金容雲(キムヨンウン)『日本語の正体』

「薯童謠(ソドンヨ)」という、韓流ドラマがある。私も、けっこう前、前の半分くらいだけですが見た。しかし、その頃は、あまり、これが何を意味しているのかを考えていなかった。
土の地面に、さまざまな、木の細工品などを作る作業所があり、染料で染めた布が干してあったり。天気のよい日差しの下、若い男の子と女の子が、うぶな、恋愛ごっこを演じている...。
しかし、これを見ているうちに、あれっ、という気がしてくる。この光景はなんなんだろう...。
この作品(または、この作品が描こうとしている「世界」)が、「私たち」にとって、非常に重要な作品であることに、だんだんと気づいていきます。このドラマが何を描いているのか...。
もちろん、作品そのものは、百済の王と、新羅の女王の、子供の頃から続く、純愛物ドラマでしかありません。しかし、そういう問題ではない、ということなんですね。
日本の歴史を、まず、具体的に習う最初が、「大化改新」だと言ってしまっていいでしょう。たしかに、このクーデターは、非常に重要な意味がありました。当然、日本の歴史の「最初」と言っていいくらいの出来事だと思います。
しかし、なぜ、この事件が重要なのか。いや、この事件が重要というより、この事件の周辺が、なによりも、決定的だ、という意味です。
なぜ、白村江の戦いにおいて、日本は、百済を「助ける」ために、参戦したのでしょうか。
???
日本???
日本ではないでしょう。百済でしょう?

三国志』でなじみの深い北朝の魏と南朝の呉は対立関係にあり、百済南朝の呉に進貢しているのです。
扶余系の辰国は漢の植民地であった今日の平壌を中心とする楽波群、帯方群に対してはつねに敵対的であり、植民地解放戦争の対象でした。魏は半島内にあった漢の植民地も受け継ぎます。辰国の流れをくむ百済もまた辰と同じように魏の植民地を蚕食しつづけ魏と敵対し、魏を牽制するため南朝の呉と手を結ぶのです。
邪馬台国が魏と新羅に接近したことはとりも直さず百済と敵対することなのです。それもそのはず、百済邪馬台国と闘う狗奴国を支持していたからです。

その後150年ほどの空白があり、中国の文献に現れる応神系と見なされる倭の五王、すなわち親百済的な応神王朝が登場します。倭の五王たちは百済と同じように南朝と手を結んでいるのです。それは奴国や邪馬台国北朝に進貢していたのとは反対路線といえます。

いずれにしろ、それから、白村江の戦い、まで、親百済派が、席巻します。
しかし、それは、どういうことなのでしょうか。

梁書』には「百済には群県のような担魯[たんろ](カラ語では「タムロ」)と呼ばれるものがある。それは王の宗族が治めるもので22個ある」と書いてあります。
担魯とは封建制以前につくられていた支配体制で、中央と群県といった関係ではなく、わかりやすくいえば本店(本国)と支店(植民地・担魯)といった関係の体制でした。支配者は嫡孫以外の者に、最小限の資本を与え、ほかの土地で子会社あるいは支店を出させるのです。そして本国と担魯の間に連合制をつくるのです。

ヤマト王朝が百済の担魯で、百済をクンナラ(本国)と呼んだのもそのためでしょう。

戦後日本や韓国に来ていたG.I(米兵)が盛んに state side という言葉を使っていたのと同じです。私がはじめてその言葉を聞いたときは Unitede States のことと誤解しました。本国の意味です。

