岡田康宏『日本サッカーが世界で勝てない本当の理由』

マンガ「GIANT KILLING」をみていたとき、なにより印象的だったのは、変な話であるが、椿大介(つばきだいすけ)という少年の「性格」であった。
女性フリージャーナリストの、藤澤桂(ふじさわかつら)は、椿くんのルーツを探るため、彼の生まれ育った田舎に向かう。そこで、当時の小学生時代の先生たちに聞いた話は「衝撃的」であった。
彼は、その田舎の小さな分校の卒業記念としてサッカーを行うことを主張する。彼は、「みんながやれるスポーツ」として、サッカーがいいと言って、頑として譲らなかった。先生たちも、彼のその頑固さに最後は折れた。
彼がみんなと行ったサッカーは、非常に「特殊」であった。とにかく、みんなが参加できることを重視したサッカーであった。身体の悪い人がいれば、なんらかのハンデをつけて、とにかくプレーに参加できるようにする。彼が重視したのは、とにかく「みんなが楽しんでいるかどうか」であった。
そういうサッカーを「つくる」ことであった。
だれかが、つまんなそうにしていたり、ほとんどボールがさわれなくて、ふてくされてたり、そういうのが起きない、そういう「みんなが幸せになる」サッカー。そこでは、点数が何点入ったとか、どっちが勝ったとか、そんなことは「どうでもいいことであった」。
これが、あの、サテライトから上がってきて、今プロにいながら、なかなか才能が開化せず、苦労している彼が「目指していた原点」だった。
この少年は、この頃から、こういった心の優しい「田舎者」だったわけだ。
しかしどうだろう。
今。
日本中の田舎のあちこちで行われているサッカーとは、そういうものなんじゃないだろうか。みんなキャプテン翼の、大空翼の言う、「ボールは友だち」を、心底信じて育ってきた連中なんじゃないだろうか。
掲題の本の特徴は、あらためて、あの、日韓W杯での日本の今までの最高成績を残した、トルシエ監督を、再評価していることではないだろうか。
私のサッカー眼なんて無きものに等しいことは、論を待つまでもなく自明であるが、そんな私でも、「印象的」ということで言うと、トルシエが監督の頃の、ある日の日韓戦で、3バックを非常に高くキープした日本代表が、「圧倒的な印象で」韓国に勝った試合であった。
トルシエの頃の、3バックとは、ようするに、5バックのことであった。それは、守りの弱いチームが、守備的に戦うという宣言のようなもので、言わば「恥かしい」。
とても、世界の第一線にお見せできる、レベルじゃない。
しかし、いずれにしろ、その試合の私の印象は、まったく、韓国チームに好きに動かせていなかったわけで、「勝利以上のなにか」を印象強く残した。
日本サッカー協会は、この、ベスト16という、日本サッカー史上の快挙を「恥かしがった」。それは、韓国の活躍はそれ以上だったから、というのはある。しかし、それ以上に、トルシエという無名監督を使ったことの恥かしさ、そのトルシエがことごとく、日本サッカー協会と敵対的だったこと、選手といつももめていたことなどから、とにかく、「ノーモア・トルシエ」こそが、その後の日本代表となった。
ああいう、恥かしいサッカーを世界に見せてはいけない。日本がやりたいのは、「世界の一等国と肩を並べる」サッカーをすることなんだ。
もちろん、そういった気概は、志も高く、立派なことなのかもしれないが、それがこの前の、セルビア戦なのではないだろうか。0 - 3で負けた。しかし、この姿は、もしかしたら、岡田監督は、もう一度、予選3連敗をやらかすのではないか、それも「前回以上の圧倒的な完敗で」というイメージをだれの頭にもよぎらせたのではないだろうか。
それにしても、0 - 3 という、ここまでの完敗ということでは、あまり近年なかったのではないだろうか。
私は別に、本当に弱いのなら、別にボロ負けすることも潔しで、決して恥べきことじゃないと思うが、いずれにしろ、主力がいないというだけで、ここまでのていたらくなのか、という印象はぬぐえなかった。
日韓W杯において、理由はなんであれ、予選突破を果した日本代表を、どのように考えたらよかったのか。みんなが思考停止していた中、いつも「いろいろありながらどこかフェアな部分を含む」いつもの2ちゃんねらーたちは、いつもな感じの皮肉な口ぶりでそれを、「ワーワー・サッカー」と呼んだのだそうです。

