チョン・オクピョウ『韓国最強企業サムスンの22の成功習慣』

最近の、2ちゃんなどでの、朝鮮への侮辱は、目に余る。
しかしそれは、その発言の内容が、あまりに、PC、を外れている、という意味にとどまらない。むしろ、そんなことはどうでもいい。問題は、それらの発言がまるで「自分が強者」であるかのような、上から目線、だからだ。
もちろん、本当に、そいつが強者なら、鼻もちならない嫌な奴ではあるが、一目置くことも、やぶさかではない。しかしなんだ、お前そのものは。なんか、これといって、自慢できることを、やったことが一度でもあるのか。なにもない。お前そのものは、なにもやろうとしない、なにも、一歩を踏み出さず、ただ、今の、安穏とした日常を維持することにしか、興味のない、現状維持派。今のこの、ハッピーな日常を撹乱する可能性のある分子は、一つ残らず排除だ。そして、その、かっこうの「いけにえ」として、「もともと自分たちの下僕だったはずの」朝鮮民族の日本からの排除へと向かう。
朝鮮民族を敵だというのなら、きな臭い気もしないでもないが、まあ、上等だろう。お互い切磋琢磨すればいい。しかし、そうじゃない。戦いたくない、自分が傷つきたくない。だから、「自分の目の見える範囲に入ってこないでほしい」。
これが、戦後平和教育による、日本民族なるものの、なれの果て、である。
朝鮮文化が、日本にいて、日本人である自分の目に触れることが、いつか、自分の仕事を朝鮮人に奪われて、自分が用済みになって、朝鮮人の下僕となって、働かされる時代が来るのではないかと思えてならない。
「無能な」自分が、恐い。
朝鮮人、嫌いだな...。
ガチでぶつかって、徹底的にたたきのめされて、足蹴にされる、そんなイメージが一瞬でも頭をよぎったら、「こんなに、
いい子
の自分を維持できないじゃないか」。
戦後の長い間、実は、朝鮮半島を、日本は無視「できた」。戦後すぐに、朝鮮半島は、南北に分かれ戦争を始めたこともあり、ずっと、不安定要因が無くなることがなく、貧しかった。日本の戦後復興が、実際、この、朝鮮特需にあったことは、今では、一種のタブーである。日本は、朝鮮人の同士打ちの数だけ、「幸せを手にした」。日本の戦後の驚異的回復とは、朝鮮半島の戦局の悪化、と同値の事態であったわけだ。
韓国はずっと貧しかったし、この国は、ずっと、日本文化の流入を、公式には、認めてこなかった。80年代でさえ、まだまだ、日本とは比べものにもならなかった貧しさではないだろうか。韓国が日本並みに、豊かになり、追い付いてきたのは、実際、90年代くらいからなのではないだろうか。
すると、何が起きたか。
日本は気付いたのである。こんな身近に
他者
がいることを。
急に、存在感をもって、現れてきた、この国。
なんなんだ、「お前たち」は!
それから、以降の日本の態度は、一言「戸惑い」である。どう接すればいいのか分からない...。
そして、韓国経済が、投資家のエジキとなり、破壊され、IMFの奴隷となり下がる事態となった後、日本は韓国を「自分の視界から消した」。
そうだ、「これで自分の視界に入れなくてすむ」と、「安心して」彼らについて考えることをやめたのだ(アメリカは、これからも、大事な日本のパートナーだよね。アメリカ文化は、これからも、自分たちの、あこがれ。勉強しなきゃ。そして、今後の懸案は、中国の台頭だ。中国の急成長は、日本とアメリカ、「我々の」脅威ではあるけど、ビジネスチャンスでもある。うまくやらなきゃ)。
私の考えでは、彼らを、IMFの奴隷にさせる前に、日本は彼らを助けるべきであった。彼らを、IMFの奴隷にさせるべきでなかった。しかし、日本そのものの体力が、ずっと無いこともあるが、それ以前に、そんなことを言う日本人は「一人も現れなかった」。
ところが、近年の、サブプライム危機を境に、円高傾向がデフォルト状態となっている間に、日本の産業は、完全に「空洞化を始めている」。
日本に、日本はなくなり始めている。
ヘーゲル弁証法は、彼が徹底的に自らの体系を形式化しただけに、彼の意図など、はるかに超えて「正しくなってしまった」。
問題は、その意味である。
貧しい国は、その貧しさから抜け出すために、「一歩を踏み出す」。ところが、豊かな国は、その豊かさを「奪われないために」逆に、「一歩を踏み出す」動きを、かたっぱしから潰す。富者にとって、「全体の富の上昇」に、なんの関心もない。問題は、「全体の中での自分の富が相対的上位ランクであることの維持」となる。