ニニギノミコトや神武東征が、まさに、これに対応することは言うまでもない。
日本海側の浜辺から海の方を見れば、天気のいい日なら、朝鮮半島が見えるはずです。「それくらい近いのです」。海のおだやかな日なら、ちょっとうまく、流れに乗れれば、簡単に、小さなボートで向こうの岸に辿り着いたでしょう。
江上波夫という考古学者の「騎馬民族説」というのが、一時期はやりました。しかし、問題は、これが正しいかどうかではなく、これが言おうとしていることの意味なんですね。日本の「ほとんどの」文化は、その当時は、朝鮮半島から来た、と考えるべきだ、ということを言っているわけです。
著者は、そういう意味でも、白村江の戦い、までは、この日本の地域では、少なくとも、日本書紀を書いたような、かなり、特権的なパワーをもっていた、人々は、ほとんど、「百済語」を話していたのではないか、と考えます。もちろん、日本書紀は、「百済語」で書かれていると考えるべきであり、今言われている、天皇家の、系統の人々のかなりが、百済の王党に連なるような、身分であったのであろう。
大事なことは、この、日本の地域と、百済の地域とが、「区別のない」同じ言語圏だった、ということを言いたい、ということなんですね。
もちろん、こういうことを言うと、多くの、現代の日本人は混乱するであろう。まるで、日本と朝鮮が、「同根」みたいではないか。それは、ある意味、当たっているし、そう単純でもないとも言える。
奈良の法隆寺は、当時の、最も進んだ、近代科学の粋を極めた結晶と言っていいが、あれは、完全に、「百済王朝」と瓜二つと言っていい。最近、NHKの特番で、百済の寺が発掘されて、それがあまりに、飛鳥の建築物と似ていることから、「恐らく、同じ、技術者が、百済で仕事をやった後に、日本に来て、同様の仕事をしたのだろう」と証明されていたが、それくらい、「同じなわけだ」。
よく考えると、百済朝鮮半島で滅びたって、普通、そう簡単に民族って滅びないものでしょう。日本で同族が生きてくれてるから、まだ、その地域の勢力をあきらめられたんじゃないですかね。
いずれにしろ、白村江の戦い、以降、状況は一変します。日本は、防人のようなものをおき、完全に、半島との関係を断絶し、むしろ、遣唐使のようなもので、中国大陸と直接、関係したりもする。全体としては、内向きの文化に一変していくと言えるのではないでしょうか。
なぜ、日本で、「薯童謠(ソドンヨ)」のようなドラマがつくられないのか。結局、本居宣長の、神(かみ)概念の解釈に関係しているような氣がなんとなくしている。神とは、ようするに、畏れ多いようなパワーを感じる相手、すべてが、その呼称の対象なんですね。そうすると、仏教だろうが、儒教だろうが、キリスト教だろうが、「神なんです」(なんか、文法的に合っちゃった)。大事なことは、天皇家の一子相伝が、「畏れ多い印象を与える」ことが大事で、そうすると、どうしても、日本の物語は、飛鳥時代を、「神話時代」のように描いてしまうんじゃないかと思うんですね。
実際、宮内庁は、必死になって、当時の天皇の墓の調査を拒んでいる。しかしね。日本中、どっか掘れば、なんか出てきますしね。自称「墓」、の回りばっかり守ってても、むしろ、そこが墓じゃないんじゃないかってことがはっきりしちゃうっていう面もある。韓国だって、掘れば、なんか出てくる。それよりなりより、日本書紀っていう、あれほどの文献が残ってしまってますからね。むしろ、天皇家の方々の方が、より過去の歴史をはっきりさせたいんじゃないんですかね。ちょっと軽々に言えることではないんでしょうが。
さて、最後は、言語の問題を考えて終わりたいと思います(この本は、もともと、言語についてのものですから)。

韓国語は現韓国人の遺伝子と同じように南方系のカラ語に北方系の百済高句麗語を融合したものですが、新羅語は南方系のカラ語中心であり、一方百済高句麗)語は北方系の要素が多く含まれています。
新羅は半島を統一し百済の地をも吸収したうえで、約200年して滅びます。つぎの高麗王朝が首都を開城(ケソン)に遷都し、平壌以北に足をのばします。このとき韓国語は南方系の色合いの濃い新羅語の上に旧高句麗語や百済語などをも組み込みます。
日本語は平安時代まで百済語中心でしたが、鎌倉時代になって新羅語を多くふくんだ東(あずま)言葉が編入されます。

日本語が訓読体を定着させたのは至極自然ともいえます。むしろ韓国語が新羅時代に一部仮名文字までつくり、多くの漢字語を受け入れながら、しかし政策的に確固たる中国化する意志から漢文を棒読みしたのは、いかにも不自然であったといえましょう。つまり唐化という国家的目標さえなかったとすれば、新羅語でも自然に訓読体を採用することができたのです。
訓読体は漢文を読むといっても日本語で読むので音韻はそのまま保ち、現日本語の音韻の量は古代とほとんど変わりません。
一方、韓国人はそれを中国式に棒読みにしてきましたので、当然多くの中国語の音韻が韓国語に編入され、古代以来吏読ではカバーしきれない音節が入りました。韓国が誇りとする「ハングル」は、それに対応するためにつくられたのです。

ようするに、日本語と韓国語と言っても「そこしか違わないのです」。著者が、日韓語という、なんだかよく分からない表現をしたくなるのも、よく分かるってものでしょう。もしかしたら、あと、何十年かの間に、日本と韓国は、もっと、急接近をするのかもしれない(あるいは、しないのかもしれない)。わからないけど、最近の、2ちゃん、などでの、罵詈雑言の応酬は、どこか、似たもの同士の印象すらある(ある部分「が」なのだろうが)。

日本語の正体―倭の大王は百済語で話す

日本語の正体―倭の大王は百済語で話す