ビル・トッテン『アングロサクソン資本主義の正体』

ジジババにとっては、孫は、目の中に入れても痛くないそうで、甘えかわいがられるのだけはうまい、ガキどもに、あれ買ってこれ買ってとせがまれたら最後、のべつまくなし買い与えずにはいられない。
らしいよ。
もしこれが、「国家と国民」だったらどういうことになるだろうか。国家にとって、我が国を愛してくれる愛国者たちは、目の中に入れても痛くないくらい、かわいくてかわいくて、しょーがない。彼らが、お金くれくれと言ってるんだ。
どうしてあげないでいられよう。
おい。そこの、日銀。輪転機、回して、さっさと、お札を刷るんだよ。かわいいかわいい我が愛国者たちに、配るんだから。
パソコン欲しい? じゃあ、一万円札20枚刷って渡しといて。
お家(うち)が欲しいんだ。じゃー、とりあえず、一万円札1000枚刷って渡しといて。あっ、まだ足りなかったら言ってね、また、刷るから。
ずいぶん、ひどい話だな、と思うかもしれない。しかし、よく考えてみてほしい。これは、国家がやっているというわけだが、その国家の
意志
は、だれが決めている「ということになっている」か。国民が、選挙などによって、決めているわけだ。つまり、国民が、そのお金を欲しいと言っている人に、あげよう、と言っているだけ、というふうに読める。そう考えると、逆に、なんでこれが問題なのか、とも言いたくなってくる。
いやいや。だって、そんなお金を欲しいと言っている人がいるからって、そんな簡単に、お札を印刷して、ばらまかれたら、お金の
価値
が下がるだろう。そうしたら、私たちの貯金しているお金の値打ちが、どんどん小さくなってしまうよー。どーしてくれるんだよ。俺の貯金ー。
うんうん。言いたいことは分かる。そういう意味では、市中にばらまく通貨の量には、限度、バランスがあるし、なにより、そんな、ただで、お金をあげるもんじゃない。国は、せっかくお札を印刷する権利があるんだから、それで、なにかを買ってもらわないと。
あー。世の中って、こんなふうにできてるのかー、と勉強になった不勉強の諸君は、これは、昔の中国の宋の時代の話だということに気付かなければならない。これは、あくまで、昔の中国の話なのだ(宋では、あくまで、皇帝だけがお金を発行していた)。
実は、お金を自分で生み出してばらまいている、民間企業が、この日本に、いまくり、なのである。それが、銀行、であり、信用創造、と呼ばれているものである。私たちが銀行に「お金を貸して」と言うと、銀行は「いいよ」と言って、
預金通帳に、ゼロを書き足す。
これを、じゃあ、この銀行の預金者全員が同じことをしてもらったとして、みんなで、こう言ってみよう。
そのお金、現金手渡しでお願いしたいなー。引き落してほしーなー。
もちろん、銀行にそんだけのお金(銀行券)があるわけがない。だって、銀行がやったことは、預金通帳に、ゼロって書き加えた
だけ
なんだから。
つまりこれは、銀行が「預金通帳上で」お金を作ることが、許されている、ということを意味する。通帳上でなら、銀行は、いくらでも輪転機を回して、目に中に入れても痛くない、お孫さんに、お年玉を刷ってはあげる、ことができることを意味する。
一般の経済の教科書では、
だから
銀行には、国の規制・監督が重要だ、と書いてある(というか、そういうことで「今まではやってきた」と言った方が正しいのだろうか)。
しかし、どうだろう。こんな疑問が湧かないだろうか。そもそも、なんで民間企業が、お金刷ってんの? さっきも書いたように、野放図にお札を日本中にばらまかれたら、だれもが、いくらでもそのお札をタンスの中にしまっておけるわけで、そんなものに価値など付かないだろう。しかし、そういうことをしてもいい権利が、
フツーの民間人(銀行人)
にあるというのだから、ちょっと大丈夫なのかと思わないだろうか。

ただし、ほとんどの国で中央銀行が創造している紙幣通貨供給量の10%にも満たない。9割は一般の銀行が「A会社に100万円の貸出」と帳簿に記載する、あるいはコンピュータに打込むことによって生み出されているのである。

じゃー、日本銀行に、しっかり、監督してもらわないとなんないってことですなー。日本銀行と一般の銀行がお互い、よく話し合って、通貨の流通量をちゃんと、コントロールしてもらわないと、毎日汗水たらして稼いでる、一枚一枚が、本当の紙屑になってしまうわけで...。
???
はて? そんなこと言って、日本銀行、ゆーこと聞いてくれるのかな?

