子安宣邦『「近代の超克」とは何か』

歴史は結局のところ、
誰の視点
で見るのか、という点こそが最も重要なのではないか、そんな印象を、ここのところ持っている。結局のところ、なにか、普遍的、俯瞰的な立場というものがあって、そこから、大所高所で語る言説は、たとえその理屈に人々が、直接に反論することが難しくても(もちろん、周縁的な批判は噴出しまくることがあったとしても)、問題はその普遍性という、
いかがわしさ
にあると言えないか。たとえば、あと100年後の人たちが、この「上から目線」の説教を、どう評価するか。その時代の人たちには、愚かな妄言でしかない、と判断するのかもしれない。
なぜ、そんなことになるのか。結局、普遍主義は、議論に必要であっても、どうしても、
現場の具体性に欠ける
わけである。一種の、イデオロギープロパガンダ、こういった種類の言説と区別が「方法的に」付けられない。つまり、こうである。その普遍的言説を語る人間には、まったく
普遍的じゃない
動機、本人のさまざまな欲望、政治的意図、他者マインドコントロール、さまざまな「個人的動機」が反映している。金持ちは、なんとかして、貧乏人の「嫉妬」が自分に向けられることを回避したいし、なんとかして、貧乏人に
バカ
でいてもらって、うまく貧乏人を「使いたおしたい」。頭の悪い奴は金持ちにしてみれば、かっこうの、金づる。いかに、貧乏人をバカでいさせ続けるか。それが、自分が金持ちでい続けるための「全て」なのだろう。ここにも一種の、
錬金術
がある。
いずれにしろ、歴史を語るにおいて、そういった個人的動機を排除した「完全殺菌の純粋培養的な」世界を求めることは、欺瞞でしかない。すべての議論は、
汚れている。
でも、いいのである。そもそも、政治はさまざまな利害が対立しながら、自らの義憤に従って、政策が主張され、(民主的に)判断されていく場である。つまり、この制度は、もともと、そういうものであることが
折込み済み
なのだから。
例えば、子安さんにとって、日本の近現代思想史を考える
ベース
となっているものは、なんであろうか。間違いなく、彼の
戦中体験
であるだろう。

私が小学校四年生のときであった。クラス担任の女性教師がある時、「日本は長い戦争をしている」と私たちに話しかけたことをよく覚えている。その言葉を私が覚えているのは、その言い方が少年の私には不思議に思われたからである。「臨時ニュースを申しあげます」というアナウンサーの興奮気味の声とともに米英両国との開戦を報を聞いたのは、その前年、三年生の俊の一二月八日であった。私からすれば戦争は始まったばかりと思われた。なぜ長い戦争なのか。この疑問が解けたのは、十五年戦争という日本現代史の事実を知るようになってからである。
支那事変」という軍事的事態が中国大陸で進行しているということを七、八歳の私も知らなかったわけではない。

中国大陸で展開されている軍事的事態を、少なくとも私は戦争とは考えていなかったようである。

中国大陸での武勇談めいた話を子供のころ中国帰りの人たちから聞いた覚えはある。しかしそれを中国における戦争の話として聞いていたのではないようだ。

子安宣邦「「支那事変」とは何であったか」

昭和とは何であったか―反哲学的読書論

昭和とは何であったか―反哲学的読書論

(私は、若い人々が、戦争世代の言説に「コミット」しないこと、それに実際的な義務を感じていないことを別に糾弾したいわけではない。若者には実際に、戦争体験がない。であるなら、素頓狂なことを言うことも、彼らにとっては、具体的な
現実的な内的な必然性
でもあるわけであろう。しかし、他方において、まったくの「繋がり」が断絶されているのだろうか。たとえば、自分たちの両親やジジババやヒイジジババとなんらかの関係をした子供たちにとって、彼らは
自分となんの「コミット」のない人
であろうか。また、こうやって大人になっていく間にさまざまに関係してきた、自分より年配の人たちと、自分は言うほど「切れて」いるのだろうか。なんらかの連続性があると思うなら、彼らの戦争体験は、その
レベル
で自分と繋がる。つまり、その程度においては、私たちは、戦争を「体験」している、その程度においては、私たちは、
戦争加害者
なわけである。)
多くの日本人が、日米開戦、から、
初めて
日本が戦争を開始始した、と、無意識にであれ、無自覚にであれ、思ったことは、重大である。

