マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』

NHK で、彼の大学での講義が、放映されたことで、話題になっている。そういった、流行をたまには、見てみるのも、おもしろいのではないだろうか。
いろいろな人が、この本について触れているが、全般的に言えることは、具体的な細かな議論に、批評を加えるものではないことだ。
概ね好評。以上。
いつもの、輸入学者め。ってところでしょうか。アメリカの権威を前にすると、途端におし黙っちゃう。他に言うことないんでしょうかね。
正直、みなさんはどう思われたのでしょうか。
私は、ダメでした(まだ、読んでる途中ですが)。
どうも、「普遍主義」的なんですね。正義の問題にしても、普遍的な正義の「実在」の正当性を巡って議論してしまっている。こういった傾向は、私のここのところの、保守主義的といいますか、相対主義的といいますか、個人主義的(=不可知論的、独我論的)といいますか、こういった方向からのアプローチとちょっと違和感をもった。
たとえば、最初に登場する、ハリケーンで便乗値上げの件がある。

オーランドのあるガソリンスタンドでは、一袋二ドルの氷が一〇ドルで売られていた。八月の半ばだというのに電気が止まって冷蔵庫やエアコンが使えなかったため、多くの人びとは言い値で買うより仕方がなかった。木々が吹き倒されたせいで、チェーンソーや屋根修理の需要が増加した。家の屋根から二本の木を吹き除くだけで、業者はなんと二万三〇〇〇ドルを要求した。小型の家庭用発電機を通常は二五〇ドルで売っている店が、ここぞとばかりに二〇〇〇ドルの値札をつけていた。老齢の夫と障害を持つ娘を連れて避難した七七歳の婦人は、いつもなら一晩四〇ドルのモーテルで一六〇ドルを請求された。

