松永昌三『福沢諭吉と中江兆民』

福沢諭吉中江兆民を、ここのところ、よく読んでいる。例えば、稲葉さんは、福沢諭吉の『文明論之概略』と中江兆民の『三酔人経綸問答』の二冊を、近代日本の理解における無類の重要さを強調しているが、私も、まったく同感である(

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)。ところが、日本のあらゆる場面において、福沢諭吉、について語るものはあっても、中江兆民について、語られるものはない。この事態はなんなのだろうかと思わなくはないけど、竹内好が強調したように、福沢諭吉は、この戦中の日本イデオロギーの総帥のような人だったのだから、この事態は当然なのかもしれない。
もう一つは、丸山眞男であろう。彼の、福沢諭吉礼賛ぶりはちょっと度を超えていないだろうか。それについては、

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にも書かれていて(ここでは、それを福沢諭吉一辺倒主義と呼んでいる)、多くの人の丸山眞男の食わず嫌いにつながっているのかもしれない。
その辺りへの違和感のモチベーションが、例えば、

には、よく現れていて、子安さんのこの本になると、もう福沢諭吉は論評の対象ではなくなっていて(それは、どちらかというと、歴史的事実に近くなっている)、もっぱら、

文明論之概略を読む 上 (岩波新書 黄版 325)

文明論之概略を読む 上 (岩波新書 黄版 325)

での、丸山の福沢読みが、いかに、この
戦後日本のイデオロギー
に「こそ」問題含みの影響を与えているか、という、そっちが主眼になっているようにさえ読めてくる(実際、丸山眞男こそ戦後の日本イデオロギーだと言ってもいいわけだから、こちらの方が、よっぽど重要なのだろう)。
私たちのような、戦後、全共闘もとっくに過ぎ去った、ベビーブーム世代以降の若者たちにとって、言っちゃ悪いが、福沢諭吉
読めない。
それは、実際に、本を手に取ってみられればいいんじゃないかと思うが、露骨な、日本以外のアジア文明への差別を赤裸々に語り、かなり、露骨に、アジアへの軍事侵略へのオルグを嬉々として語っているようにしか読めないわけで、こんなことを、今の政治家が語ったら、PC的にアウトだろう(いわゆる、不適切発言ってやつ)のオンパレード(そんな保守系雑誌は、ちまたにあふれてますけどね)。つまり、福沢諭吉は今の私たちには、かなり露悪的な
トンデモ
でしかないんじゃないのか、という印象しか残らない(明らかに、これだけ、福沢諭吉の日本イデオロギーとしての重要さが言われながら、今、現代語訳が、それほどそろっていないのは、そんな理由なのではないか、と疑ってみたくもなる)。
ただ、この点については、子安さんは、むしろ、(丸山の福沢読みは疑っても)福沢の、ある種の「先進性」を、その時代における、一つの歴史的な選択として、重要視する(以下の引用ですが、引用内の原文引用部分を、

現代語訳 文明論之概略

現代語訳 文明論之概略

で「交換」してみました(ちょっと重要な個所ですので)。現代語訳そのものへのうさんくささを語るのは、一つの見識ですが、まず「読まれてなんぼ」を理解しない衒学は不毛でしょう。そういう意味では、これを翻訳者の意見として読めばいいんで、それが、MAD なのでしょう)。

およそ人間世界に、父子・夫婦の関係がないところはなく、長幼・朋友の関係がないところもない。だからこれら四者は、たしかに人間の先天的関係で、これは人類の本性ということができよう。だが、君臣の関係はそれと違うのである。地球上のある国には、その関係のない処がある。現在共和政治の国々がそれである。これら共和主義諸国には、もちろん君臣の道はない。しかし政府と人民との間にそれぞれの義務があって、政治が非常に進んでいる国もある。(第三章 文明の本旨を論ず・66)

ここで福沢は父子・夫婦や兄弟・朋友という関係は「人の性」だといえても、君臣はそうではないといっている。「人の性」とは人間的性質(人間の本性・自然性)ということで、儒教のいう五倫(君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友)のうち君臣以外の関係は人間に本来的な関係といえても君臣はそうではないと福沢はいっているのである。それは世界の事実によって認められる。現に君臣関係なしで政治体制を構成し、すぐれた治風を示している国々が世界にあるではないかというのである。さらに福沢は君臣関係が天稟のものではないとするならば、その関係はいわば後天的に約束事として構成されたものであり、したがって変更可能なものであるはずだといいきるのである。

