塩見直紀『半農半Xという生き方』

この本は、少し変な感じがした。
著者は、なぜ、自分が「半農半X」というキーワードを思い付いたのかについて、しつこいくらいに記述する。しかし、他方において、それが、具体的にどういうものを意味するのか、少なくとも、著者がどういう意味で、この言葉を使おうとしているのか、その記述が弱く感じられる。
その辺りを、具体的に考察してみたい。
現代社会は、分業の時代である。これを人は経済原理とか資本主義と呼んでいる。私たちは、自分の食料を自分で直接、獲得しようとしない。
なにか、別の専門性において稼いだ(分業)、お金で食料を買う。
ところが、近年、失業率の上昇が止まらない。どんどん、どんどん、仕事のない人が増えている。企業が人を雇わないのだ。なにせ、企業が労働者を必要としなくなってきた。
まず、コンピュータが、人間何人分も働いてくれる。例えば、コンピュータがなかった頃の、銀行は、みんなで、
そろばん
で帳簿を合わせていた。人海戦術で計算していた。ところが、そんなものは、今じゃ、コンピュータが、
光の速さ
でやってくれる。労働者さん、間に合ってまーす。うちのすぐれもん君(コンピュータ)が、あんたの、何人分もやっちゃってまーす。
こうやって、日本は失なわれた、もう何年目か忘れちゃったけど、とにかく、企業は労働者はいらない、労働者は働く場所がないから、収入もないということで、今度は消費者として消費するための、お金がない。仕事がある人も、いつ、「あんたいらない」って言われるか分かんないから、
ぜーんぶ貯金。
物を売っても売れない。ますます、労働者がいらない。
しまいに、日本に企業が、
なくなった。
ところが、この、税金というやつは、欲しい、欲しい、が止まることがない。日本に企業がなくなって、誰も働いてないんだから、公務員もいらないんじゃないのかと思うんですが、どーもそういうわけにはいかないらしい。
日本中、仕事がなく、企業もなくなって、みなさん、家でブラブラ、プータローやってんのに、コームインの方々、お勤め御苦労様です。少ないお金ですけど、これ使って下さい。お国のために、がんばって下さい。草葉の陰から応援してます。
その心掛け、大変殊勝でよろしい、と言いたいところなんですが、なにせ、仕事がない。家でプラプラ。外で遊ぶ、お金もない。
なんか、変だなー、と思いながら、どうだろう。こう考えてみないか。
もう、働くの、「やめませんか」。
つまり、労働者(お金稼ぎ=税金払いオタク)「やめませんか」。
しかしね。お金がなくちゃ、生きていけなかったんじゃなかったのか。それが、資本主義、分業社会の本質だった、と最初に断ったのは誰だよ。

環境問題は心の面が大きいと、私は思う。何かを満たしたくて、人は消費に走ってしまう。人間一人ひとりにある買い物依存症的な消費欲望の肥大が、環境問題の根源にあるのではないか。
田舎で「反農」の暮らしをしようとすれば、原則的に生活は「生活収入少なく、心の収入大きく」になる。ここ綾部では、大人一人、月に10万円も収入を得れば、充分に暮らせるだろう。
実際、職の選択肢が狭まり、「入りを計って出(いずる)を制する」という言葉があるように、必然的に生活自体は縮小する。

よし。
もー「なにも買わない」。決めた。
って、どーでしょう。こーいう生き方。何も買わなきゃ、お金は出ていきませんねー。とにかく、自分が今まで持ってたストックだけで、
なんとかする。
おいおい。
そんなこと可能なのかよ。
日本人の誰もが、老後の心配のために、汗水たらして稼いだお金を、必死で貯金してるこのご時世。みんな、キリギリスにだけはなりたくないと、アリの思いで、定年のその日に、自分は、年金も払っておらず(多くの若者が実際そうだという)、退職金も払われず(企業によってはいくらでも可能性はある)、もし、それで貯金までなかったら、
一体、その次の日から、私は、どうやって生きて行けばいいんでしょうか。
そんな不安な気持ち。分からなくはないですけどね。でも、もう少し、分析して、考えていきませんか。
まず、生きるには何が必要か。当然、食事ですよね。あと、住むところですよね。あとなに?
あと他に、必要なものなどある?