連邦準備制度(FRS)は、アメリカの中央銀行制度を司る企業体である。連邦準備制度理事会FRB)が統括するが、組織の実体は米主要都市に散財する12の連邦準備銀行の集合体である。
この連邦準備銀行は誰の持ち物なのか。連邦準備銀行の中で最大の存在であるニューヨーク連邦準備銀行は、ロスチャイルド銀行(ロンドン)、ロスチャイルド銀行(ベルリン)、ウォーバーグ銀行(アムステルダム)などの欧米の国際金融資本たちなのである。アメリカ政府は一株たりともその株式を持っていない。

日本銀行という名称から、多くの人はそれを政府機関だと思っているようだが、じつは日銀は政府から独立した特殊法人で、株式もジャスダックに上場されている。日本政府は日銀株の55%を保有しているが、残りの45%の株主が誰なのか、政府も日銀も、国民に教えてはくれない。45%の日銀株を持っているのがJPモルガンなのか、シティバンクなのか、野村證券なのか、民主主義国家と呼ばれる国で、主権を有するはずの国民はそれを知らされていないのである。

一時期、ホリエモンの企業は株主のもの論が、注目されたものだが、(国家の国運を左右する輪転機が民間人のモノってわけですから)そうなると、
日本もアメリカも、民間企業のもの
みたいな話になりませんかね。
さて、著者は、一つの案として、「100%マネー」を提唱する。このアイデアは、つまり、銀行から信用創造機能を除外する、ということで、BIS規制どころじゃない、100%の準備金を積ませる。預金に利子がなくなり、銀行はあくまで、金庫業になってもらう、ということだろうか。それじゃあ、お金を借りる手段だが、それは、全然別の、貸出機関が、株式や社債で集めたお金で行ってもらう、というわけだ。
(マネーのダイナミズムはかなり損なわれるかもいれないが)なんか、それこそ「常識」にしか思えないんだか、どうなんだろうか。
最近、日本の「借金」という言い方が、さかんにマスコミで言われる。しかし、なぜ、国が借金をするのかと言えば、国は自分で輪転機を回せないから、なんでしょう。つまり、著者は、民間銀行に信用創造させるんじゃなくて、国が自分の責任(国民の意志)でやれ、と言ってるわけで、そうすりゃー、借金なんて、ほとんどやんなくていい、ってことなんでしょう。
そんなことを許したら、国家財政がめちゃくちゃになるじゃないか、と思うかもしれないが、銀行(のギャンブル)がバブルを作り、銀行の投資の失敗が、貸し渋りになり、いつまでたっても日本経済は回復しない、わけでしてね。結局は、どっちが、
自分たちのコントロール配下にあるのか
を考えれば、こっちの方がずっと常識的と著者は考える、ということなのだろう。
さて、今のデフレは、確かに、今後、企業が「もうからない」という予想の下、起きていると言っていいだろう。

化石燃料生産が地質学的な限界に近づくと、エネルギー価格は高騰する。その結果、コスト増となり、生産的な経済活動の利益が低くなる。そのために投資家たちは、生産的な経済活動を支える設備投資に資金を投じるよりも、金融商品に投資して利益を得ようとするようになった。

しかし、そもそも、「もうからない」なんて、実にフツーのことに思えないだろうか。ちょっとしたことで、簡単に儲け、など発生しなくなるように思えないだろうか。なぜ、そこまで、人間活動が「儲け」に縛られなければならないのか。

社会に流通するお金の80〜90%が「貸し付け」によってつくられたお金であり、貸し付けは利子を付けて返済しなければならない。そのため、経済は利子の分だけ常に成長する必要があると考えられている。

