ブブゼラの風

今回のW杯は、ヨーロッパ勢が全般に低調だった大会と特徴付けられるだろう。また、地元のアフリカ勢も苦労していた。高地での試合は、こういった環境に慣れていないと、まず、体が動かないだろう。そういう意味で、選手一人一人が、こういった高地に適応できているのかどうかが、パフォーマンスに大きな影響を与えていたのではないか。あと、南半球ということで、冬の大会だったことは、おもしろかった。
しかし、なにより「おもしろかった」のは、このブブゼラの音だろう。とにかく、うるさい。しかし、それが「アフリカ」の慣習的な観戦スタイルということなのだろう。
現地の観客席がときどきうつるが、現地の人たちは、試合を観戦しているのか、ダンスを踊っているのか、どっちなのか分からないくらい、「ずっと踊っている」。そういう意味で、「試合などどうでもいい」のだろう。
私たちには、こういった現地の慣習的なその意味が、おもしろいのである。たとえば、この南ア大会まで、こんなブブゼラで、ここまで「うるさい」サッカー会場というのは、(日本であてはめれば)「マナー違反」の一言で終わり、だったであろう。しかし、この地球の反対側では、むしろ「こうじゃない方が異常」というわけだ。
そういう意味で、明らかに、ここにはサッカーがあるのだが、それは私たちが慣れ親しんでいたサッカーとは「別の」サッカーが存在していた。こんな、ブブゼラでうるさく声も通らないサッカーが「サッカーのはずがない」。
しかし、郷に入りては郷に従え。ここアフリカでは、これこそがサッカーだったわけだ。
まったく違う競技。
この単純な数えるほどしかルールのない競技でありながら、世界中の国「それぞれのサッカー」がある。
そんなものは「サッカー」じゃないと言うのは簡単であるが、大事なことは、私たちはそんなに簡単に相手のことを分かったようなことを言えない、ということである。なぜ、その地域の人たちは、そのようなサッカーをするのか。そこには、その地域の人たちが、そもそもどんな慣習的な日常を営んでいるかと、切っても切れない関係にあるはずだ。
なぜ、サッカーがこうやって世界中に普及しているか。サッカーという競技が、そういった、各地域の慣習的な「自由」性に、「寛容」だからではないだろうか。
むしろ、私たちは、こういった「おらが町のサッカー」を、徹底して肯定すべきなのだろう。この地球の反対側の大地で営まれる、ブブゼラの風の中、観客が土俗的な踊りに興じる中営まれる、カーニバル的世界。