昭和の知識人ばかりではない、大方の日本人にとってまず事変があったのである。「満州事変」があり、そして「支那事変」があったのである。火を着けて、燃え上がらせた事変の張本人たちを除いて、恐らく当時の軍部にとっても、政府にとっても、そして天皇にとっても事変がまずあったのであろう。たしかに事変とは勃発するものであり、まず事変が生起するのだが、しかしここで事変がまずあったというのは、その突発性というよりは、むしろその事後性をいおうとしているのである。「歴史始まって以来の大戦争」と小林秀雄もいうような大陸における重大事態を、しかし日本人は起こってしまった事変として事後的に受け取らざるをえなかったのである。これは昭和日本のどうしようもない悲劇的な事態である。

かりに、その軍部の暴走に、ガバナンスが「密教」的意図としてあったとするなら、それは、議会という民主的議論を経ていないわけですから、その行為の「正統性」が疑問視されるでしょう。逆に、ガバナンスがなかった、機能しなかった、とするなら、それを、
国家
と呼ぶべきなのでしょうか。国家が自分をどうするかを、自分で決められない。一部の暴走を、「ということで、そっちに向かうことになりました」となるなら、まさに、日本人的な、
自然(じねん)
の思想。世界は、萌え萌え生まれ来る、生成のマンダラ。そこに、人間の主体的な改造、制作、人間が自然をねじ伏せ、生きるために、自然を
征服
するというアイデアはない。日本人には事変を、「そういうことになりました」と、言われて、「はあ、そうですか」。あのなー。
起きちゃった
じゃねーんだよ。お前は、どうしたいんだよ。そんな、一部の跳ね返りが、侵略戦争をやりたくて、うずうずして、しょーがなかったって、そんな人間、いつの時代でもいるし、実際、いつだって、暴発してんじゃねーの。
暴発を起こした軍人たちの粛清もできない(それは、今の官僚の汚職や不正に、解雇などの厳罰で挑めない、政治の体たらくを思わせますよね。つまり、それだけの職務を代わってこなせる人がいないから、また、一部の厳罰が、現場のサボタージュにつながって、国家が機能しなくなることが嫌だから、甘く甘くしたくてしょうがない、ということなのでしょう。ますます、官僚が政治家の足元を見るようになる)。
ようするに、一言で言えば、ガバナンスが無いってことなんだ。じゃあ、日本って、
どっち
のことだよ。暴発した、満州事変の軍人たちが「日本」なのか、その行為を後追いで「そういうことになりました」と、機会原因的に後付けることしかやらなかった我々が「日本」なのか。御都合主義的に、識者はその
二つの日本
を「無自覚に」使い分ける(なんのことか分かってないのだろうが)。
じゃあ、言わせてもらうが、
事変
って何よ。なんなのよ。なんのことだよ。えっ? 言ってみろよ。

例によって古書市で昭和一〇年代の雑誌などを渉猟していた私は、住谷悦治の『大東亜共栄圏植民論』という本をみつけた。しばらく放っておいたこの本を、この稿を構想しながらあらためて取り出して見て私は驚くとともに、考え込んだ。開巻の第一頁から「宣戦の大詔」奉戴の感動を記した言葉が連ねられているのだ。昭和一七年というその本の刊行年からすれば、それは当たり前のことだといわれるかもしれない。しかし吉野作造の門下で、戦後日本の民主主義・平和主義の有力な発言者として私などもその名を知る住谷が、米英に対する宣戦に接して「恐懼感激に堪へぬ」と感動の文章を記していることを知って、あらためて考えさせられた。昭和一六年一二月八日とは日本人にとって何であったのかを。

