「コードギアス」

みなさんは、このアニメを、どう思ったでしょうか。第一期、第二期。
一言だけ、はっきり言えるとしたら、この最後(第二期最終第24話)の、ばかばかしさ、でしょう。
なに、みんな、救われてんのよ。ルルーシュの死で、勝手に、世界中の人が、恨みの連鎖から、「解脱」できた、だと。
ルルーシュによって、世界が救われた、だと。
なに、この、茶番。
でも、ルルーシュ、の頭の中では、自分は「世界を救った」英雄、ってことになってるんでしょうね。
ナルシシズム
「世界を救った」自分。なんて、いい子、なの。自分、かわいい(やばい、もてちゃう)。
まさに、折原ウザ也。
人LOVE!!! だから、みんな、僕を愛するべきなんだよねー。
でもね。
死んだらすべて無。人生は二度と繰り返せない。
ユーフェミア
彼女の死は、ルルーシュ、のギアスの「暴走」という整理になっている。たまたま、口走った、言葉が、勝手に、ギアスとして機能したんだってさ。だったら、勝手に、ずっと、暴走し続けて下さいよ。
シャーリー。
このアニメは、ずっと、学園ドラマとして展開される。その中での、ヒロインとして、純情なシャーリーは、ずっと、ルルーシュを想い続けながら、突然、ルルーシュが利用し続けた、ルルーシュの偽弟(殺人鬼)によって、殺される。でも、シャーリーは、「ルルーシュは一人で戦ってたんだよね」。で、ルルーシュを許して、死んでいくってわけで。よかったね、ルルーシュ。シャーリーに恨まれて死なれなくて。これで、毎日、ぐっすり眠れるってわけですね。
しかし、ルルーシュは、生きる。学園ドラマのヒロインが死んでも。だって、僕には「生きがい」があるから。だってさ。まだ、やりたいことが、たくさんあって困っちゃう。その、あんたの「生きがい」なるもののために、あと何人、ヒロインが死ねば気がすむんでしょーね。
だって、「妹が心配で心配で」。??? おい、妹、生きてたみたいだぞ。ところが生きてるって分かったら、「やばい、もっと、やりたいこと、見つけけなきゃ」。じゃあ...、世界平和。ですかー。そのためなら、「妹、殺さなきゃ」。
わかったよ。被差別者「救済」原理主義者。お前は、自分がだれかを差別していると「他人に思われる」ことが耐えられないんだろ。自分は、資本家にこき使われる、労働者たちの「代弁者」(いいとこのボンボンなのにね)。自分は、地球中の人間にこき使われる、動物たちの「代弁者」。あっと、忘れてた。自分は、地球中にこき使われる植物たちの「代弁者」。やばい、ほかにも、いろいろ、もれてたらどーしよー。めんどくさい、まとめて。
自分は、「セカイ」の代弁者。セカイ、自分が救っちゃいますよー。
つまり、これが、最近、はやりの、セカイ系、ってやつなんですかねー。