ところが、問題は、その「全体」なるものである。閉じた国、外国の人も情報も受け入れない日本では、全体とは「日本国内」を意味する。日本人は、毎日の、学校クラスの仲良し友達との、人間関係だけが、「世界」となる。その中で、自分が、けっこう、鼻を高くできている、リーダークラスだったら、それで、「すべてが満足」なのだ。
ところが、世界は「世界」である。それ以上でもそれ以下でもない。日本の外には、多くの国があり、そこには、多くの人が実際に生活をしている。
そんな世界では、ずっと、「競争が続いている」。経済とは、戦争、だとはよく言ったものである。経済における勝利とは、商品が売れることだが、売れるということは、「ぜんぶその商品ばかりになる」ということである。世界中、その商品しかなくなる。
なぜ、そんなことになるのか。理由などいらないだろう。「みんながその商品を買うからだ」。よそが、どんなに類似商品を作っても売れない。
売れない、ということは、どういう事態だろうか。売れなければ、まず、お金が入ってこない。それがずっと続けば、まさにジリ貧である。いずれ、社員に給料を払えなくなるだろう。会社が維持できなくなるのも、時間の問題だ。問題は、そういう状態に一度でも転落したら、そこから、また、売れる企業に再興することは、容易でない、ということである。なぜなら、まず、販路をもう一度獲得しなければならない。ところが、一度、信用を失っているのだ。
だとするなら、どうすればいいのか。あらゆる「手段」を使ってでも、とにかく、「売れ続けるしかない」。
今、世界を見渡せば、どこもかしこも、韓国企業の製品ばかりになった。世界中の国々、どこに行っても、韓国製品しか売っていないし、人々も、韓国製品しか買わない。そして、いつしか、世界中の国々で、韓国製品でないものの方こそ「まがいもの」といぶかしがるようになる。「韓国製品じゃないなんて、やばくないのか」。
日本企業も、最近は完全に、「韓国製品を使え」のオンパレードだそうだ。日本企業の製品は、外づらを見れば、メードインジャパンと書いてあるが、中身のパーツは、相当特殊な部品でもないと、みんな「韓国企業」の部品に入れ替えようとしている。ようするに、中国はまだ、どんなに安くても信頼性の部分で二の足を踏んでしまうが、韓国は「中国並みの安さ」 (最近のウォン安もあるますけどね)なのに「品質は日本並み」。こうなると、日本の中小製造業は、日本国内でさえ、完全に、ジャパンパッシング
韓国の有利な点は、IMFの屈辱の体験があるのだろう。あのとき、多くの国民は、国を救うために、自らの外貨を国に「寄付するまでのことをやった」。それに比べたら...。国家は、徹底的に超格差社会を国民に受け入れさせた。
世界の国の、税金体系をみても、日本はいつも、欧米を「先進国」と称して、欧米の国々としか比較しないが、韓国は恐しいまでの超格差社会である。強い者は、どこまでも裕福になれて、弱い者は、徹底して邪魔者扱いされる。韓国の法人税や企業保険、企業年金は、恐しいまでに安く、消費税は日本の倍。
そうやって見てくると、韓国国内の、日本以上の、巨大輸出型製造業の企業の存在が目立つ。韓国は、日本より、圧倒的に小さい国だ。国内市場も小さい。最初から、彼らは世界市場にしか、目をくれていなかった。世界中で、どうやったら売れるか。
そして、その姿は、完全に、日本以上の、産官学共同の、マーケティングが成立していくことになる。
その中でも、巨大な存在こそ、サムソン電子であろう(以前にも少し書きましたが)。なんと、グループ関連企業を合わせれば、韓国国内の4割近くがなんらかの形で、この企業で働いて稼いでいるそうである。日本なら、ここまでの寡占、ちょっとどうかしてないかと思うかもしれないが、彼らは最初から市場も小さい、そんなもんだろってなもの。
海外では安く売って、まず、市場を独占する。しかしそれじゃあ、もうからない。その埋め合わせは、国内に海外企業を入らせないで、国民には自社製品を高く売る。この手法は、日本以上の寡占状態であるわけで、過去の日本企業以上と言っていい。
以前も書いたが、韓国のビッグ・コングロマリットの特徴は、創業者(オーナー)統治型経営だ。北朝鮮の国家体制顔負けの、創業者家族による一党独裁。そのかわり、経営判断は、一等早い。韓国は、国内民主主義による、判断の遅さを、ビッグ・コングロマリット一党独裁によって、カバーすることで、中国と対抗しているのだろう。
しかし、そこまで大きくなった、企業がもし、日本に存在したら、どんなことが起きるであろう。実際、韓国は、「サムソン帝国」の様相を、最近はさらに示し始めていく。もう韓国ではない、サムソン国(のようなもの)だ。
例えば、以下の記事

