では、クサナギがクリタを撃ったシーン、あるいはカンナミがクサナギを撃ったシーンが回想され、こう語られる。「そう、/あれは、僕だ。/僕だった。/何故、僕があそこにいる?/その自分に。/自分に銃口を向けて。/引き金を引いた記憶が、一瞬。/....../確かめにいった。/腕は、椅子から垂れ下がっていた。/デスクに回って、横に跪き。/胸から血を流し、目を閉じている、自分の姿を。/これは、僕だ。/僕だった」。違う個体でありながら、同じ個体。そしてそれらの連続体。

キルドレにおいては、問題は、唯一点、飛行機乗りの技術、の継承だけ。そうだとすると、そういった、反射系の神経回路以外の、たとえば、普通の意味での、記憶、思い出は、次の個体にとって、意味がない、とされる。また、肉体も、問題は、その技術が継承されることだと考えるなら、どういった「容れ物」だろうと、違いにそれほどの意味がない、とされる。
そうやって考えると、キルドレたちにとって、自分がなんなのかを同定できなくなる。彼らは、手段として、その、飛行機乗りの技術、をミームとした、遺伝的プログラミング的な、主体、とされるが、すると、それ以外の、人間的な特性が、なんなのかを、意味付けられなくなる。
ある、戦死した、キルドレの生まれかわりとして、別のキルドレが、その基地の補充要員として、派遣されてくる。彼は、前の戦死した、キルドレと「同等の」飛行機乗りテクニックをもつ。当然である。その戦死した、キルドレ「から作られたのだから」。唯一、その、飛行機乗りテクニックの、ミーム的な遺伝だけを目的に用意された、キルドレ
例えば、そのキルドレにとって、移植されるその、移植元の記憶というのは、どういう扱いなのであろう。比喩的に言わせてもらうなら、その削除フラグは、論理削除であろうか、物理削除であろうか。当然、論理的であろう。なぜなら、飛行機乗りテクニックだけは、遺伝しなければならないのだから。ところが、論理削除であるなら、なんらかのプログラムバグによって、容易にその状態が顔を現すことも、考えられなくない。
しかし、掲題の著者が、上記での引用で言っていることは、さらに、突き進んでいる。そうなると、もう、個体ということの意味がなくなっていく、ということだというのだ。私は、上記で、人体が、自らの異物を排除していく、免疫システムの重要さを指摘した。しかし、そもそも、各個体が、それぞれで、「差異」として考えられなくなるとき、どういった現象となるのか。みんな、相手の、「クローン」であり、なにが、オリジナルなのか、なにとなにが、違っているのか、がだんだん意味のない議論となっていく。
みんなが、同じ「前に生きていた頃の記憶」を「論理削除状態で」共有し、自らを構成する体が、「みんな自分」になっていく。共感? 当然である。みんな自分なのだから。
私は、このユートピアに懐疑的だ。
著者は、キルドレたちが、別のキルドレに、ピストルで撃ち殺してくれとお願いをして、そのキルドレが、相手に「同意し」ピストルで撃ち殺す、この(ニーチェ的な)「永劫回帰」は、上記のような、キルドレという「連続体」にとって必然、だと言う。
しかし、もともとを考えてみれば、これは、飛行機乗りテクニックのロマンティックな、ミーム的遺伝システムの構築に、すべて起因していた話であった。しかし、各キルドレは、言わば、人格的に崩壊することを必然づけられる。全員、同じコピーとなればなるほど、遺伝的な「強度」が、同質になる。これは、遺伝的に危険な状態である。同質であることは、全員がある面において、ある攻撃に対して無敵の戦闘力をみせるが、別の攻撃に対しては、「全員にとっての」弱点となり、滅亡に向かう。ハメルーンの笛吹きのねずみのように、みんな並んで一列になって川に飛び込み、自殺に向かう...。
唯一、飛行機乗りテクニックにのみ、こだわったために、生みだされた、キメラ。ということは、その、飛行機乗りテクニック、とかいう、ロマンティックな、詩的作品設定さえなければ、成立していない世界、だと言える。
しかし、これは、ある意味、現代の、工学的なテクノロジーの特徴と言えなくもない。工学的な空想は、常に、詩的な単純化に向かいがちだ。一般に、こういった同質的な「量産」に議論が流れやすいことは、一つの特徴なのかもしれない。現代社会は、このアポリアにどのような対応をしているのだろう。一つは、それを、市場のコントロールにゆだねている、とは言えるだろう。
(そういった意味では、現在のこの地球の誕生から始まる、このシステムは、よくできている。人間もそう簡単に、淘汰され、滅びないのは、自らの、再生産戦略が、それなりに、地球環境に適合的だったからなのだろう。それを、簡単に、キルドレのように、一部の優秀なエリートの量産コピーだけを残して、その他全部の人間を殺せば、世界も平和になって、地球の人間も減ってエコにも、いい、とは、そう簡単に行かないんじゃないか、ってことなんですけどね。)
そういった意味で、日本のアニメが、ことごとく、「国家公務員」として、整理されていることはおもしろい。ガンダムから、エヴァから(、攻殻機動隊、でさえ)、主人公は、国の一機関の公務員となって、働く。まるで、それが、「当然のことのように」。子供であっても、「才能が」国家公務員となることを義務付け、主人公たちは、さまざまに、挫折しながらも、実践して「パブリック・サーバント」としてのサービスを国民に提供する。
問題は、なぜ、主人公たちが、国家の「お金」で闘うことに疑問をもたないのか、にある。
国家とは、武力を独占している、共同体である、という考えを前の記事で紹介した。そういう意味では、テクノロジーもサイボーグも、つきつめれば、国家の武器である。英雄が国家公務員として、描かれることは、そういった意味からも必然なのかもしれない。
日本のアニメは、そういった意味で、露骨である。国家による、国民への徴兵制の義務化への、マインド・コントロールに満ちている。国民とは、その国家の中から、さまざまに、あらわれる非国家的な武力共同体に対抗して、この国家を守る、突撃隊の構成員であることを、期待される存在と言える。それは、たとえ、どんなに幼い子供であっても、武器として、「他に並ぶものなく」有用であるなら、大人と区別される理由はない。
モンゴル帝国には、火薬という武器があり、イギリス帝国には、蒸気船や、大砲があった。アメリカ帝国の出発は、日本への、2発の核兵器であった。
サイボーグなどといった技術も、そういったパワーポリティクスの一つの側面をあらわしているにすぎない、と言ってしまえば、今まで、人間がやってきたことと、なにも変わっていない、と言えなくもない。
国家と、非国家的共同体との、武力テクノロジーの面での、ヘゲモニー争い、という、
「終わりのない世界」。