セカイを救わなきゃ。分かったけど、まず、あんたがやるべきことは、それを「世界」と呼ぶな、じゃねーかな。だってよ。お前が、なにが世界かなんて、「分かるわけないだろ」。お前がセカイと呼んでいるものは、「お前のセカイ」。つまり、お前のナルシシズムでしょ。そんな、最初から、「最後は」自分が救われる「ために」お前が用意した、フレーム。他人には、なんのカンケーもないとは、いいかげん、思わないんですかね。
(でもそれこそ、典型的な、通俗的黙示録、なんでしょーね。)
という意味では、このセカイ系も、「なんにも新しくないんですよねー」。
ここのところ、非実在少年規制が話題になっている。民主党が、この問題に取り組み始めたのは、児童ポルノ禁止から、であった。児童ポルノがあるということは、児童が、そういったポルノ撮影の被写体になっていることを意味している。この事態は、許せない、ということらしい。
しかし、児童ポルノ規制派は、それにとどまらない。世間に蔓延している、児童ポルノをあたかも容認しているかのような、あらゆる、文化を、たたき潰すことを、その行動原理とする。
つまり、「言論の自由」の規制、である。
しかし、本当に、児童ポルノ規制派は、児童ポルノ「だけ」を問題だと思っているのだろうか。つまり、子供だけが問題だと言いたいのだろうか。彼ら、道徳派にとって、問題だと言うその意味は、さらに、広く、世間一般に蔓延している、セックス文化への、敵対的ステートメントなのではないだろうか(まさに、共産党宣言)。
あらゆる、性的な暴力は、あってはならない。もちろん、それを匂わす、文化も他人をそういった行動に誘惑する可能性があるのだから、存在してはならない。人は性的に堕落した発言をしてはならない。そういったことを考えてはならない。
なら、そもそも、ポルノそのものが存在してはならない。
異性をエッチな目で見てはならない。
見たら、牢屋。
暴力もそう。暴力を想像してはならない。考えただけで、その人は、暴力をふるったのと「同じなのだから」。
いや、こんなもので、とどまるはずがない。大人になってはいけないのだ。なぜなら、大人になるから、いやらしいことを考えるのだから。
大人になったら、牢屋。
いや、こんなもので、とどまらないだろう。存在そのものが、お前は、いやらしいのだ。産まれてきちゃいけなかったのだ。
産まれたら、牢屋。
そうして、導かれた結論は、とにかく、国家は、「気に入らない奴は、いつでも、牢屋に入れられるようにさせろ」、ってことなんでしょうね(全員牢屋に入れたら、税金が入ってきませんから、気が向いたときに、適当に「いけにえ」をみつくろうのが、おつ)。これこそ、警察の究極の「利益誘導」。そのとき、警察、検察は、日本における、究極の権力組織と「公私共に」衆目の認めるところとなる、ってわけですか。
でも、この議論の推移って、保坂展人さんのブログをみると、