screenshot

では、サムソンの次期社長候補だった人物が、背任と脱税で有罪が確定していながら、なんと、李明博大統領は「国家的な観点から」特別赦免・復権した、というのだ。
実際、今回のオリンピックでの、韓国のスピードスケートでの金メダルは、サムソン配下で育てられた選手と言っていい。
そして、その、象徴的存在こそ、女子フィギュアのキムヨナであろう。
実際、そうやって考えてみると、今回のオリンピックは完全な、「サムソン帝国」のキャンペーン活動だった。世界中の人々は、このオリンピックを見て、再度、自分がサムソンの製品しか家にないことに、誇りをもち「自分は間違ってなかった」と再確認したことであっただろう。
ナベツネが、蓮舫とかいう民主党議員の「二番じゃダメですか」をボロクソ言ったそうだが、気持ちは分からなくない。サムソンのオーナー社長は「私の辞書に2位はない」と常々言っているそうですが、オーナー社長には、そういった気概があるものなのだろう
今回のオリンピックが、サムソンのイメージアップキャンペーンであったことは明らかとして、実際に、彼らが、それだけで終わるわけがない。キムヨナの例にしても、明らかに、長い期間をかけて、キムヨナを勝たせるための、布石を売ってきていた。ルール改正からなにから。
しかし、大事なことは、そういったことは、一つの手段だということで、手段の「すべて」ではない、ということなのだ。キムヨナは、勝つために、徹底して、その「戦略」に自らを委ねたのだろう。三回転半は、相当完璧に飛ばない限り、ゴミのような点数しか可算されなくなることが分かっていれば、安心して、自分は「それ以外を磨く」ことだけに専念できる。サムソンの親玉が、自分がやること、自分が得意な技「だけ」が、いい点になるように、ルールを作ってくれるはずだ、と信じれるなら、安心して自分がやるべきことだけに専念できるようになるだろう(しかし、たかが、アマチュアスポーツで、そこまでやったら、逆に、勝った後のモチベーションがなくなりゃしませんかね)。
日本人の方々にとっては、「なにを大げさな」と思われるだろう。たかがスポーツでそこまでやりますか。しかし、私は掲題の本を読むにつれて、むしろ「そうしないと考える方こそ、どうかしている」と思うようになった。なんてったって、サムソンの社長に、二位の文字はないのだ。前回のオリンピックの時点で、浅田真央こそ次のオリンピックの優勝最有力候補であり、キムヨナは完全にその次を争うレベルで大きく溝を開けられていた。そこから、どうやったら、キムヨナに金メダルをとらせられるか。
「あらゆる」手段を尽さないはずがないではないか。
今、世界は、サムソン帝国の「支配下」になろうとしている。世界中の国の人々が、当たり前のように、サムソンの製品「だけ」を使い、それが普通のことと思うようになる。みんな、サスソン帝国のサムソン市民だ。「サムソン社長、ちよにさちよに、ばんざーい」、との掛け声が世界中から聞こえてくるようだ。
しかし、私は、そういった事態を、絶望視して、こんなことを書いているわけではない。
むしろ、逆である。大事なことは、彼らが「あらゆる」ことをやっていることなのだ。その意味に気付く必要がある。
その辺りが、拉致被害者の、蓮池薫さん、がこの本を翻訳した理由なのだろう。彼は、日本と朝鮮、両方に足をかける者として、朝鮮の「明視」から、日本の「盲目」を突く。
なぜ、サムソンの製品が売れるのか。まず、素朴に、「いいサービスなんじゃないか」と思うところから始めなければ、どうしようもないだろう。

ローリー・ベス・ジョーンズの書いた『株式会社イエス』という本に「あなたの仕事すべてを神に捧げるつもりでやれ」という表現がある。実に的を射た言葉だ。もし家具師が、神に捧げるものと考えて椅子を作るなら、どうなるだろう。材質から始まって、形、強さ、坐り心地のよさにいたるまで、どれひとつともおろそかにはできないはずだ。また売り場の店員が、訪れる客を神様と思って応対するとしたらどうなるだろう? 品物を選ぶのに不便な点はないか、売り場のどこかに不潔なところはないか、暑すぎたり寒すぎたりはしないか、応対する自分の服装や言葉遣いが清潔できちんとしているかなどについて、誰に指示されるまでもなく、きめ細かくチェックするに違いない。神の命令、神の求め、神への応対なら、どれひとつとしていい加減にできないはずだ。

