森見登美彦『四畳半神話大系』

アニメ化だそうで、ひとまず、読んでみた。
青春とはなんだろう。などという、ちょっと甘酸っぱいことを言ってみたりするが、掲題の小説は、まったくもって「期待に応えてくれる」。
この小説は、4つに分かれていて、それぞれが、主人公が、「バラ色のキャンパスライフ」が、大学に入学した最初の選択によって実現された「はず」だという、それぞれから始まる、構成になっている。
もちろん、その「すべて」、まったくバラ色でない。いや、反対か。すべて、結論においては、バラ色となることが、語られている。しかし、バラ色となった時点で、
物語は終わる。
バラ色であるということは、「世界の終わり」を意味している。ということは、物語とは、なんらかの、欠損、欠乏、不足感を意味するものであって、だからこそ、青春なのだろう。
この作品の「大系」は単純である。まずは、お決まりの、「ヒロイン」であるが、一言で言って、彼女の存在感は「薄い」。

彼女が一回生の夏であった。吉田山の山中で例によって城ケ崎先輩の意味不明のイメージに従って撮影を行っていたときであろう。休憩して食事をしながら、新入生たちがあれこれ暢気に喋っていた。明石さんの同回生が「明石さんって週末に暇なとき、何してんの?」とへらへらと訊ねた。
明石さんは相手の顔も見ずに答えた。
「なんでそんなことあなたに言わなくちゃならないの?」
それ以来、明石さんに週末の予定を訊ねる者はいなくなったという。
私はその話を後ほど小津から聞いたのであるが、「明石さん、そのまま君の道をひた走れ」と心の中で熱いエールを送った。

こんな感じで、ほとんど、存在しないのと同じくらいに、現実味がない。そして、なんの深みのあるやりとりもないまま、最後は、「バラ色」となり、二人がつき合い始めたことが示唆されることで、この世界は「終わる」。
そういう意味では、ネタを落とすための、「手段」的な色彩が強い。
むしろ、重要なのは、主人公の「唯一の友人」の小津である。小津の特徴は、この4つの並行世界で、ほとんど同じことをやっていることである。実際、主人公は、どのサークルを選ぶのかが「どの並行世界を生きるか」を意味することを所与の前提のように語られるが、小津はそもそも「全部のサークルに所属している」。小津だけは、どの世界でもなんにも変わらない、ということだ。
小津は、主人公によって、何度も自分を堕落させる悪の牽引者のように、彼こそ元凶なんだと、さかんに主張されるが、よく見ると、言うほどのこともやっていない。むしろ、小津によって、主人公に明石さんと結ばれる導き役をさかんにしている気配もあり、さまざまに主人公を気付かっている印象がある。
つまり、小津は、(ヘーゲル的に言えば)主人公の「否定」の位置に置かれる存在となっているのだが、このトリックスターによって、主人公はこの「社会の入口」に立っている形になっている。小津を通して、さまざまな人と知り合い、社交的になり、主人公は大人へと変わっていき、この物語の終焉(絶対知)へと向かう。
なにか語るべきことがあるということは、なんらかの欠損を意味し、そして、それが、青春だ、ということになる(ヘーゲル精神現象学が、ゲーテなどさかんに同時代の青春小説をとりあげていたのが印象的ですね)。しかし、青春は終わる。その欠損が埋め合わされることによって。
むしろ、この小説を特徴付けているものは、近年のワープロを使って書くことが「当たり前」になった時代が必然として帰結することになる、コピペの氾濫である。作品の中で、何度も何度も同じ文章が散見され、読んでいる方はむしろ「しらけてくる」。なんか新しいことでやってるつもりなのだろうか。
ようするに、さまざまな趣向のわりには、凡庸でつまらない。むしろこれはギャグ小説として読まなければ「ならない」のだろうがそこがうまくいっていないということは、作者のユーモアがうすっぺらいのだろう(アニメがその可能性を広げてくれるのかは分かりませんけど)。

四畳半神話大系 (角川文庫)

四畳半神話大系 (角川文庫)