screenshot

ようするに、首都大学東京の、前田雅英、なる法学教授のトンデモ暴走のところがあるんでしょ(この学者自体が、トンデモ保守系、なんでしょうね)。
ただ、気持ちは分からなくもないんですね。
ようするに、道徳主義者なわけです。そして、そういったニーズには、やはり、根拠があるんだと思います。
つまり、「非道徳」の問題です。それは、掲題のアニメにおいても、本質的な問題ですが、むしろこれは、マンガやアニメなどのサブカルチャーの歴史にこそ、関係していると思います。
なぜ、掲題のアニメがここまで、センセーショナルだったのか。もちろん、これが、もう一つの、ジャパン・オキュパイド、の姿だからですね。日本は、アメリカに占領された。しかし、なぜ、「レジスタンス化しなかったのか」。こういった疑問は、イラク戦争で、多くの自爆テロが起きたことと比べると、不思議に思えたわけでした(小林よしのり、の戦争論が、反米保守の立場を明確にしたのは、イラクレジスタンスへの、限りない共感からでしたね)。たしかに、掲題のアニメにおいて、日本軍はレジスタンス闘争を始めます。
しかし、その姿は実に奇妙です。つまり、言わば、主人公ルルーシュという「アメリカ人の(大統領の息子の)」(実際は、ブリタニア帝国の庶子ですが)高校生の「私怨」を動機とした、「アメリカ国家へのたった一人の反逆」を、サポートするような形で存在し続ける、という形になっている、ということです。
しかし、それ以上に、掲題のアニメの特徴があるように思えます。それは、主人公のプライベート空間を構成する、日本の高校「アッシュフォード学園」の、彼の友達が、次々に死んでいくことです。このアニメは、一方で、ロボットアニメの様相を示しながら、他方で、学園ドラマとしてのストーリーがオバーラップして、進みます。ところが、彼が仲良くしていた友達や恋人、あんなに無邪気に、学園生活を笑ってエンジョイしていた「相手」ほど、なんの、意味も、必然性もなく、ボロ雑巾のように、死んでいきます(テレビ版アニメ「エヴァンゲリオン」が、一人として、学園の子供たちの、死ぬシーンを描かなかったこと、そしてそれが、テレビ局やスポンサー側の要望だったことは、有名な話です)。
むしろ、多くの子供たちや親たちがショックを受けたのは、そのあまりにもの「非人間的な」展開が、毎週テレビで見ていると、「突然あらわれる」ことだったのではないだろうか。ちょっと、ロボットもののスパイスをふられた、学園ドラマの、平和で恋愛ゲームでドキドキの毎日の「楽園」だと思っていたら、ある日の回で、急に、みんなが人殺しを始める。そうかと思ったら、また、次の回を見たら、みんな、仲良しの学園ドラマに戻っている(そこには、前回死んだ、ヒロインはもういないのに)。
(そういう意味で、今必要なのは、作品を事前に確認して、R指定のような、この作品がどういったカテゴリーのものなのかを、事前に消費者にアナウンスする、そういった活動なのかもしれない。もちろん、そういったことを国家の主導で行えば、いつもの官僚や政治家の権益拡大に使われるだけだが。)
むしろ、ここにないのは、「喪に服す」時間ではないだろうか。ルルーシュは、自分のせいで、ヒロインが死んだことを責められて、言うことは、一言。「もう終わったことじゃないか」。過去を振り返ってもしょうがない。もう元には戻らないのだから。もちろん、その発言は一見正しく思えるが、普通に考えると、おかしい。普通、そのように思うようになるには、長い、喪に服する時間を東アジア・カルチャーでは必要とする。我々が、ルルーシュなるナルシストに「まったく共感できない」のは、おそらく、こういった所にこそあるのだろう(主人公に共感できないということは、原作、脚本家、監督の全人格否定を意味するが、むしろ、彼らにとって、ロボットアニメにおける、ロボットおもちゃが、大量に売れて、もうかれば、あとは、どうでもいいのだろう。刺激的であればあるほど、視聴者が増え、子供は、「かっこいい」ロボット・フィギアを、親のすねをかじって、買ってくれる。そういう意味では、ロボットアニメは、親の財布から、金をむしりとるための、さまざまな仕掛けに満ちている、と言っていい)。
ただ、ここでは、さらに、俯瞰的に考察してみたい。
もちろん、以前から、「非人間的な」物語というのはあった。それは、どういったものであったか。
それは、心理学、との関係においてこそ、考察されてきた。つまり、一般に言われる、マゾやサドである。
もちろん、そういう意味では、

劇画家畜人ヤプー【復刻版】

劇画家畜人ヤプー【復刻版】

は、典型的な作品と言える。この未来世界においては、人間とは、白人のことを指し、黒人は「奴隷」となっているが、我々、黄色人種は「家畜人」という奴隷以下の、今の牛や豚、また、犬や猫のペットと同等の存在となっている。つまり、そういった「事実」が、未来の科学によって、ネアンデタール人やクロマニオン人の研究によって「証明された」世界だということだ。家畜としての、黄色人種は、さまざまに、白人の道具として便利なように「肉体の特徴そのもの」改造されるのだが、決定的なのは、悩である。幼いころに、大脳を小さくする手術を行うことによって、「家畜としての能力を最大限発揮できるようにする」。
ところが、今の世界から、タイムマシンによって連れて行かれた、白人女性クララの今の世界で婚約者であった日本人瀬部麟太郎は、一緒にその未来の世界に連れて行かれるのだが、それはあくまで家畜として、である。家畜となるため、さまざまな人体改造を受けるのだが、唯一、悩の改造だけは「年をとりすぎていて間に合わなかった」となっている。
作品の最後は、クララが、あらためて、麟との、「誓い」を、彼と一緒に指につけている、婚約指輪を思い出すところで終わる。