宣戦の大詔が煥発せられるとともに、一億国民の向ふべき処は炳(へい)として天日の如く明かになり、すでにそこには寸毫の狐疑も逡巡もあるべき筈がなくなった。満州事変以後十年間、支那事変を経て大東亜の黎明を感じたわれら日本人は、十二月八日の大詔を拝するに及んで、新東亜誕生への光明に、痛きまで身心に感激を覚えたのである。

日米開戦は、日本中を国民的な興奮の渦に巻き込んだ。こんな、民主派の知識人さえ、戦争バンザイである。なぜか、それが、
開戦の詔
である。つまり、やっと、「なぜ日本は戦争」をするのか、の、
理由
が国家によって説明されたから、である。だって、満州事変、支那事変は、戦争じゃないんでしょ。戦争じゃないんだから、「なぜ戦争をするのか」の説明を国家がするわけがない。しかし、多くの日本人兵士は実際に中国に連れて行かれて、南京虐殺のような事態にまでなって、じゃあ、結局、日本はここで、
なにをやってたのかな?
いずれにしろ、日本国家は、それは戦争じゃない、と言うんだ。それが何かなんて、だれにも分かるわけないだろ。
戦局がどうなっているのかの情報も、ほとんど報じられるわけがない(だって、戦争じゃないんだからね)。つまり、日本国内は、「いたって平和」だったわけだ。なんか、たまに、若者が、中国に兵隊にされて、連れて行かれているみたいだけど、なにやってるんでしょうね。それより、早く政府は景気をよくしてくれねーのかー。
もちろん、国民だって、日本の軍隊が中国で、なんかやってることくらいは知っている。でも、身近な生活の周辺で、目撃してるわけじゃない。ここが島国ってことで、人が海をはさんで、切れるんですよね。
そんな、もやもやー、ってしていた処に、急に、日米開戦である。
「これから」戦争をやる、って言ってる。
なんでやるか。だって、どう考えても、
アジアがピンチだろー。
米英が、世界中の植民地を広げようと、最果ての、この東アジアを虎視眈々と狙っている。アヘン戦争から始まった、この侵略から、私たちは立ち上がらねばらない。
アジアを、米英から、守るんだ。
これに、民主派からなにから、日本中が狂気乱舞しちゃった。
分かりやすいじゃん。
やらにゃなんめー。
うおー。なんかやる気がでてきたー。
たしかに、世界中がヨーロッパに植民地化されていたのは確か。あとは、アジアを、
どうやって分割(わ)けよーか。
もう、地球上、東アジアだけ残って、おい、こんなの、どこが正義だよ。アジアの独立を守ろーじゃないか。このまま、彼らに、コロナライズされて、黙って受け入れるのかよ。民族自決、独立こそ、国民の最も
重要な
課題であることは、福沢諭吉の言った通りじゃないか。
うーん。
じゃあ聞くけど、あんたたち、
今まで
何してたの?

一二月八日の開戦に先立って、いまや世界史的日本の時であることを華々しく座談会でしゃべりあった京都学派の四人は、開戦の翌年、昭和一七年の三月に二回目の座談会「東亜共栄圏の倫理性と歴史性」を開いている。対米英戦の開戦とその初戦における華々しい戦果を前にして開かれたこの座談会は、過去四年にわたって先行きも見えず戦われた「支那事変」という戦争にとって、いま始まった「大東亜戦争」とは何かを当然問うことになる。高山岩男はこの二つの戦争の間を端的に次のように結びつけていっている。「過去の日支関係をジャスティファイするものが、今日の大東亜戦のイデーだと思ふ」と。「支那事変」の正当性は、「大東亜戦争」の理念と遂行によっていまはじめて実証されたというのである。
だが「支那事変」が実際に戦われていたその時、南京を攻略したあの昭和一二年一二月一三日に、日本はまさしく「聖戦」を遂行していたのであって、正当化しえない戦いをしていたのではない。「聖戦」の名のもとに虐殺が行われても、日本はいま正当化しえない戦いをしていると誰れもいいはしなかった。ところが「大東亜戦争」が始まったいまになって、「支那事変」には不透明なものがあったといい始めたのである。