故に君主政治を主張するものは、まず人類の本性とはいかなるものかを考えて後に、君臣の義を説くことが必要である。即ちその義とは、はたして人類の本性に基くものか、あるいは人類の発達以後に、偶然の事情で君臣の関係を生じ、その関係についての約束を君臣の義といったものか、事実に拠って、その発達の前後を明らかにすべきである。冷静公平に天然の法則というものを察するならば、必ず君臣の関係は偶然にできたものであることを見出すであろう。そしてそれが偶然の約束にすぎぬことを知ったならば、次いで、その約束が便か不便かを考えなければならぬ。(同上・66-67)

もし虚心に君臣関係という事態を認識するならば、ある君主に臣従するという関係はその人にとって事後的に偶然の事情によって生じたものであることを認めうるはずだと福沢はいうのである。それは決して人間の本性にもとづくような関係ではない。事後的に結ばれた約束関係である。そうであればこの関係は絶対的なものではなく、その関係が有益であるか否かの判断にしたがって可変的だということになると福沢はいうのである。君臣という関係が人間の本性に属するような先天的な事態ではなく、人間によって設けられた後天的な事態ととらえる経験主義的な認識が、同時にその関係を功利性という経験主義的原則を当てはめることで変更可能な事態とするのである。ここから福沢の次の言葉があることになる。

すべての事物について、便不便の議論の余地があるということは、その事物に修正改革を加え得る可能性がある証拠である。修正改革の可能な関係というものは、天然の法則ではない。たとえば親子の関係などは逆にすることは不可能だし、女性を男性に変えることもできない。だから、父子・夫婦の関係は、まぎれもなく、変革し難い天然の法則といわねばならぬ。これに反して、君主は変じて臣下となることもある。かの湯武の放伐はそれである。あるいは君臣の地位が全く同列になる場合もある。わが国の廃藩置県はそれであろう。(同上・67)

「修治を加えて変革すべきものは天理にあらず」とは、「夫れ君臣や父子や、天倫の最も大なるものなり」という忠孝一本の理念に支えられた国体論に向けて明治の経験主義哲学が放つことのできた最良の批判である。
福沢諭吉『文明論之概略』精読 (岩波現代文庫―学術)

福沢も初期の頃は、かなり、自由に語っていて、まさに、言論の自由が、こういった見識を発言させたのだろう。この発言が重要なのは、儒教道徳への、一つの批判を含んでいるからなんですね。そここそが、子安さんのような、江戸思想史をやっている人にとっては、重要で、言ってみれば、江戸思想だってずっと、儒教批判だったのだが、こういったブレークスルーは、やはり、福沢からと言っていい。福沢も後期では、天皇は例外となるわけだが、いずれにしろ、初期福沢が、徳育、修身、教育勅語、といった、明治「日本国家儒教」への批判となっていることこそ、丸山がなぜあそこまで、福沢を礼賛するのかの理由にもなっているのであろう。
私が福沢をトンデモと決めつけるのは、例えば、次のような発言からです。

福沢は文明国人とともに弱肉強食の強者の立場に立つことを力説した。そしてフランスのベトナム侵攻を機に始まった清仏戦争の際には、国家の行動に個人道徳を持ちこむことに反対して、次のような主張を展開した(「国交際の主義は修身に異なり」『時事新報』85・3・9)。
「蓋し社会一個人の間には尚少しく徳義の働を許して、或は過を改め謝して栄誉を回復するの道もあれども、国として一度び其非曲を世界中に披露するときは、事実の有無に拘はらず其汚名を雪ぐこと甚だ易からず。週を改むれば其過は益々評判と為り、後悔して謝罪すれば其罪は益々明白と為る可し。或は夫れまでに至らざるも、此方に少しく落度ありとて遅疑して差扣(ひか)ふるときは、敵対国の慢心を助るのみならず、世界各国に我が内幕を洞察せられて、遂に何事に就ても共に歯(し)するを得ざるに至る可し。是即ち古来今に至るまで国と国との交際に無理を犯して容易に謝罪したる者あるを聞かず。」
つまり福沢は、個人=私人間のモラルは国家間においては適用されるきものではないこと、国家はたとえ過誤を犯しても容易に謝罪すべきではないと主張する。そして、国家のためには、かりに非が自国にあっても譲らず、あくまでも相手国を論断し、ついには軍事力に訴えても自国の主張を追い求めるべきだと、次のように述べる。
「仏清の曲直孰(いず)れに定め難きにもせよ、仏蘭西の為に謀れば力を尽して罪を支那に帰するの策を講ぜざる可らず。若し或は極内実に於て仏の無理曲事にてありたらんか、最早や騎虎の勢なり、仮令(たと)ひ兵力に訴へても其非を遂げざるを得ず。斯の如くして唯仏軍の戦勝とさへ為りて、支那より和を乞ふに至れば、一切の汚辱は弱者の負担と為りて、仏人は世界万国に対し腕力に於て武勇者たるのみならず、道徳に於ても亦正義者の名を博す可し。」