[以下、別の未来の白人に麟を家畜として譲ってほしいとお願いされたクララの返答。]
「いいえ、だめ、だめよ! あたし譲らないわ。譲れないの!!」
麟(リン)、あたし誓いを破りはしなくてよ! それが愛情の試金石だというのなら、その試練を受けてみるわ。麟(リン)、あたし誓うわ。あなたをずっと愛するって。二人は離れないんだわ...。試練を受けようとはいったけど、試練に耐えてみせるといったわけじゃない...。二人はいつまでもい夫にすると約束したわけじゃない......。愛人としてではなく、「愛玩動物(ペット)」としてでも愛するという誓いに嘘はないはず...。だから、ドリス嬢(さん)の申し出は断わったわ。あたしはお前を、ずっとあたしの手元に置くわ。ヤプーとして!
劇画家畜人ヤプー【復刻版】

クララは、この未来世界で麟を「家畜」として、一緒に生きる道を選ぶとき、彼女にとって、そのキリスト教的「誓い」は何にも代えられない意味をもつ。しかし、それは、家畜として使って「やる」こと、として、その誓いは続く、と考えるわけだ。
つまり、M的存在として、麟を召使い続けることこそが、その、将来に渡る永遠の愛を約束しあった、キリスト教的「誓い」、を意味することとして解釈され、彼女はその自らに課したその「戒律」の重さにおいて、矛盾しないと捉えた、ということだ。
このような、未来社会は、一つのアンチ・ユートピアと言ってもいいが、現代の科学技術の発展は、いずれ、そういった世界の実現さえ、容易にするのかもしれない。
しかし、そうなってまで、著者は、この人間を動かすキリスト教的「弁証法」を重要視する。クララは一度「誓い」を自分に対してした、その意味を忘れたり、ごまかしたりできないと考える、この著者の世界観こそ、(著者にとっても)一つの答えなのだろう。
逆にそのことが、なぜ、現代社会において、このような、民主主義や自由主義が、席巻してきたのか、を考える、理由を与えるのかもしれない。人間は、つい最近まで、人間と奴隷に分かれていた。日本の江戸時代にしても、日本人は、武士とは「支配階級」だと思っているが、彼らの振る舞っていた姿は、現代から見れば、どこか、「奴隷」の方にこそ似ている。丁稚奉公のご主人には絶対服従。他人を殺せと言われれば、従い、自殺しろと言われればそれに従い。しかし、いずれにしろ、そういったトラブルが起きない限り、「将来に渡るイエの存続が国家の力によって保障されている」。
彼らは、確かに、この「前提を受け入れていた」。そういう意味では、前近代的存在と言えるだろう。しかし、重要なことは、だからといって、「それ以外を受け入れたわけではなかった」ということである。黒船来襲に端を発した、日本の近代化とは、断じて、「外発的なものではなかった」。武士たちは、確かに、上記の意味で前近代的存在であったが、それ以外では、むしろ、現代人以上に、独立自尊、唯我独尊、であった。彼らは、むしろ、それゆえにこそ、藩主に「諫言」する。たとえ、藩主の機嫌を損ね、腹キリを命じられることになろうと、この「諫言」をやめることはない。