つまり、これを規制するかどうか、らしいんだけど、どうもそれが「いいわるい」の話を始めちゃってるんですよね。つまり、論争解決型の議論になってしまっている。
しかし、私たちの保守主義的な前例踏襲型の理性というのは、そういった「普遍的な判断力」を必要としない。
民主主義とは、常に際限のない、修正主義だったはずです。問題は、そういうハリケーンで被害に合われた方々が、まず、今後の生活設計をどのようにしようかと、悩まれることが予想できるわけですね。すると、この被害者は、なにか買い物をしようとしたら、ものすごい高い値段を要求される。すると、どうでしょう。さらに、将来の人生設計に不安をつのらせるのではないでしょうか。
だとするなら、問題は、そういった被害者の「相対的な」ディプレッシブを緩和するような活動を、地域住民で一丸になってやれないか、と人々は考え始めるわけでしょう。
ですから、便乗値上げがいいかわるいかの議論の前に、そういった便乗値上げ禁止の法律が「時限立法的に」つくられて、どれだけの人がどれだけ、その段階で困り、どれだけの人がそれによって、精神的に安心感をもてるか、そういった話に聞こえるわです(ですから、そういったレベルで、民主主義的に立法は「修正」されていくんだと思うわけです)。
ご存知のように、法のかなりのものは、「前例踏襲主義」ですね。それがいいわるい以前に、そうなることは、自然なわけですね。だって、人々の予測の延長で考えられ、軋轢を生みにくいからです。基本的に世界は保守主義なんですね。
ところが、巷の知識人はむしろ、個人攻撃大好きといいますか、「あいつの頭は狂ってる」みたいな議論ばかりしたがる。あいつは人格が破壊してる、気が狂ってしまってるんで、こんなトンデモをくっちゃべり始めやがるんだ。しかし、そんなこと言っていても、なんにも建設的なはずはなく、むしろ、なぜこの人はこういうことを言いたがるのか、を分析する方が保守主義的には建設的に聞こえる。
保守主義的に民主主義をみるなら、ある人がなんらかの「動機」で、義憤にかられ、正義を主張され、それが「無記名投票」によって、支持されたり、否決されたり、していく流れの中に、その地域の人たちが、どういった慣習的な傾向があるのか、どういったことに合意形成されていく特徴があるのか、と見ていくわけですね。だれも、それが「(普遍的に)正しい」のか、なんて興味ないわけです。)
今、巷を罵詈雑言で埋め尽しているものこそ、管総理の長年来の友人で、民主党のブレーンとして急に登場した、小野理論、ということなのでしょうが、これは、ちょっと前の、リチャード・クーさんへの罵詈雑言を思い出させる。話を聞いてると、ちょっと国家が仕事を斡旋する側面があるとして、「統制」経済的な臭いがするとなったら、社会主義国家が、何人の人を虐殺したか、なんて話にまでなっている。
なんなんだ、その議論の飛躍は、と思うのだが、本人たちは、いたって本気(マジ)で、本気で、国家が日本国民を何人虐殺するのかを心配してくれているのかと思うと、どーもそうでもないらしい。ちょっと、そういった傾向がある「臭い」をかぐとアレルギーのように体がムズムズブツブツしてきて、条件反射してしまう、ということのようだ。
そもそも、小野さんが自分は、新古典派経済学とそんなに違わない、とおっしゃってるそうで、野口さんも言っていたように、経済学とは「常識」の学問なんだから、だれが分析しても、そんなに変わるわけがないんじゃないかと思うわけで、だから、新古典派経済学といっても、私には一つの「インフラ」の学問に思えるわけで、これ自体の価値がどうこうと言うような、そんな「大仰」な話には、さっぱり思えない。
早い話、そんなにその議論が危険だと思うなら、時限立法で「ざまーみろ」でやらせてみりゃいーじゃないか。どうせ、それで泣きをみるのは、国民なんだから、いい「授業料」になったで、なにが悪いのか(本当に困ったことなら、国民も拒否するでしょう)。そもそも、これは最初から最後まで「民主主義」の話だったんじゃないのか。国民がこれがやりたい、と言ってんなら、やるしかねんじゃね? たとえ国が滅びようが、どうなろうが。民主主義は資本主義の邪魔だから、こんなシステムやめちまえ、って言っておきながら、アナーキズムこそ国家の敵だ、というわけで、つまり、それこそが「社会主義」ですよね。大丈夫ですかね?
むしろ、そういった「普遍的な」議論は、ひとまず、いいわけです。まず、(保守主義的な)学問がやるべきこととは、その、
相対的
な意味であるはずなんじゃないか、と思うわけです。今週の videonews.com で、強調されているが、所得税最高税率が、1983年の93%から、99年に50%の大幅減になってる、ということなのでしょう(それ以前には、消費税すら、なかったわけだ)。相続税贈与税も大幅に下げられてますよね。
つまり、こういった人たちは、真面目に仕事をしなくなったんでしょ。だって、そんなことやらなくても、税金で取られませんからね。じゃあ、こういった人たちのお金がどこに行ったかというと、金融ですね。でも、金融って、一つの「貯金」でしょ。全然、お金が市場に入ってこない。
つまり、どうして、日本のこの何年かの不況の原因を、ここ何年かの、
金持ち優遇税制
の「せい」だと言っちゃいけないんですかね。まずは、「相対的な」差異こそ、注目しなきゃなんないでしょう。こうやって、倍近く変わってきて、日本は、超格差大国アメリカにいつのまにかなっていた(この「クーデター」の手口、厚生省のA級戦犯の合祀の過程を思い出させますね)。これだけ不況、不況、って言うんなら、とりあえず、ここを「戻して」みたらどうですかね(これこそ、保守主義)。
もちろん、こういった金持ち優遇政策
普遍的な正義
をサンデルのように議論しても、いいですよ。ようするに、アメリカン・ジャスティス=グローバル・ジャスティスってやつですか。でも、日本の景気がまったく回復せず、他方で、中国の経済発展があって、日本やアメリカが、こういった、意味不明の、
神学論争
をしている間に、中国はどんどんピンポイントで科学技術を発展させて、比較優位な国家を確立させてきている。他方、日本って何? 日本企業という「グローバル企業」に日本にいてもらうために、いろいろ接待している間に(なんか、特別優遇制度といって、法人税を40%も払ってる会社なんか今でも、ないらしいですね)、日本そのものの国際競争力が著しく低下してる、ってことですか(このまま、どんどん、差を広げられたとき、どうなってますかね)。
経済学者が言うことって、いっつも、一つなんですよね。「その分配はフェアじゃない」「その(税金という)盗みはフェアじゃない」。分かったけど、それで、そんなにあんた困ってるの? うるさいから、黙っててもらえませんかね。自動車の事故の賠償だって、そうですけど、そんなYES、NOで分けられないことなんて、たくさんあるわけでしょう。そんなことやってる暇があるんなら、一つでも、具体的な人々にとって「便利な」商品の開発でもしてみませんか(つまり、諸国民の富)。
今週の videonews.com で、浜さんが言っているが、もし消費税に「普遍的な」意味があるとするなら、それは、「外国人からも税金を取れる」というところなわけですね。だとするなら、観光都市を目指すような地域には、十分なメリットがある可能性が「ナショナリズム」的にもあるかもしれないわけだ。別に、どんなに難しくても、生活必需品を低税率、贅沢品を高税率にすることは、絶対不可能という議論でもないわけですし、いっそのこと、「全部」消費税を地方税にして、地方の方々に、自分の地域の事情に合わせて考えさせたら、いいんじゃないですかね。アメリカのように(アメリカ好きの、有識者さん)。
もし、私たちが、ここ何年かで、生きづらくなった、と感じるとするなら、この私たちの「保守主義的な立場からは」大事なことは、ここ何年かで、「何が変わったのか」を具体的に整理することのはずです。ほとんどの場合、その「差異」に原因があるはずだ、と考えるのが保守主義的な態度と言えるでしょう(むしろ、有識者さんたちの、こういった作業に対する、やる気のなさ加減というのは、どうしたものなんでしょうね)。
普遍的な理想を夢見るのは、それからでも遅くないはずです。
さて、この本の愁眉は、第5章で、その正義を「ちゃんと」カントにまで戻って考察しているところだろう。それによって、ようやく、「功利主義」は相対化される。ただ、カントを読むといっても、その議論は、18世紀の人ですし、あくまで「テキスト」としての読解となるわけです。ではそのカントの「可能性の中心」とはどこなのか。カントには一方に、純粋理性批判のような原理的な考察がある一方で、道徳哲学のような、かなり思弁的な議論がある。この差をどう考えればいいのか、に極論されるのだろう。

