永井均「馬鹿げたことは理にかなっている」

久しぶりに、この人の文章を読みましたけど、相変わらず変わってないですね。
ただ、ここでの文章のきっかけとなった問題の方は、深刻なだけに、デリケートな扱いが必要です。
掲題の投稿記事は、土浦の連続殺傷事件についての、掲題の著者による、2009年3月28日の「読売新聞」での、以下のコメント部分を補足するものと意図されている。

......金川被告については「人は普通生きていたい、できれば楽しく生きたいと願っているので、それを実現するためにいろいろな『生き方』を説得できるが、この根本前提がない金川被告に対しては、『生き方』の説得に効力がない」と矯正の難しさを指摘した。

この記事は、私に対する担当記者のインタビューに基づくもので、ここで「指摘した」とされている人物は私である。

土浦の連続殺傷事件については、ネット上でも、多くの裁判記事がありますので、ぐぐれかす、ですが、一言で言えば、金川真大被告が、裁判の過程で、「死刑になるために」事件を起こした(自殺は失敗していつまでも障害を抱えて苦しみながら生き続けなければならなくなる可能性があるが、死刑なら、確実に一瞬で殺してくれる)、と最後まで証言したまま、死刑判決となっていることが、さかんに話題になったのでした。
それに対しての上記のコメントですから、たしかに、いつもの、永井さん節で、ちょっと刺激的かつ挑発的ですね。
しかし、ですね。
この掲題の投稿記事を読まれたみなさんは、どう思われたでしょうか。
なぜ、著者が上記のようなコメントをしているか、は、もちろん「刑罰による抑止力論」へのカウンターパートとして、指摘しているわけですね。
これを、宮台さんの「終わりなき日常を生きろ」では、「脱社会的」と言ったわけでした。そして、こういった、脱社会的存在を「いかに生まない社会を構築するか」という命題が掲げられたわけです。
しかし、そうやって、「全体主義的にドグマ化してしまえば」、まず、永井さんも、こんなブログを書いている私も、脱社会的存在「候補」として、牢屋に隔離されることになるんでしょうね(だって、こんな変なことばっかり言ってるんですから)。
そうやって、脱社会的存在「浄化」活動は、非常に定型的な、当たり障りのないことしか言わない純粋培養「優等生」を残して、その他は、脱社会的テロリスト予備軍なので、早めに、危険分子として、社会から隔離してしまいましょー、となるんでしょ。
しかし、宮台さんの言いたいことにも、それなりに、一理あります。つまり、金川被告のような人間に、殺された、遺族の立場からすれば、「そんな存在が存在すること自体があってはならないからです」。だって、死んだら、すべてが無なんですから。人生は二度と繰り返せないのですから。
では、上記の問題に戻りますと、なぜ「刑罰による抑止力」が、重要なのか。つまり、だれにでも、その命題が、効力があるはずだと思えるから、人々は、安心して社会生活を送れているんだ、と判断しているからでしょう。
もし、その判断に「例外」があるとするなら、私たちは、そのリスクをヘッジしなければなりません。自分が死にたいがために、あえて世の中の道徳を確信犯的に破りたいがために、ナイフを持って向かってくる、金川に、私たちは自分を「防御」しなければならない。だって、死んだら、無であり、二度とその後の人生を歩めないのだから。
いずれにしろ、永井さんのロジックはいつもの「独我論」まで、つっ走る。他人に自分が殺されるのが、どんなに嫌でも、だからって、自分が他人を殺すことをやめよう、にはならないでしょ、だって、「全然違う話なんだから」。
独我論においては、自分というのは、まったく、その他の自分が知覚するものとは、「存在の形態が違う」もの、と考えられる。自分がやられたくないことは他人にやるな、といったような「双対性」が、最初から成立しない、というのがその理論ですからね。
こうやって、二つの考えの対決をしてみたのですが、どう思われますでしょうか?
私の立場から、二つの考えに共通するアポリアを一つ指摘させてもらうなら、
なぜそうでありながら、金川タイプ犯罪は、「こんなにも、めずらしいケースなのか」
となります。
もちろん、非常に確率は低くても、事態の深刻さを考えれば、その指摘はなんら、本質的ではない、と言われるかもしれません。しかし、逆も言えないでしょうか。そもそも、「死刑」になりたい存在というのは、「定義可能なのでしょうか」。
つまり、なにを言いたいのかと言いますと、「金川被告は死刑になりたい存在だ」という命題が何を言いたいのか、ということです。金川被告は「口頭や文字情報で」「自分は死刑になりたい」と言ったというだけです。口先だけなわけです。口から発している言葉があったとして、それがその人の「機械的行動原理」と、等値に扱うことは、それほど自明でしょうか。
もっと言わせてもらうなら、死刑とは、さまざまな手続きを経て、執行される、「プロセス」のようなものです。目の前の人間に、この場で、殺してほしい、というなら、かなり具体的ですが、死刑になりたい、というのは、「自分が」上記プロセスでの被告の役割を演じたい、と言っているのと同じくらいに、「煩雑な話なわけです」。
つまり、この、死ぬ直前になって、「なにかを演じるアクターとして、銀幕の舞台で喝采を浴びたい」ってなものでしょう。
こういう人間を、「死にたい」と言うのでしょうか。たんに、世の中を挑発したい、ってことなんでしょう。結果として死となることは、この挑発行為の結果であって、目的ではない。世の中を撹乱して、撹乱しきった世の中さえ見れたら、この世に思い残すことはない。そんなレベルなわけでしょう(つまり、愉快犯)。
そもそも、金川は、「国家を信じている」わけです。宗教国家としての、国家が、きっと自分に(死刑という)「福音」をもたらしてくれるはずだ。それを疑っていない。彼は自分を死刑にしなかったら、裁判所に訴える、と言ったそうですが、「お前となんの関係もない国家」がなぜ、そんな「親切なこと」をやってくれると信じているのか、ということであろう(武士なら、自らが「信じられる」介抱人に立ち合ってもらって、切腹しますよね)。
そういう意味では、宮台も、永井も、こいつと「同値」である。彼らも、国家を信じる、という前提を疑うことはない。永井がどんなに、独我論的パフォーマンスで、無垢な庶民を「だまくらかそうと」、大学教授という社会的に尊敬される職業についている「えらい」自分を、巷の、やさぐれ、パンピーに、鉄槌を喰らわされる危険から、「守ってくれる」はずだから、自分はこんなふうに、「世間の無知無能者を、挑発して」、小金を稼げるんだ。国家が自分を守ってくれないなんて思ったら、「恐くてこんなこと言えるわけねーだろ」(ちょっと、自覚的に、哲学者は、どこか鈍感じゃなきゃやれない、みたいなことが書いてありますけどね)。こんな議論をしていても、国家は自分に危害を加えないはずだ。国家が、自分たちを、金川から守ってくれる、はずだ。そして、日本は一億評論家時代というわけだ。
しかし、もっと言わせてもらうなら、そもそもの、最初の問題提起から、私は同意できないわけです。本当に、金川被告への、説得(つまり、早くの死刑を望むな、と、他人を殺すな、ですね)は、「成功しないのか」です。彼は、その話の流れで、なんらかの個人的な理由で、そういう選択をどうしてしないと、決めつけるのかですね。理由なんて、なんだっていいわけです。彼が、その二つを守ろうと、思えばいいわけでしょう。なんかのきっかけで、それくらいの事態になったって、不思議はないと思いませんかね。
ただ、永井さんは、少し、こういった問題に気付いている感じもあります。例えば、以下のような感想がでてくることからも、うかがえます。