日本も、東京オリンピック三波春夫までは、「お客様は神様」だったんですけどね。最近は、モンスターペアレントならぬ、「モンスター・カスタマー」ですか。最初から、クレーマー扱い。えらそうな、サポセンが多いもんですよね。
(たとえばこの中でも、

  • 勝つ習慣13 すべての従業員がマーケッティング戦略の鬼になれ
  • 勝つ習慣14 お金は一番低いところに流れ込む。現場で答えを探せ
  • 勝つ習慣15 客より有能なマーケット専門家はいない。客の寝言に耳を傾けろ

は、私の立場にも近く、学ばさせられますね。)

この本に流れる収支一貫した信条は、「情熱を持った人間」「最後は必ず勝つという執念を持った人」だけが成功の美酒に浸れるということだ。そして、その執念とは、成功の経験を土台に、さらに次の実践に挑み、そのなかで自分が強くなっていこうとする習慣である。最初は筋肉をつけるのに時間がかかるが、いったんつき始めると、わずかな運動でもどんどん増えていくものだ。

勝つ人は、相撲でいう「まわし争い」に長けている。黒板や教科書に書かれた堅苦しい原則などではなく、まわしのどこをつかめば客を引き寄せられるかを、実践を通してよく知っているのだ。つまり勝利の息吹を肌で感じ、汗の匂いを嗅ぐことで、本能的に動いていく。

朝鮮民族こそ、朱子学を究極まで極めた、「哲学国家」だということを、みなさん忘れてしまったのでしょうか。理と気が今だに、慣習的表現に生きるこの国では、どこか、あらゆることについて、根底から考えようという傾向がある(朱子学には、今でも学ぶべきことが、多くあるとなぜ考えないのだろう)。
私たちは、この現代が、さまざまな意味で「差別」社会であることを知っている。もし、この事態が、たんなる「差別」なら、それはルサンチマンを生み、究極の平等運動となるだろう。つまり、その「差別」が「たんなる」差別でないとするなら、ある「哲学」が必要だということなのだ。その差別が、この世界を「構成する」理の原理から説明されるような、それくらいの、「原理的な」レベルから、考察することなしに(簡単に言ってしまえば、差別ではあっても、「フェア」である、というような、根元的な地平から考察しなければ)、この民主主義的な差別撲滅を目指す平等運動にはあらがうことはできない。しかし、日本は歴史的に、そういった根底からの考察を苦手にしているようだ。
たしかに、だれでも、自分の保身は大事だ。自分の生活水準を下げたくない。しかし、そうやって、国民全員が保身に走れば、だれも、チャレンジをしなくなる。たとえば、まず単純化してみて、日本が、お金をもうけるには、どうしたらいいか、と考えてみましょう。それは、一つしか、ないでしょう。自分(日本)でない、だれかに、自分のサービスを買ってもらうしかありません。ということは、日本人は、日本の外の人に、自分のサービスを売り込むために、「営業」に行かなきゃなんないわけです。
ところがどうでしょう。今、日本人のどれだけの人が「日本のサービスを買ってもらうために、明日、この日本を離れる」覚悟をしているでしょうか。お前は、それをしなければ、ただ、毎日、お金を消費するだけの「なんの役にも立たない」他人にたかって生きるしかない存在でい続けることを意味するのだ。
そんな、急に、海外で暮せって言われて、できるわけないじゃん。だから、やれるわけない、とか、無理とか、そんなことばっかり言ってるから、負けるんだよ。「無理なんてない」「なせばなる」「やらなきゃ一生できない」。当然でしょ。
たとえば、以前紹介した、韓国超格差社会本では、韓国は、「実質」38歳定年制となっていることが書かれている。38歳までは、自分の会社に、なにかをやってくれるかもしれない、と見極めるために、高い給料を払い続けるが、38歳になったら、お前はこの会社の役に立つかどうかで、ずっと居てもらうか、去ってもらうか、を決める。ところが日本の会社は、裁判所の範例によって、「なにがなんでも社員は定年まで雇い続けなければならない」。使えようが使えなかろうが。
問題は、韓国側の対応には、それなりの理があることである。しかし、日本の側にも、確かに、それなりに考慮する点はある。そんなに簡単に企業に個人が捨てられては、人生設計が立たない。
そういったとき、重要なことは、「なにがフェアなのか」であろう。韓国のやり方は、一つの合理性だ。しかし、それにも問題があるというなら、どういった間があるのか。おそらく、韓国の人も同じようなことを思っているはずだ。
ヘーゲル弁証法はよくできていて、ハングリー精神をもつ人々は、やはり、ハングリーだけに、勝利を治める。奴隷は主人を倒す。しかし、それでは終わらない。主人となった奴隷は、奴隷となった主人との間に、また、闘争を始める。

韓国最強企業サムスンの22の成功習慣

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