「キディ・グレイド」

日本のアニメの一つの特徴を決定したのは、やはり「機動戦士ガンダム」なのだろう。あのアニメが、決定的だったのは、子供の扱いだったのであろう。アムロ・レイは、「たまたま」ガンダムを操縦することになる。しかし、アムロは、たまたま、操縦できただけであったが、明らかに「才能」があった。むしろ、そのことに、大人社会は、衝撃を受ける。特に、軍隊において、その差は、勝利と敗北を分けるだけに、そういった才能を有しているかどうかは、その戦局を決める意味さえ、生まれかねない。
(こういった子供にやたらと、武力的な意味が発生してしまったことは、今までも、あったのだろうか。)
ただ、ガンダムにおいては、むしろ、子供というより、「世代」に意味があった。宇宙生活に適応してく子供世代は、次第に、宇宙空間に適応した、才能を前世代にはない能力を、示すようになる。
こういった比喩が、その後の日本の若者文化と比較されて、さまざまに議論されたりした。若者は、若者文化を生み出す。若者は彼ら同士の若者言葉で話し始めたりもする。そこには独特の何かがあると考えられ始める。
しかし、問題はそこに、本質的な差があるのかにある。若者「世代」問題は、時事的な批評とも関係する。少し前まで、ゼロ世代などと言っていたものだが、そういう時代設定の切り方は、むしろ、そこに本質的な違いがあるのかが問われるべきであるのに、ゼロ世代などという名前を名乗ったがゆえに、そこになにかの意味があったかの説明をしなければならなくなる。そりゃあ、言い訳程度のネタなら、いくらでも、そこらじゅうに転がっている。学者は、その中から、適当にみつくろってればいい。しかし、先ほどから言っているように、問題は、その差が本質的なレベルなのかどうか、であろう。
掲題のテレビアニメについては、それほど、注目された、というものではなかった。ただ、このアニメの特徴は、多くの専門用語と、細かな時代設定と、いわゆる、SFサイボーグものの、設定のテンコモリであった。
(見た目の、アニメちっくな、キャラに惑わされては、日本のアニメは一つも見れたものじゃなくなる。)
主人公の、エクレールは、リュミエールを「パートナー」とする、GOTTという宇宙政府機関に所属する、ESメンバーと呼ばれる、特殊能力を専門とする組織の一員である。二人は、見た目は、若い女性だが、実際は、はるか昔から「存在」し、生きてきた、サイボーグと言っていい。体を失っても、その心(悩などの神経器官?)を別の体に移して、何度も生れ変ってきた。エクレールは、その、あまりの長い人生に絶望し、自ら記憶をなくして生きることを選んだ、一年後から、ストーリーは始まる。
作品は、そんな、エクレールの、あけっぴろげで、陽気な性格に支えられて、進む。しかし、なぜ、彼女は自らの記憶を消したのか。それは、今の世界に矛盾を感じたからだったのだろう。実際、第1部第11話において、この世界が、「ノーブルズ」という、純粋、地球人によって支配されていることが描かれる。彼らは、この全宇宙に、生活圏を広げた人々のうち、たかだか、何百万人しかいない、いわば、貴族として、世界を支配している。エクレールは、彼らノーブルズが、それ以外の人々を、まるで、虫ケラのように扱う姿を見て、疑問を感じる。ところが、GOTTの指示は、ノーブルズに絶対服従である。エクレールは悩みながらも、ノーブルズに半旗をひるがえす。
しかし、そのことは、GOTTから追われる生き方を選ぶことを意味していた。国家公務員の立場を捨て、国家反逆者として、おたずねものとして、宇宙を放浪する生き方を選ぶ。
重要なことは、そんな彼女に、リュミエールが、ついてきたことであった。リュミエールも、エクレールがそこまで、この問題に入れこむことには、ちょっとやりすぎだと思っていた。しかし、なぜ、ついてきたのか。それが、この作品のキーポイントである、「パートナー」という考え方なのであろう(それについては、後述)。
それにしても、なぜ、エクレールはこんなことになってしまったのか。
「だって、ほうっておけないじゃない」
