平野秀樹『奪われる日本の森』

(安野喜憲、という人との共著。最初、共感的に読もうとしていたのだが、だんだんと、この執筆姿勢についていけなくなっていった。)
田舎に行って、外を眺めれば、年々、商店街は廃れ、街は、どんどん、ゴーストタウンのようになっていっているが、あいかわらず、山は四季おりおり、美しい景色を見せてくれる。
ああ、ここだけは、いつまでも変わらないな。
田舎へのあこがれは、いつまでも変わらず、いつか、こんなスローライフを夢みる、というわけだ。
ところが、実は一点、完全に「変わってしまっている」。
その山は「誰の物」?
つまり、所有権、である。日本は、資本主義なんですから、当然、あらゆるものに、私的所有権があります。だから、相続税など、税金を課すこともできるというわけなのでしょう。
山だろうが、川だろうが、それが、だれかの所有の土地を横切ったら、そこから、「なにをしてもいい」。だって、そいつのものなんだから。涸れるまで、水を汲み上げても「いい」。切れるだけ木を倒しても「いい」。ばらまけるだけ、産廃をばらまいても「いい」。だって、そいつの土地なんだから。
山などの、農地や住宅地以外の土地の、売買の情報は、あまり、表には出てこないそうですが、全然木や水と関係のない日本の企業が、買っている例もあるというし、ハゲタカ外資も、理由は分からないが、買っているんじゃないか、と著者は考える(不動産なので、登記をいろいろ細工すれば、よくわからなくできるということなのだろう)。
ただ、著者によると、世界の国々の多くは、そこまでの「所有の自由」を認めていない、という。

アングロサクソン系(英国系)では、土地は本来、王のもの、神のものであるという意識が根強い。土地や海洋は「crown land」なのだ。
欧州でいちばん土地私権が強いとされるフランスでさえ、土地は公的に有利な利用がなされるべきもので、それゆえ、我が国に40万ヘクタールもある耕作放棄地などフランスではあり得ない。土地収用権も強く、ユースホステルの建設でさえ、「公益」的利用として土地収用の対象となる。ゴネ得は許されず、収用裁判所が裁く。