西谷「今までの支那に対する行動が、ある程度やはり帝国主義的に誤り見られる外形で動いてゐた。政策的にもあういふ風に誤り見られる形をとつてゐたかも知れないが......。」
鈴木「つまり不透明さがあつたんですね。」
西谷「一種の不透明さがあつたと思ふ。しかしそれにある意味で当時の世界状況、歴史発展の段階では免れ得ないところだつたと思ふ。ところが、外から帝国主義と誤り言はれた行動でも現在から振返つて現在との連続で考へてみると、もつと奥に別の意義があつたわけだね。......現在では日本人はそれをハッキリ自覚して、過去の意識の不透明を清算し......。」
高坂「さう、過去の不透明の意識を清算しなければならぬ。」
鈴木「同感ですね。」
西谷「日本の対支行動がそのやうに誤り見られた外形をとつて現れたといふことは、当時の世界秩序から歴史的に制約されてゐた。併しその行動が現在、大東亜の建設といふやうな、或る意味で帝国主義を理念的に克服した行動に、必然的に繋つてゐる。そこから振返つてみると、過去の行動にも、帝国主義的としては説明出来ない隠れた意義が潜んでゐたといふところが解つて来る。」

とうとう、開き直っちゃいましたね。今までは、日本、ダメだった。でも、これからは、鬼畜米英。アジアのみんな、昨日までのことは忘れて、
今日からは
アジアのために、一緒に手に手を取り、がんばろーじゃないか。なあ、
同士
たちよ。
これが、竹内好が言っていた、日本の「二重構造」であった。

大東亜戦争はたしかに二重構造をもっており、その二重構造は征韓論にはじまる近代日本の戦争伝統に由来していた。それは何かといえば、一方では東亜における指導権の要求、他方では欧米駆逐による世界制覇の目標であって、この両者は補完関係と相互矛盾の関係にあった。なぜならば、東亜における指導権の理論的根拠は、先進国対後進国のヨーロッパ的原理によるほかないが、アジアの植民地解放運動はこれと原理的に対抗していて、日本の帝国主義だけを特殊例外あつかいしないからである。一方、「アジアの盟主」を欧米に承認させるためにはアジア的原理によらなければならぬが、日本自身が対アジア政策ではアジア的原理を放棄しているために、連帯の基礎は現実にはなかった。一方でアジアを主張し、他方で西欧を主張する使いわけの無理は、緊張を絶えずつくり出すために、戦争を無限に拡大して解決を先に延ばすことによってしか糊塗されない。太平洋戦争は当然「永久戦争」になる運命が伝統によって与えられていた。それが「国体の清華」であった。

竹内好「近代の超克」

この矛盾をよく現しているものに、斎藤隆夫の国会演説がある。

斎藤演説が前提にしているのは、近衛首相が「東亜新秩序」の生命に重ねて昭和十三年一二月に発した「善隣友好・共同防共・経済提携」の三原則の声明である。この第三次近衛声明では、日本側の真意は「区々たる領土」や「戦費の賠償」を求めるものではなく、「支那の主権を尊重するは固より、進んで支那の独立完成の為に必要とする治外法権を撤廃し、且つ租界の返還に対して積極的なる考慮を払うに吝かならざるものである」と説かれているのである。戦争を行っている当の相手国に対して領土や賠償の要求などをもたないといい、その主権を尊重するとまでいうこの近衛声明を有馬は、「日中戦争帝国主義的な国家間の戦争とは全く異なる性格のものであること」を主張するものだとして、この近衛声明に見るような考え方を「聖戦」イデオロギーととらえることを提案する。ところで斎藤演説が衝くのは、まさしくこの「聖戦」イデオロギーの欺瞞であった。斎藤が指弾するのは、現実の国際社会における「戦争」とこの「聖戦」との間の隔たりであり、兵士や国民の犠牲の上に現に遂行されている「事変」とこの「聖戦」理念とのギャップであり、「聖戦」によっては満たされない国民の不満であった。近衛声明にいわれる主権尊重、無賠償無併合などを政府(当時は米内光政内閣)はそのまま実行するのか、それらを実行した結果として日本に何が残されるのかと斎藤は批判するのである。さらに国際競争的な現実世界に国際正義に立つ、東洋永遠平和のための道義的な戦い、すなわち「聖戦」なるものが成り立ちうるのかを問うのである。