私は人間の社会がとにかく成り立っていることにしばしば素朴な驚きを感じるが、同様に自殺者の少なさにもしばしば素朴な驚きを感じざるをえない。

なんなんでしょうね。この、お子ちゃま、みたいな詩的文章。なんで自殺者がこんなに少ないのか、だってさ。じゃあ、なんで、永井は自殺しないの? あんたが自殺しないくらいには、他人も自殺しないんじゃないか、くらいには思わないのかね(そう考えたら、毎年3万は多すぎじゃねーか、くらいなコメントは言えないのかな)?
そんなに、国家に守られて、幸せですか。

たとえばサッカーの試合で、ペナルティを受けることを承知の上で反則行為をするのは「いけない」ことだろうか? いや、場合によっては、それは一つの作戦でありうるはずである。作戦が成功した場合、少なくともサッカーというゲーム内部では、それはよいこと、すべきことであったともいえるはずである。反則とペナルティがゲームの内部で完結した厳密に相関的な規定であるかぎり、そうであらざるをえないはずである。

私は、こんなことを言う人に始めて出会った。普通は、スポーツの試合の「中に」おいても、「外の」ルールが適用されていると考える。つまり、たとえ、スポーツの試合の中でだろうが、相手を殺そうとして行った殺人は、殺人罪になるんだ、と人々は思っている。しかし、あえて著者の発言を敷衍するなら「どのような条件がそろえば、その犯罪は構成されるだろう」。もともと、スポーツとは、一つの紳士的協約による、パフォーマンスの一種といえるのだろう。お互いの信頼関係がなければ、成立しない。
プロ野球で、今でも、ときどき、ビーンボールから、乱闘に発展するが、これだって、普通に考えたら、ひどい話である。そんなに信じられなかったら、スポーツなどやめてしまえばいい。しかし、プロフェッショナルなるものは、別ということなのだろう。ここでは、実際には、「違うルールが存在するのだ」。
私は、金川被告を、死刑にしない、という選択肢があるように思います。なぜなら、こいつは、自分を死刑にすることを望んでいる、と言っているのだから。
彼には、遺族がもういいと言うまで(普通は、死ぬまで、になるのでしょう)、ずっと、牢屋の中で、「なぜ、自分はこのような行為におよんでしまったのか」を、意味する、原因究明文を、書かせる、というわけです(つまり、失敗学、です)。
十年でも、二十年でも、何十年でも。
そして、もしも、遺族がもういいよ、と言ったら、死刑「という選択肢もある」というのはどうでしょう(逆説的ですが、死刑は、多くの場合、遺族に、「不満足感を残します」。被告に、「原因を墓場まで、もって行かれる」という、悔しさを伴うからです。死刑をなぜ廃止するか、は、単純なのです。「死刑以上の、刑罰が存在するから」、であり、そのために、死刑を最高刑罰にしておけない。ところが、もし、死刑を最高刑罰としないとすると、矛盾が発生する。「もう死刑で殺した人間に、やっぱり、新しい証拠がでてきたので、最高刑罰に代えたい、とできない」からです。

NHKブックス別巻 思想地図 vol.5 特集・社会の批評

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