国家に人間個人のモラルを適用してはならない。つまり、福沢の言う文明とは、各個人のモラルの向上を目指したものではない、ということなのだろう。そういった「腐儒」は不要。というか、国家にとっては、むしろ、有害。国家は「文明」という名の、軍事力で他国を、
自国の意に従わせる。
こういった記述は、オンタイムの話題としては、最近の中国が周辺国と絶えず、領土問題では強行路線であり、チベットの粛清からずっと一貫して、一切の妥協をしない光景を思わせられます。しかし、むしろ、そのような態度は近代中国が、明治以降の日本、ことのほか、福沢諭吉の上記のような、武断論から、
学んだ
と考えるべきだろう。多くの中国人が戦中も日本に留学して学んでいたわけで、東アジアはこういった、福沢的軍事拡張的な緊張関係を、この21世紀も、免れることはないのかもしれない。
チベットウイグルが中国の水の供給源であることから、国益によってその路線がとられるなら、それは海洋権益となる、日本や台湾にとっても同様でしょう。中国は海が、いかに
国益
かを意識している。中国は、あと何十年かの間、日本の10倍の人口を食べさせていくのに、いかに、資源問題が重要であるかを意識している。
福沢の言う「文明」とは、ようするに、軍事力のことだったし、経済発展のことであった。GDPで日本を追い抜いたという象徴的な事態は、福沢文明論で言えば、中国が日本以上の「文明国」になった、と解釈される。福沢文明論からいけば、中国の日本への恫喝外交は当然のことのようにさえ思えないだろうか。)
日本の明治の、文明開化を考えると、素朴な疑問として、なぜ、
民主化
が、あの程度で、尻すぼみしてしまったのか、というものがある。欧米に学ぶとしているが、すでに、フランス革命アメリカ独立戦争もはるか昔であり、もっと、西洋のいいところをなんでも取り込もうとするなら、そういった方向に行っても不思議ではないように思うのだが、そうならなかった。
私は、ある途中までは、そういう方向に進んでいたのではないかと思っているのですが、それが止まった時こそ、あの
明治六年政変
であり、江藤新平、を以前、このブログでも評価したわけでした。憲法以前に、すでに、ナポレオン法典をベースとした民法が日本に整備されたことは、重要です。つまり、ある意味、
民主化
のベースは、その時点で完成していた。しかし、江藤新平らを政権から追い出し、自由民権運動の弾圧を政府は強行していく。しかし、その、
自由民権運動
こそ、中江兆民を思想的なバックボーンとした、
民主化運動
だったわけですね。そして、
明治十四年の政変
となり、
壬生事変
となり、日本は富国ではなく、強兵、へと梶を切っていく。

また山県有朋は、地方長官を招集した際、軍備拡張の趣旨を説明して、次のように述べた。
「方今宇内ノ形勢ヲ通観スルニ、万国ト対峙シテ克ク国家ノ対面ヲ保完シ、独立ヲ維持セント欲セバ、強大ノ兵力ヲ有セルヘカラス(中略)蓋シ兵力ニシテ強大ナラサレバ国民其生ルノミナラス、又保維スル能ハサレハナリ、乃チ富国ト強兵トハ互ニ相倚リ相待ツモノタルコト古今ニ亘リ東西ニ通スルノ一大要義ト謂フヘキナリ(中略)、夫レ兵員ノ増加ニハ巨大ノ費用必ス之ニ併ハサル可ラス、此レ天雨鬼輸ニアラス、之ヲ得ル課税ノ外蓋シ他ニ求ムルノ方法アラス、故ニ煙草、酒類等ニ課シテ以テ陸海ニ軍興張ノ経費ニ充テントス、思フニ増税ノ令一タヒ発センカ、喧々囂々之ヲ駁イ之ヲ攻撃スルモノ粉起雑出スヘク、満天下独立ヲ維持セントウル他ニ良策アルナキヲ奈何セン、若シ夫レ国内ノ物議ニ考慮シテ之ヲ断行セサルカ如キコトアランカ、座シテ国家ノ滅亡ヲ待ツヨリ外ナカラン、是レ豈我等ノ敢テ忍ビ得ル処ナランヤ、今日我等ノ取ルヘキモノハ唯断ノ一時ノミ」(『山県有朋意見書』、一九三 - 一九五頁)と。
山県は、軍事力が国家独立の維持、国民権利の保全のための最大の保障であるとし、富国と強兵の不可分を説く、そして軍事費をまかなうには増税以外にないとし、その増税が国民の不満を爆発させることは必至だから、これには断=弾圧をもって挑むだけだと主張する。ここには軍備拡張→増税→国民生活圧迫→国民の不満爆発→弾圧の強行→強兵→国家安泰という論理が流れており、富国(富民)と強兵の両立しがたいことをみずから証明している。