ここから、著者は、より国家側に土地の所有権の比重をシフトさせるべきだ、となる。
実際、世界中をみると、土地の私的所有権は、さまざまに制限されている場合が多い。土地は、国家(王家)のものであり、国民の「所有」とは、あくまで、借りているだけだ、という思想であり、イギリス、ドイツ、などはこれに近いそうだ。
日本の近代化が、フランスの大きな影響下にあること、ナポレオン法典が重要な役割を演じたことは以前書いた。日本は、世界でもフランス革命の伝統を正統に継ぐ「近代国家」だということになるのだろう。しかし、ことこの、土地の所有に関しては、本家のフランスでさえ、最近はさまざまな制限が行われていて、ここまで、野放しなのは日本ぐらいということが著者は言いたいようだ。
もちろん、著者の意図は、ハゲタカ外資を日本から駆逐することである。たとえば、対馬は、韓国とも関係の深い、ところであるが、近年、韓国系のマネーが次々、土地を買っているということだ。ホテルでも建てて、韓国人向けの観光ビジネスでもやるのか。もともと、韓国は、自国の領土をさらに広げたいという欲望があるだろう。言ってしまえば、その島の隅々まで、韓国政府が「買えばいい」。そうすれば、もうそこは「韓国領土」(のようなもの)だ。だって、「自分の土地でなにをしたっていいのだから」。
もっと言えば、最近は、水戦争が激しい。世界中で木材需要も日に日に強くなる。よく考えてみれば、先進国の中で、これだけ、森が保存されているのは、日本とアメリカくらいじゃないか。韓国も中国も山なんてない(ようなもの)だ。みんな、成金長者が、目先の金儲けのために、かたっぱしから、切り倒して、もうはげ山しか残っていないわけだ。しかし、そんなものなんじゃないか。資本主義とはそういうことなんじゃないか。今日、温まる、薪が欲しいのだ。エネルギー源が欲しい。そうやって、外を見れば、ぽつねんと、木が立ってる。切るしかないでしょー。そして、はげ山。なにが悪い。
こうやって、世界中、どこもかしこも、砂漠だらけである。よく考えてみれば、人間が生活するとは、そういうことであったのだ。自然をむさぼり尽して、砂漠にして、ばかだなーと思うかもしれない。しかし、そうやって儲けた奴らは、この土地が不毛となったとたんに、こんな土地おさらば、である。いつまでも、ここで未来永劫、子々孫々、暮していきたい「じゃないのだ」。
そうやって、地球中を砂漠と産廃放射能で人が暮らせない大地ばかりになった、最後の大地。ノアの方舟が最後にたどり着く未開の地が、日本だということになるのか。しかし、すでに、その日本の大地は、中国人が「全部買っちゃった」。日本の皆さーん。日本の大地はすべて中国人のものになりましたんで、今すぐ、荷物まとめて、とっとと「中国から」出て行きやがれ。
こうして、日本人は、ユダヤ人のように、流浪の民となる、というわけですか。
でもね。
これ読んでると、だんだんムカムカしてくるんですよね。アフリカの本を読んだからかな。結局、日本の話しか書いてないんですよ。変だと思いませんか。
おい、日本人。日本の大地を買うのは、いいとしよう。実際、それによって、日本の経済は、間違いなく、活発化したはずだ。なんてったって、日本の土地を私物化できるのだ。なにをしてもいいのだ。そのことによる、経済効果は計り知れなかったのではないだろうか(いろいろ公害問題もありましたよね)。このことが、日本の自由経済のドライブを徹底的に押し進めたはずだ。
それによって金持ちになった日本人が何をやったか。
世界中の土地や資源を買ったんでしょ。特に、発展途上国の資源埋蔵地域を。
自由主義の名のもとに、発展途上国に、土地や資源の自由化を押し付けておいて、いざ、自分の国が狙われると、「待った」ですか(待ったは何回までですか)。
そうやって、世界中を買ってきたんでしょ。これからも買いまくるんでしょ。
そもそも、ハゲタカ外資とか言うけど、お前は、外資じゃないって言うんかよ。お前は、確かに国籍は日本のようだし、忠君愛国をのたまう、超保守。しかしお前の活動の原資は、どうして、外資じゃないって言える。
都合のいいときだけ、忠君愛国を語ってみても、てのひら返せば、ぶっちゃけ、自分の懐が温まること「前提」。
確かに、日本は世界中から、原料を買って加工して、世界中に売ることで、加工貿易で食ってきた。そして、コピー大国、韓国と中国によって、今、日本の技術は、かたっぱしから、中小企業を買収され、日本のほとんどの技術は今、韓国と中国が「継承している」。こんなに物価も税金も公務員の給料も高い日本は、これからどうやって食っていくんでしょーね。
著者の立場は、結局のところ、「国家絶対主義」に行き着くだろう。国家は好きなときに、個人の私的所有権を蹂躙していい。「お前のものは俺のもの」。ジャイアン国家こそ、その行き着く到達点。それこそ、奴隷としての、国民が、国家に「忠勤」のご奉行を捧げる明治憲法的国家市民の作法なのだろう。
たしかに、地下水を汲み尽されたり、木を切ったまま、そのままにされたり、水道事業を民営化することは、その地域の「地域財」の「破壊」を帰結する可能性があるだけに、注意が必要だろう。
例えば、私たちがアパートに住んでいて、「勝手に大家さんの都合で」ある日突然、追い出されないのは、「法によって、国家によって、守られている」からである。私たちが部屋を借りた、という契約が市民法によって、保護されているからである。これが、ナポレオン法典である。それは、なかなかハブ空港ができないことや、道路の拡張が気が長くなるような長い期間をかけても、土地の買取りが進まないことの理由にもなっているのだが。
国家ロイアリティ絶対主義者は、こう考える。国は、自分のロイヤリティの限りなさを「分かってくれるはずだ」。だから、ちょっとした、私腹を肥やす所業を「黙認」してくれるはずだ。「愛国有理」なのだ。そのためなら、何度だって土下座してやる。世の中には、反日分子、ロイヤリティのかけらもない、極悪党がごまんといる。そいつらの、私的財産をまきあげて、「俺にめぐめ」。
しかしね。それってようするに、ロイヤリティは「手段」だって言いたいんでしょ。目的は私腹を肥やすこと。ロイヤリティは「ふりだけ」なんでしょ。
理由は分からないけど、社会正義のため、正義の実現のため、フェアネスのため、社会奉仕活動に「忠勤」を誓う「憂国の士」が、私腹にしか興味のない、時の権力者と意見が対立するのは「当然だと思わないんですかね」。

奪われる日本の森―外資が水資源を狙っている

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