その特徴をいくつか挙げていきましょう。

  • 通常「FW」と呼ばれるポジションの選手は「DFW(ディフェンシブ・フォワード)」と呼ばれ、相手ゴールに一番近い位置でディフェンスを始めるのが主な役割とされる。--> 当然、得点を取るのは二の次。
  • 徹底したプレスによって相手の長所を消し、思い通りのサッカーをさせない。--> そのため、傍から見ると対戦相手が弱く見える。
  • チームコンセプトが「助け合いの心」。全員に守備の意識が高く抜いても抜いてもカバーの選手がいる。--> 一対一が弱い割に点は取られない。
  • 明確な得点パターンがない代わりに、中盤のすべての選手にチャンスが回ってくる。--> 誰も点を取れないが、誰かが点を取る。誰が取るかは見方にも分からない。

こういった特徴のチームを構成する要素としては、

  • へなぎ」と呼ばれていた柳沢敦の「つなぎ沢」への進化。--> FWであるにもかかわらず、シュート数よりもラストパスの数が多く、また、その多くがボランチへのラストパスである柳沢。W杯における稲本の2ゴールは共に彼とのパス交換によるものだ。
  • 中田英寿小野伸二稲本潤一明神智和戸田和幸。中盤の選手は所属チームでは全員ボランチ。--> アウトサイドにもスペシャリストを置かず、汎用性を重視した選手起用。これにより、中盤での頻繁なポジションチェンジと、守備における執拗なカバーリングを可能にしている。
  • チームの基本となる単位は「明神」。--> 堅実でミスが少なく、粘り強い守備で相手のミスを誘い、地味ながら運動量豊富に攻撃参加する彼がこのチームの象徴的存在。別名「ミョージン・システム」とも呼ばれる。
  • 攻撃は固有のパターンを持たない「数撃ちゃ当たる」方式で、得点は「偶然」の産物。--> 得点を入れるのはFWではなくその日最も調子が良い選手。激しいプレス合戦の末、両チームに頻発するパスミス、トラップミス、松田直樹の蹴るどこに飛んでいくか分からないフィードなどが、フィールド内の混乱を高め、偶発的な得点チャンスの発生率を高めている。

「ワーワー」という命名は、中盤で相手選手に素早く寄せ常に複数の選手がボールを奪いに行く日本代表のスタイルが、ボールにワーワーと群がる子供たちのサッカーと見た目が似ているというところから命名されたものです。

2ちゃんねらーらしいですよね。半分バカにしながら、やっぱり、予選突破という結果を彼らは認めたわけですね。どうして、予選突破できたのか。
もちろん、トルシエのこの当時の戦術は、世界の流行からは、評価されなくなった(弱点が研究され)部分はあるわけで、同じことを繰り返せば、同じ成績が残せるなどと言うつもりは毛頭ないけど、ちょっと挑発的に言わせてもらうなら、
これの何が悪いの?
はっきり言おう。日本は、上記の引用のような部分を今回のW杯でも、それなりにもつことなしに、「勝利の可能性すらないだろう」。なぜなら、こういうやり方でしか、実績がないのだから。
親善試合じゃないのだ。相手も全ての可能性を徹底して極めて、挑んでくる。生半可な思い付きで太刀打ちできるほど、政治の世界もこの世界も甘くない。
練習でやったことのないことが、試合でできるわけがない。もっと言えば、お前がサッカーを始めた頃から、やってたことを、ここでもやるんだ。よそ行きのサッカーを始めた時点でお前は「借りてきた猫」となる。
しかし、それは何だ。
だからそれが、「椿くんのサッカー」じゃないんですかね。