白戸圭一『ルポ資源大陸アフリカ』

私は前の記事で、街に出れば、みんなが殴り合っていることはない、という意味で、暴力が一見、少ないということを強調した。しかし、東京にしても、窃盗団によるピッキング詐欺が、以前さかんに話題になった。
だから、正確に言うなら、東京は、安全という言い方が、欺瞞だとしても、それは「相対的」だと言うべきなのだろう。相対的には、犯罪は少ない。しかし、やはり、悲惨な事件が無くなることはない。そういう意味では、世界は今だに、犯罪に対して、どのように向きあえばいいのかに、答えを出せていない、とも言える。
しかし、この日本を抜け出し、世界に目を向ければ、日本など、比べものにならないくらいの、犯罪大国、は厳然として存在するわけで、問題はその差異にある、と言える。
その中でも、近年、さかんに話題となっているのが、アフリカ大陸であろう。アメリカの大都会が、以前は、治安の悪さが言及されたものだが、近年の、アフリカの比べものにならない。

南アはアパルトヘイトの時代から、サハラ砂漠南アフリカの総生産の約4割を一国で産出する地域超大国だった。人種差別の呪縛から解き放たれ、アフリカ経済の中心地として再スタートを切った南アの足元には、金、ダイアモンド、プラチナなどの資源がふんだんに埋まっている。中国をじめとする新興工業国の旺盛な資源需要は各種資源の価格高騰をもたらし、南アには世界から資金が流れ込み始めた。
私が特派員として駐在していた2004年4月から08年3月という時期は、資源開発に牽引された経済成長が本格化している時期に重なった。成長率は2005年に5%を超え、南アは世界の新興経済国の一角を占めると言われるまでになった。2010年のサッカー・ワールドカップ南ア開催も決まり、国民は自信を深めた。不動産価格が上がり、スーパーマーケットとブティックが一体化した大型ショッピングセンターが次々と建設され、自動車販売台数が驚異的な勢いで増加し、ベンツやBMWなどの高級車が街にあふれた。好調な経済に世界的な注目が集まり、日本では「外国為替証拠金取引制度(通称、FX投資)」通じて南ア通貨、ランドを買うブームが起きていた。

南アは、アパルトヘイトの廃止から、近年、ブリックスなどと共に、経済新興の激しい国である。W杯が行なわれるというのだから、相当なものである。
ところが、これは「表向き」である。もちろん、経済発展は本当なのであろう。それは、日本がつい最近まで、「いざなぎ超え」などと言われていたのと似ている。国の経済政策などで、やたらと調子のいい企業は、どんなに不況のときでも存在するものである。しかし、そういった企業「だけ」しか、いつまでたっても、調子よくならない。しかし、そういった儲かっている企業は、とことんまで、儲かる。ウハウハである。そこになにがあるのかは知らないが、はっきり言えることは、もう国家の景気というモノサシはあてにならない、ということである。たんに、もうかる企業は、どこまでも儲かるし、もうからない企業は、いくらモノを作っても、まったく売れない。
これが、資本主義である。
残酷なのだ。
弱いところは、尻の毛まで、むしりとられ、強いところは、尻の毛まで、むしりとる。
しかしね。
こういう事態が「常態化」したとき、何が起きるだろう。

南アの富裕層上位20%の総所得は、貧困層下位20%の約35倍に達する。日本は5倍前後、米国は約8倍、格差拡大が指摘される中国もせいぜい11倍だ。コロンビア、ブラジルは20倍超だが、南アには及ばない。今の南アのおよそ11人に一人が一日一ドル以下で暮らしており、ジニ係数は0・65で、毎年ブラジルなどと不名誉な世界一を争っている。

「一瞬で」圧倒的な、貧富の差が、国内に生まれる。すると、どうなるか。
治安が悪くなるのです。

もし、国際的な常識に従って「未遂」を含めて殺人発生率を計算しなおすと、2006年度の南アの殺人発生率は十万人当たり82・9件。2000年のコロンビアをはるかに上回る驚異的な発生率になるのだ。
強盗事件はどうか。日本では近年、年間五千件超程度の強盗事件の発生が報告されている。これに対し、南アの場合、年間二十万件前後発生している。南アの人口は日本のおよそ三分の一だから、発生率はおよそ百二十倍だ。ちなみに南アでは、よほど社会的に注目され事件でもない限り、日常発生する強盗事件では捜査自体が行われない。私の娘が巻き込まれた事件でも、警察官は一応、現場に来てはくれたが、被害者から簡単な聞き取りをして終わり。犯行現場で指紋や足跡を採取する鑑識捜査が行われることも、まずない。ショッピングセンターで激しい銃撃戦が行われ、警察への緊急通報が相次いでも、警察官の現場到着が一時間後などというケースもザラだ。