今、日本の田畑は荒れている。昔の人は美意識から、自分の田畑に草が生えっぱなしになっているのを、みっともないことだとしてていねいに草刈りをしていた。今でもその意識は残っているのだが、実際に草刈りをやる人がいない。その意味で、たくさんの田畑を持っている人はたいへん困っている。田畑、山林、竹林の管理に限界がある。土地を持っている負担が大きい時代になっているのだ。
たくさんの土地を持っていても、一家の働き手が外に出ていると、田畑は草ぼうぼうの状態で放置されていることが少なくない。都会に移り住み、年に数回だけ実家に戻ってきて田畑の管理をするが、それだけでは田畑の荒れは防げない。
大正、昭和初期生まれの人がいなくなったら、農村風景も大きく変わるだろう。私は、都会の人が農業や山仕事、森林ボランティアをできるような共有財産的な土地が必要だ、と考えている。今、都会では市民農園を求める人が多く、順番待ちの状態だ。現在、綾部市には市民農園の計画がある。小泉内閣の目玉である構造改革特別区域法に基づいて、国に「農村交流促進特区」を申請し、農家が市民農園を行えるようにしたのである。
家にいても田畑にいても、これまではどれだけの土地を所有しているかに価値が置かれていたのだが、今では考え方も変わってきている。綾部でも誰かに使用してもらい、草ぼうぼうの田畑が甦ってくれれば嬉しいという人が増えてきたのである。
今、世界では、「所有価値」から「利用価値」へ意識・考え方が変わりつつあるが、農村部も同じである。人にはどれだけの土地が必要かというこが問われ出してきているのだ。

食べ物が欲しいなら、畑を耕せばいい。半年、一年後には、野菜が実るんじゃないんですか。それを食べられたらどうでしょうね。でも、土地も家もない。ムリダナ。ウン、ムリダナ。まあ、とにかく、貸してくれ、って言ってみるのもいいでしょう。お互いに、納得されれば、そういう契約もありうるでしょう。
というか、単純に、土地、家ごと買ったとしても、それほどの値段じゃないでしょう、田舎ですし。
というか、むしろ、セレブとか、金持ちの方々こそ、そういう、スローライフ
あこがれまくり
じゃないんですかね。子供の教育にもいいと、田舎暮しをさせたくて、しょーがない、パパママ僕。

我が家の食生活は「未来食」を基本に成り立っている。
未来食は穀菜食研究家の大谷ゆみこさんが提唱されたもので、雑穀、昆布、根菜類、自然塩を中心とし、健康を考慮した食事で、身体にいい調味料を使って雑穀、根菜類、昆布、発酵食品(漬物など)を食べるという考え方だ。
ヒエ、アワ、タカキビなどを現代風にアレンジする。和、洋、中華、イタリアン、菓子も未来食の考え方でつくる。

(たしかに、国家が、こういう生き方をなんとしでも、阻止させようと、税金攻撃をかけてくる可能性はありますよね。国家は、なんとしてでも、税金コレクターとして、一円でも税金を払わせる
活動
を国民にさせたいでしょうから。)
私は、あまり不勉強でもうしわけないが、戦前の農本主義には、それなりに学ぶべきところが多くあると思っている。例えば、著者の言う「半農半X」とは、

  • 一日の半分を、自給自足のための農業
  • 残りの半分を、「X」。つまり、今、みなさんがやってる会社勤め

というふうにも読めるわけで、もしかしたら、これこそが、未来の人間像なのかもしれない。
半日的分業=半日的自給自足
今やっている仕事が本当に、一日中、かけてやるだけの
人生的意味
のあるようなことなのか。そもそも、そんな仕事が、一日をかけても終わらないようなものなのか。本当に、半日農業をやってから始めて終わらないようなものなのか。
この、コンピュータ社会の時代に、そんなに人間の作業が、いつまでも、時間ばかりかかるようなものなのか。
そう考えると、こういった未来も、まんざら、来ないとも限らない。と、ちょっと思ったりもするのだが(さて、どうですかね)。

半農半Xという生き方 (ソニー・マガジンズ新書)

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