そもそも、もうける、って「結果」の話だったのじゃないのか。つまり、それは、なんらかの労働によって富を創造することによる、
見返り
みたいな意味だったわけだろう。しかし、企業がだんだんもうからなくなり、この世界のお金は、どこに投資先を求めて行くのか、あてもなく、さまよう。それが、現在の世界マネーの
ギャンブル化
なのだろう。

世界で1日にどれほどの通貨が売買されているかご存知だろうか。2007年のデータでは約4・5兆ドル、1ドル=90円で換算すると約405兆円である。言っておくが、たった1日の数字である。一年間で置き換えれば、外国通貨の取引額は世界のGDP合計の27倍となり、世界貿易額の86倍にも達する。よりわかりやすく言うならば、1年間の外国通貨の取引額が、同じ1年の間に全世界で生産・消費された製品やサービスの総計の27倍にもなり、同様に1年間に世界で貿易取引された製品やサービスの合計額の86倍にも達するということである。
さらに言えば、世界貿易(海外旅行も含む)に必要な金額は、外国為替取引全体のわずか1%に過ぎない。残りの99%はどうしたのか。言うまでもなく、円をドルに交換し、ドルの価値が上がったらそれを売って円に替えて為替差益を手にするという、その儲けのためだけに取引されているということである。これをカジノ化と言わずして、いったい何と言えばいいだろう。

企業の株式による資金調達額は、全株式取引のわずか1%未満である。残りの99%以上は、すでに発行された株式を投機家、投資家が値上がりを期待して売買するものだ。新規発行株と違い、これはいくら取引が増えても企業の資金を増やすことにはならない。
つまり、株式取引の99%は、賭けに勝った人が儲かり、負けた人が損をする博打であるということだ。これが、日本経済にどれほど貢献しているのだろうか。また、経済効率という観点から考えると、経済を循環させるために企業の資金調達に使われるのがわずか1%未満の取引だけだとするなら、このやり方は非常に無駄が多く、非効率だといえる。

どう考えても、今のマネーの流通量は、普通に私たちがモノつくりをやって、その創造された富を世界中の人たちで享受しよう、という「企業活動」を、
はるかに超えた
金額が動いている。ギャンブルは「遊興」としての範囲であるなら、それなりに人間社会の中で存在意義を確保してきたのだろうが、それが、これほどまでに、
貧富の格差
を「結果として」生じるまでの規模になってくると、本当にこんなものの「存在場所」を保護、確保することが重要なのかの疑問が吹き出してくるのだろう。
著者は、その点に関しては、「トービン税」のアイデアに賛成する。これは非常に単純で、例えば、日本円の売買に対して、円の売り手に0.5%、買い手に0.5%の税金を課しちゃえばいーだろ、ということである(私企業に支配されてる、アメリカがまず呑みそーにないアイデアですけどね)。
さて、最大の問題は、常に、雇用であった。労働者が働きたくても仕事がないことが、とにかくも、政治の不満を生み出し国政を不安定にしてきた。
著者は、こういったものに対して、ケインズ的行われてきた、公共事業、については、それは結局は、その受注した企業の「社長」が儲かるだけ、という意味で、根本的な解決ではない、といい、「ELR」というアイデアを提示する。
つまり、簡単に言ってしまえば、最低限の給料で、国が失業者を
みんな
雇う、わけである。だって、やることなくって、家でプラプラして、精神的ストレスで今にも自殺しちゃうかも、とか言ってるんでしょ。そんな人間、飯代だけでも、もったいない。国が雇って、公園のゴミ拾いでもなんでも、やってもらえばいーじゃないか(分かってます? そうでもしないと、生活保護とかいって、年金以上にお金のかかる人たちなんですよ。働かないでお金あげるのと、働いてもらってお金あげるの、どっちがいいかじゃないですかね)。
(別に、景気が回復したら民間に戻ってもらってもいいですよね。大事なことは、その単位は、できるだけ小さく、地方、その地域の現場が行うことですね。)