現代の日本人には、それは不思議に思うとしても、彼らは実際、そうだったのである。そのことは、「ある面において」、彼らはむしろ、現代人以上に、民主的で自由な存在であったのではないか、という仮説を想起させるように思われる。
いずれの未来において、家畜人ヤプーの、「生物医学的世界」は実現されていくだろう。そして、(人種的区別に意味がないとして)人間の家畜化が進んだ世界が実現されると仮定してみよう。
このことは、一見、フランス革命から続く、近代化の流れの逆行の現象のように思えるかもしれない。しかし、そう単純ではない。その一つの例として、上記の日本の武士と現代日本人の比較を考えてもいい(私は、フランス革命以前から、むしろ、「ある側面において」は、民主化、自由化、の堕落が進んでいる面が、実はあるのではないか、と主張したいのだが...)。
最後に、どうしてもこの、「非道徳的」サブカルチャー、の分析において、欠くことのできない作品をとりあげたい。
もちろん、永井豪デビルマン」である。
この作品こそ、あらゆる、現代日本サブカルチャーの原点と言えるだろう。
この作品においても、最初は、「学園ドラマ」として始まる。主人公の高校生の、不動明は、親が(理由はよく分からないが)不在なため、同じ学校に通う、女子高生、の牧村美樹の家に、居候いる、として描かれる。この二人に、同じ学校に通う、飛鳥了、を加えた三人の物語として始まる。
もちろん、作品としては、不動明が、デビルマンとなるところから、最後の人類が滅亡して、悪魔と天使だけの世界となる「平和」が描かれるところまで続くのだが、むしろ、この作品の問題こそ、掲題のアニメにつながる、「ヒロインの描き方」にあると言えるでしょう。
明らかに、主人公の不動明の、恋人として、描かれる、女子高生の、牧村美樹、は、ちょっと、おてんば、なところはあるが、活発で、魅力的な女の子として、最初、「学園ドラマ」として、始まる。
ところが、牧村家は、魔女狩りよろしく、悪魔に魂を売った存在として、「普通の人間」たちに、虐殺される。マンガにおいて、牧村美樹は、ほかの、牧村家の、マイホームパパ、マイホームママ、弟たちと一緒に、普通のその辺の、近所の人たちに、虐殺される場面が描かれる。そして、ヒロイン牧村美樹は、蒼白な表情の、首だけになって、首に下から棒で突き刺された姿で、鬼畜となった、近所の住民に振り回され、さらしものにされるイメージで描かれる。
そして、この「非人間性」は、永井豪の集大成、「バイオレンスジャック」において、繰り返される。
ここで、再度、ヒロインの牧村美樹は登場する。今度は、飛鳥了の恋人のようであるが、その描かれ方は「異常」である。