子安宣邦「「支那事変」とは何であったか」
昭和とは何であったか―反哲学的読書論

しかし、よく考えるとある意味、当たり前の話に思えてしょうがない。庶民は、「ただで」中国に戦争をやるためにひっぱりだされているのだ。彼らだって、なんらかの、
見返り
を期待することは傲慢だろうか。だったら、戦争なんてやるなよ。これを、ポピュリズムとか、愚民とか、もう止めてくれないか。愚民愚民って、だったら、戦争に庶民を巻き込むな。
なに急に、これは「正義の戦争だった」なんて言ってんだよ。なに、その偽善。急にアジアとか言い始めちゃって、戦利品なんてとてもとても求めません。そりゃー、国会議員なら、庶民の代表として、一言言いたくなるってものじゃないか。
ちっ。うっせーな。日本人庶民は、黙ってろ、愚民どもが。いちいち、日本エリートのやることに口出すんじゃねーよ。これからの日米戦争には、中国、韓国、台湾の庶民を、徴兵して、彼らに、前線の盾になってもらわなきゃなんねーんだよ。そうしないと勝てねー。昨日までのことなんか知らねーよ。今日から、彼らは、仲間なんだ。つべこべ、言うんじゃねー。
あのなー。ずっと、日本は、帝国主義やってたんだろ。欧米のマネしくさって。それが、いざ、鬼畜米英と戦わなきゃなんねーってなったら、
アジアのみんな、一緒に力を合わせて、アジアから、鬼畜米英を追い出そー。君たちの協力が必要なんだ。
分かるだろ。
それりゃー、アジアの人たちから、ジト目で見られても、しょーがねーだろーなー(実際、日本が中国から撤退するわけでも、満州を手放すわけでもない)。
結局、国家ってなんなんだろう。

日本はポーツマス講和会議後、第二次日韓協約すなわち乙巳保護条約によって韓国の保護国化の仕上げをしていった。亜米利加はフィリピン領有の日本による保障と引き替えに、日本による韓国の保護国化を認めるという秘密協約を結んだ。一九〇五年一一月の乙巳保護条約の成立とともにアメリカは直ちにソウルの駐韓公使館を撤収した。『日露戦争の世界史』はこの過程をのべながら、韓国で長期にわたって教育事業に献身してきたアメリカ人ハルバートの、「事態が悪化するや、アメリカは真っ先に韓国を棄てた。それも別れの挨拶すらなく、最も屈辱的な方法で」と痛嘆したという言葉を引いている。アメリカは撤収した。「それからは、韓国と交流した全ての国が後を追うようにこの地を離れた。結局、アメリカが率先して韓半島を日本に与えたことになった。こうして韓半島には日本だけが残ったのである。」

子安宣邦「「閔妃問題」とは何か」
昭和とは何であったか―反哲学的読書論

国家なんて、こんなもんなんでしょ。いつか、アメリカを始めとして、世界中の国々が、日本なんて国は存在しない(大使館の撤退)、日本は中国のもんだ、って、
話し合って決めたら
そうなる、だけのもんなんでしょ。でも、朝鮮人は、それを認めなかった人たちは、パルチザンとして抵抗したし、そうでない人たちも、基本的には面従腹背だった。だから、戦後主権を回復できた。福沢諭吉には悪いが、国家なんて、その程度のものなんじゃないですかね。

「近代の超克」とは何か

「近代の超克」とは何か