実際に、ノーブルズによって、奴隷のように扱われる、反抗組織の人々を見ていて、彼女は、自分を抑えられなくなる。
実は、彼女は、記憶を失う前、ずっと、同じようなことを繰り返してきていた。そして、何度も反抗してきたが、世界は何も変わらない。それに絶望して、記憶を自ら消した、という意味では、また、同じことを行っているといえる。昔の記憶があったままで同じことをするのと、記憶を消して、でも、また同じことをしてしまうこととには、どんな違いがあるのだろう。それは、その後のストーリーにかかわってくると言えるだろう。
今、第2期のテレビアニメ「キディ・ガーランド」が放送されている。第1期から、何十年か後のこの世界では、すでに、ノーブルズの宇宙支配は失われ、ノーブルズは、日陰の存在にあまんじている。
GOTTが解体され、新しく組織された、GTOのESメンバー見習いの、アスクールが、今回は主人公となり、エクリュミの二人は、今までのところ、登場していない。アスクールの「パートナー」が、ク・フィーユという、見た目は16歳でありながら、育成カプセルで作られた、(そこから出てきてから)7歳の特殊能力者である。
第2期の特徴は、一言で言えば、完全に前作のクールなイメージ、ぶち壊し、である。アスクールは、出自は、いいとこの子供のようだが、それまでの記憶を失い、下町のような、ところで、はねっかえり、として育った、口の悪い、自分勝手で、なんでも自分のやりたいように過す、その辺にどこでもいるような、がきんちょ、である。
もちろん、「見習い」なのだから、まだこれから、という話もあるだろうが、「そういうレベルじゃない」。
まったく、軍隊組織の規律、そういったものから来る、「がまん」のイメージが彼女には似合わない。最近の、悪ガキそのものだ。最近のオリンピックで、国母とかいう、ボーダーがバッシングを浴びていたが、それと似た印象と言えるだろう。そういう意味で、第2期は、第1期を「突き抜けてしまった」。
国母はバッシングを浴びたが、彼は、今まで生きてきて、自分の回りにあった、普通のスタイルを、この場面でも貫くことを選んだにすぎない。自らの出自を、学校秩序、軍隊秩序、アマチュアスポーツの秩序、そういったものを理由に、「捨てさせ」同色に染まることを強要することが、今までの、国家同色「統合」型の、統治作法であったが、私が主唱する、「地方分権」型統治作法においては、むしろ、各個人は、自らの出自にともなう、作法を「捨ててはならない」。捨てた時点で、お前は「お前でなくなる」。実際、オリンピックにおいて、最も注目された競技は、スノーボードであったし、そして、その世界チャンピオンの圧倒的なテクニックであった。国母も、この世界レベルを目指し争う、一競技者でしかなかった。バッシングで吹き上がってた連中とは、しょせん、この競技がどういうものか、どういったレベルに今、日本があるかすら知らない、「無知者」であり、そもそも、興味すらないのだ。そんな連中が、えらそうに作法が田舎臭いだの、余計なおせっかい。なんにも知らないなら知らないで、恥をかきたくなかったら、黙ってろ。
話が横にそれた。「キディ・ガーランド」は、完全に前作のイメージを壊して、製作者サイドが、好き勝手を始めている。さまざまな、アニメのパロディさえ、挿入してきて、制作者サイドの「趣味の世界」になっている。まさに、コミケなどの、自費出版文化における、著作権大丈夫なのか、と思わせる、キャラの風刺にあふれ、完全に、制作側の「お遊び」の様相を呈している。
しかし、この事態は、ある意味、必然だったのかもしれない。前作の主人公は、あまりに、「サイボーグしすぎていた」。あまりにも長く、体を変え、サイボーグとなり生き続け、本当に彼女たちに、私たちは、共感できるのだろうか。というより、本当にあのような中で、「人間としての、心性を維持し続けるのであろうか」。
そういった意味で、この作品の主テーマが、この問題をめぐることになることは、明らかであった。
上記でも書いたが、この作品を、首尾一貫して、特徴付けるものこそ、パートナーというアイデアであろう。