さて、肝心の牧村美樹だが、ゴラク版『バイオレンスジャック』では、飛鳥了と恋人であり、飛鳥了とともに「人犬」として登場する。
スラムキングの怒りに触れて、両手足関節から切断され、鉄の義手義足をつけられて四つ足で歩くことを余儀なくされたのが人犬である。舌を切り取られているため、しゃべることもできない。

人犬にされた飛鳥了牧村美樹は、もともとはスラムキングのレストランの従業員で恋人どおしということであった。スラムキングが牧村美樹を愛人にすることを望んでいることを知った二人はともに逃げだしたものの、追手につかまり、この処刑を受けたのである。スラムキングは、人前には必ず人犬をともなって現れる。人犬の無残な姿によって、力と恐怖によるスラムキングの関東支配の本質というものを人々に誇示するためと思われる。

上図[掲載は省略]。「週刊漫画ゴラク」に連載された「バイオレンスジャック」のなかで、「人犬」として登場する牧村美樹バイオレンスジャックとの戦いで折れたスラムキングの斬馬刀が背中に突き刺さり絶命する。

デビルマン論

デビルマン論

(この「デビルマン論」の最終、の第6章は、キリスト教的黙示録論となっていて、なかなか、興味深いですね。)
人犬こそ、永井豪が想像した、もっとも、「非人道的な」家畜人だろう。
悩が正常で意識がありながら、両手がなければ、文字を書けない。両足もないのだから、赤ちゃんのように、はって生きるしかない。舌がないのだから、言葉で人に意志を伝えることもできない(NHKスペシャルだったかで、最近の、医学テクノロジーで、悩の電気信号で、パソコンの文字の入力をしていた例があったように思うが、いずれにしろ、これが「当時の」永井豪の、想像力の到達点だった、ということなのだろう)。
重要なことは、それが、主人公が、学園ドラマにおいて、最も、あこがれ、ほのかな愛情を育ませる、ヒロインが、そういった姿で、「生かされ続ける」という、鬼畜のイメージである。
しかし、である。
この作品は、不動明飛鳥了、二人の精神的な和解によって「世界の破壊はまぬがれる」と描かれるのだ。
なんと、「平和」になる、というのだ。
コードギアス」にしても、弱く善良な、ヒロイン、たちを、いかに、「残虐に殺す」かが競われる。私は、こうやって繰り返される、「女性殺し」に、どこか、現代の「強者」社会、競争社会における、男たちの、焦燥を感じなくもない。女性は、はるか歴史の間において、弱者、であった。そういう意味では、「ある意味」奴隷以上に家畜以上に、下の存在として扱われてきた面もあったと言えなくもない。妻とは、フェミニズム的に言えば、イエ制度における、唯一の主体である「ご主人様」の、「財産」であり続けてきた。
ところが、現代において、人権、自由、が認められ、女性の社会進出が常態化してくると、男社会のコミュニケーションの「調子が狂う」。むしろ、最大の、21世紀のファシズムは、この、フェミニズムを巡って、展開されるのかもしれない。
(そして、最近話題の、東京都非実在青少年規制条例案は、その、一つの「前ぶれ」として、記憶されていくことになるのかもしれない。)
私は、現代日本の、萌え、だとか、キャラ、だとか、フェチだとか、そういった一切の、「偶像崇拝」を認めない。そういう意味で、ユダヤ教文化は常に重要であった、と思っている。
今では、心理学といって、フロイトまで、ふりかえる、学生は少なくなっているのかは分からないが、フロイトの研究は、むしろ、ユダヤ教的な、「偶像崇拝の禁止」の理由の分析に尽きているようにも思える(そういう意味で、フロイトマルクスも、少しも古くない)。上記においても、鍵は、むしろ、「人間の側」、もっと言えば、「心理学」の方にこそあるように思えてならない。たとえば、SとMというカテゴリーにしても、それは、「心理学」的な外面で現れる。しかし、そういった心理学主義なるものは、どこまで自明なのだろうか。どのように受け取ればいいのだろうか。あい変わらず、私たちは、フロイトから、一歩も進んでいないのかもしれない。今も変わらず、透徹した、フロイト心理学批評が求められているのかもしれない。
掲題のアニメで、一カ所だけ、よく描けているなと感心した場面があった。
第二部第17話で、ルルーシュは、彼の他人を洗脳する能力が、日本のレジスタンスのみんなに知られることで、彼らから罵詈雑言を浴び、信用を失い、彼らと一緒にいれなくなる。
実際、多くの日本のレジスタンスの同士たちが、ルルーシュによって、洗脳されて、人殺しの手伝いをさせられながら死んでいったことをみんなは知り、彼らは、むしろ、自分たちの本当の敵とはルルーシュだったのではないか、と気づき始める。
ルルーシュは必死で言い訳をする。「それさえも、戦争に勝利するための手段だったのだ。仕方ないではないか」。しかし、みんなは納得しない。なぜか。ルルーシュと日本人レジスタンスのみんなとは、戦う理由が違うから、である。日本レジスタンスの一人一人にとって重要なことは、「自分が抵抗したいから抵抗する」という自律性にこそあった。だから戦うのであって、そのことに、勝利も敗北もない。だからこそ、彼らは、死んでいった、過去の同士たちの、遺影を常に身近に置き、どんなときも、喪に服し続けることをやめることはなかった。
しかし、ルルーシュには、その姿は「見えない」。彼の視界に、その姿が映ることはない。彼が「救おう」としているのは、(彼の内的)「セカイ」であって、目の前の具体的同士たちではない。結局のところ、それは、彼そのものであり、彼そのものを救いたい、ということしか意味していない。彼は、最後まで彼ら同士たちがなにをしているのかを理解することはない。