疑問その2:カントは、義務を果たることと自律的に行動することは同じだと主張しているようだが、そのようなことがりうるだろうか。義務に従うことは、法則に従うことさ。法則に従属することを自由と呼べるだろうか。

疑問その3:自分が定めた法則に従って行動することが自律だとして、全員が同じ道徳法則を選択する保証はどこにあるのか。定言命法が意志の産物なら、人によって思いつく定言命法は異なるのではないか。カントは、すべての人間は同じ道徳法則に合意すると考えているようだが、人びとが異なる判断を下し、ばらばらの道徳法則を導きだす可能性がないと、どうして確信できるのだろう。

カントはこれになんと答えたか。彼は自信をもって、この質問に「答えなかった」。彼は傲慢なまでに、この普遍的な法則を、後世の我々をまるで、挑発するかのように、ほっぽり出しやがった。ただ、一つだけ言えることは、彼は「自由」のことしか論じてないし、彼はそれをまるで「無定義用語」のように、「自信たっぷりに使う」。
たとえば、このサンデルの本では、ヘーゲルはとりあげられていない。なぜ、ヘーゲルを無視しておきながら、カントを彼は無視できなかったのか。そこが、おもしろいんですね。そう考えると、カントは明らかに、ヘーゲルと一線を画する特徴がある。つまり、「実践哲学」の可能性を開いた、とも言えるんですね。ヘーゲルが過去を合理化する、「言い訳」の哲学だとするなら、カントは科学など、今、この世界にアクセスしていく、そういった未来を切開いていく、可能性のようなのを感じるんですけどね。ほめすぎですかね。

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学