特殊能力をもつ、ESメンバーは、それぞれ、パートナーという、二人のペアとして、一緒に行動する。ほぼ、「必ず」と言っていいくらいに、彼らはペアとなる。
これは、どういった意味があるのであろう。
能力者がもつ、その能力は、ある特性に特化したものである。得意な分野をもち、それ以外の能力は、からっきし苦手。どうしても、バランスが悪い。別の、自らを「補う」能力者と、引き合っていくことは、必然なのかもしれない。しかし、むしろ、そういう意味でのペアであるなら、つまらない話に終わるであろう。この作品においては、ペアでいることは、「相性」と表現される。たんに、自らの補完ではない、ということである。独立自尊の彼ら能力者は、本来、プライドが高いはずだ。たんなる、自らの苦手など、それがどうした、と思うものだろう。たんなる能力の問題であるなら、一緒にいる理由となるとは思えない。
この問題を考えるに、分かりやすいシーンがある。第2部、第19話において、敵側の能力者トーチは、リーダーのガクトエルが、記憶を失い、敵に寝返った、ク・フィーユに、アスクールと戦うことを命令することに、複雑な感情を示す。トーチはもちろん、GTOの敵として、ガクトエルに絶対服従の恭順を示している。そういう意味で、敵が損失を蒙ることに、なんの不満もない。彼が、うじうじとこだわっているのは、パートナーについて、であった。もし、ガクトエルが、自分と自分のパートナーであるシェイドと争わされることになったら。彼は、この件によって、ガクトエルがいかに、「パートナーを大事な関係、無上のなにか、と考えていないか」を理解する。そのことで、少しずつ、ガクトエルへの忠誠心を失っていくことになる。
こういった事態は、私たちの身の回りには、むしろ、ありふれている、と言えなくもない。江戸時代において、藩のために行動するか、幕府のために生きるか、そういった選択に迫られ、悩んだ多くの武士がいたはずだ。忠誠は、股裂き状態をどうしても避けられない。もちろん、国家統合主義者は、藩など、邪魔になれば、とり潰せばいい、と考えるだろう。存在するのは、国家というリアルだけ、それ以外のなにかは、幻想であり、弱者の群にすぎない。
しかし、そういうわけにはいかない。そう簡単にはいかない。藩には、藩のリアルがある。そう考えるのが、地方分権の立場なのだろう。各自には各自のリアルがある。
二人というのは、最小の共同体である。夫婦にしても、男と女、一人ずつのペアとなる。現代は、競争社会として、人々は、差を宿命付けられる。お互い、少しずつ、成績も違う。嫉妬も生まれるだろう。実際、人生設計が違えば、将来の収入から、まっったく釣合わない事態になる。お互い、顔を合わせることさえ、難しい関係になりかねない。単純に、個が個と、特別な関係になることは、想像が難しい時代になってきた。
しかし、たとえば、スポーツのバトミントンで、オグシオなどともてはやされたのは、そこに、それぞれの、タレント性を見そめてだけではなかったであろう。二人で一緒にいることに、なにか意味を見られていたはずだ。
上記の作品は、本当に、パートナーが二人で並んでいる場面が、テンコモリだ。人が二人並ぶ姿は、長い間、人々を興奮させてきた。なぜなら、そのシンボルは、人々に「仁」という漢字を、どうしても、イメージさせずには、おかないからであろう。ノーブルズがどんなに、エクレールに自分たちへの忠誠を誓わせようとしても、ガクトエルがどんなに、トーチに自分への忠誠を誓わせようとしても、失敗する。なぜなら、彼らには、そういった、「忠」以上の価値があるから。
それにしても、第二部も終盤だが、エクリュミの二人は、あらわれるのだろうか。
「あほげ」が、つくづく、見る気力を無くさせてくれるアニメ。第一部がなつかしい(こっちはこっちで、これを見てたときは、ばかばかしいと思っていたものだが、今思えば、ずっと「まとも」だったもんだ...)。
「じゃっじゃーん」
って、そろそろ出てくるんですかね(このフレーズがみょうに癖になる)。