人間は、生まれたときはみんな、善人として生まれるんだよ、というのが性善説で、そんなことはない。生まれ落ちたときから、悪をやりたくてやりたくてしょうがなく、生まれてくる、というのが性悪説
ところが、どうでしょう。犯罪率を調べれば、その事実は分かりやすい。貧富の差が極大しながら、「そんなことは大したことじゃない」と嘘ぶく、自由市場原理主義者の声が大きくなればなるほど、街の治安は、どうしようもなくなる。
日本の戦後は確かに、貧しかった。しかし、「みんな貧しかった」。貧しいという一点においては、「平等だった」ということです。すると、いろいろ闇市やぽん引きは、横行して、堕落が蔓延することになっても、社会の方向性は決まっていた。みんなでお金を稼いで、いい暮しを目指そう、ということでは、同じ方向を向くことができた。そして、その場合に、重要な役割をしたのが、坂口安吾に言わせれば、農地改革だった、ということになる。
私は、アフリアの、奴隷解放を疑う。なぜ、南アは、ネルソン・マンデラの声のもと、黒人奴隷の解放をしたのか。なぜ、多くの植民地は、各地で独立ができたのか。「独立されても、もうけられる、めどができたから」じゃねーかね。それは、イラク戦争の後の、アメリカ従属を無条件で受け入れる、イラク臨時政府の姿を思わせる。
南アが、解放されたとき、むしろ、最大の問題は、「解放される前の黒人たちの再教育」だったのではないだろうか。彼らに、再度、この国で、生きていくための、手当てをやらなければ、結局のところ、彼らは最下層を抜け出すことはできないだろう。
スコッターキャンプという、黒人貧民街は、ネルソン・マンデラ、の黒人解放によって、無くなるかと思ったら、無くなるどころか、さらに大きくなっている。外国人の流入が止まらないこともあるのだろう。もちろん、新しい教育によって、若い世代には、黒人でも、富裕層に所属している人たちも多い。
これは、日本の教育にも似ているだろう。結局、教育と言いつつ、教育ではないのだ。若者選別機関なのだ。成績の悪かった学生は、何度でも、再教育を受ければいい。分かるまで、何度でも、勉強すればいいのだ。それが必要だと言うなら、どうして、そうなってない。日本の企業も、新卒しか取らない。留年した人間は取らない。回りと年齢が違うと、先輩後輩の順序の秩序が乱れるから、だってさ。仕事の能力ではないわけだ。
こういったことは、世界中で起きているトレンドなのではないだろうか。一方に、貧しい人たちを国内に多く抱えながら、一部の企業は、まるで、この世の春のように、栄華を極めている。特に、南アのようなところは、資源が多く取れる。嫌でも、世界中が、彼らに高いお金を払うわけだ。
しかし、そのお金は、決して、貧乏な人たちに渡ることはない。「だって俺が儲けたんだ」。世界の大企業も、そのほうが、ありがたいわけだ。事実、そういった現地企業を自分の傘下にしてしまえば、「事実上、その国の資源は、わが企業のものだ」。
これが資本主義なるものの、奇態と言えないだろうか。だって、その国から産出される資源なのだ。その国の人たち一人一人のものなんじゃないかと思うわけだが、資本主義はそう考えない。だれかが自称「俺のモノ」と宣言したときから、ナンピトも譲ることのできない、不文律となる。
私なんかが思うのは、そんなに儲けたんなら、少しくらい、貧しい国民が、潤うような政策を進められないのかと思うのだが、なぜ、南アは、それがうまくいかないのだろう(私はそこに、プランテーション的な、21世紀の植民地思想をみるのだが...)。
完全な、階級分化が進んでしまっている。金持ちは、プール付きの家に、ブロック堀を囲み、その上には、電気網で、貧乏人の泥棒が入ってこれないようにする。しかし、それでも入ってくる。じゃー、獰猛な犬を3匹放し飼いにしておく。でも、毒入りの餌を食べさせられたら、アウト。そうやって、金持ちは、自分の「城」を、どんどん高くことにお金を使う。
しかし、そんなことをやればやるほど、市井を覆う犯罪は、日に日にエスカレートしていく。
なんて、ひどい国なんでしょう、と思ったかもしれません。
しかし、これは、日本の未来の姿だと言えないでしょうか。
南アは、あれほどの鉱物資源がとれるのだから、その儲けを、少しでも、国民の教育機会に使えばいいんじゃないかと、他人事として思うのだが、そうならない。そこには、なにか、アパルトヘイト前から続く、連続性を感じなくもない。アパルトヘイトの撤廃とは、それに代わる、もう一つのアパルトヘイトへの変更くらいの意味しかなかったのではないか、という仮説を考えてみたくなる。
つまり、日本の戦後と、南アのアパルトヘイト撤廃には、大きな違いがあった、ということである。日本の戦後は、農地改革があったが、南アには、それと同等の、当時の黒人を「本来の意味で解放する」手段とセットになっていなかった、ということである。
日本の未来は明るくない。より、貧乏になっていく予兆の方が多い。しかし、それは、儲かる企業が、天上知らずに、儲かっていくことと矛盾しない。そのとき、どういった姿を現していくか。それはきっと、南アのような姿なのではないか。もちろん、それを否定するのは結構だが、では、それに代わるオルタナティブとはなんなのか。
今、アフリカは、人類の未来の実験場と化してしまっている(こんな状態で、W杯とは、なんの冗談なのだろうと思いつつ、これが経済学だよと言われてもね...)。

ルポ資源大陸アフリカ―暴力が結ぶ貧困と繁栄

ルポ資源大陸アフリカ―暴力が結ぶ貧困と繁栄