強兵ということは、いかに、増税するか、ということになります。しかし、そんなことを強行すれば、外国以前に国民からの不満がすごいことになるでしょうが、山県に言わせれば、そんなの知らない。国家に逆らうとはいい度胸だ。逆らう連中は容赦なく、牢屋にぶちこめ。こんな感じですかね。
実際、この後の自由民権運動は、国家による弾圧によって、衰退していきます。また私学塾は自由民権運動の巣窟ということで、弾圧の対象となります。福沢の経営する慶応義塾もその弾圧を免れませんでしたし、中江の経営する仏学塾は閉鎖している。
ところが、福沢はこの、大学への国家介入に対し、ひよる、ひよる。

福沢も山県有朋を訪問、文部省にも赴いている。山県には別に書簡を出し、政府の保護を求めている。
「私方ノ学塾ニ限リテ他ヨリ敢テ争ウ可カラザル履歴由緒モ有之」、学習院や独逸学校のように宮内省またはその他より保護を得て、義塾も「官立ニ準ズルノ実ヲ表スル様致度」、「私回特ニ政府ノ保護ヲ蒙ルトアレバ、弥以テ他ニ比類ナキ私立学校」となるであろう、「私塾ニ幾百千名ノ生徒アルモ、塾中ニ怪シキ風ハ吹キ不申、既往ノ事情ヲ詳ニシテ、将来ノ成行ヲ卜スルニ足ル可シ。急度御請合申上候」と、義塾が政府にとって危険な学校でないことを強調している。

かりにも、自由の学府、の大学が、政府の犬になり下がって、どうするんでしょうね。とにかく、福沢さんは、自由民権運動が嫌いだったみたいですから、
他のところは知らないけど、うちだけはなんとか。
こういうことなんですかね。
それにしても、福沢の言う「文明」が、なぜこんな、政府の言い成りになるのだろう。なぜ、彼の頭に「民主化」が去来しないのだろう。
しかし、これについても、彼はかなり正直に自分の考えを述べていますね。

ついで福沢は一転して苦楽論を展開する。「人間世界、苦痛を忍ばざれば快楽は得られざることならん」、増税は人民にとり苦痛であろうが、それにより「我れより他を圧政する」という報酬の快楽が得られるのである。そして福沢は続けて、維新前、欧米諸国を巡訪したとき、各国で冷遇あれた経験を振りかえる。また、アジア各地でイギリス人が現地住民を人間扱いにしていないのを実見し、いずれ日本も国威を輝かし、インド・中国の人びとに対しイギリス人同様の態度で接するだけではなく、イギリス人をも苦しめて、東洋の覇権を握りたいと思ったと回顧し、将来の国威発揚のためには、今日の苦痛を堪えるべきだと述べる。

すごいですよね。この人権感覚。イギリス人がインド人を奴隷のように扱っているのを見て、いつか、自分たち日本人が
文明を発展させて、
インド人、どころか、イギリス人、どころか、我が日本人が
世界中の人々
を奴隷扱い「したい」、って言ってるんでしょ。いつか、そういう立場になるために、今の苦痛を我慢しようじゃないか、ですか。
ついて行けないwww
ようするに、福沢は露骨な、侵略主義者、帝国主義者植民地主義者であり、彼こそ、「反」アジア主義者と言っていいでしょう。ところが、その福沢が日本イデオロギーであったというのですから、前回紹介した竹内好の「二重構造」の矛盾、混乱が典型的にこの福沢に現れていると言えるんだと思います。
福沢がこういったように、壬生事変、への政府の対応を追随的に肯定していったのとは対照的に、(福沢用語)「腐儒」の臭いを残す、中江兆民が、政府の壬生事変への対応を痛烈に批判するのは当然ですよね。
ただ読んでいて感じたのは、まだこの頃は、いろいろなことを自由に言うことができる気風があったということなんじゃないか、とも思った。福沢はもっといろいろなことを語っている。憲法が確立して、天皇神聖がより明確になっていって、言論の自由がより規制されていくわけですが、いずれにしろ、上記の辺りが、その
民主化「後退」
のターニングポイントだったのだろう、ということでしょうか。
中江兆民については、また改めて考えたい。)

福沢諭吉と中江兆民 (中公新書)

福沢諭吉と中江兆民 (中公新書)