「月の女」礼賛

やっと最近、東さんの「一般意志 2.0」を読んだ。といっても、まだ連載途中のようだが。いろいろと書いてあるのだが、ここでは、その概説をしたいわけではない。ある記述が気になった、ということである。

ルソーはそもそも孤独を愛した思想家だった。彼は、人間はひとりで生きるに越したことはないと考えていた。なぜならば、ルソーの考えでは、人間の人間に対する依存は、虚飾と悪徳と格差を生み出し、人間から自由を奪うものだからである。
ルソーは、「学問芸術論でも『言語起源論』でも『人間不平等起源論』でも、ひとしく一貫して学問や言語や文明こそが悪徳の起源であると主張している。たとえば彼は、『人間不平等起源論』ではつぎのように記している。「人間が一人でできる仕事、数人の人の手の協力を必要としない技術だけに千年しているかぎり、[人間は]人間の本性によって可能なかぎり自由で、健康で、善良で、幸福に生き、おたがいに独立した状態での交際[commerce]のたのしさを享受しつづけたのであった。しかし、一人の人間がほかの二の助けを必要とし、たった一人のために二人分の蓄えをもつことが有益だと気がつくとすぐに、平等は消え去り、私有が導入され、労働が必要となり、[......]奴隷状態と悲惨とが芽ばえ、成長するのが見られたのであった」。
このルソーの主張が正しいかどうか、それはここでの問題ではない。重要なのはそこで彼がはっきりと、人間の人間に対する依存、いわば社会の誕生を悪の起源として名指していることである。

東浩紀「一般意志 2.0」第3回

本 2010年 02月号 [雑誌]

本 2010年 02月号 [雑誌]

私もこのルソーの自然人が実際に存在したのかどうかを語りたいわけではない。また、東さんのように、これがルソーの理想だったと言いたいわけでもない。そういう意味では、ルソーなど知らない。興味もない。私が言いたいのは、そもそも、人間は、
ルソー的自然人
なのではないか、という「直感」である。人は本質的には他人に興味がない。このフレーズはこのブログで何度も書いた記憶があるが、独我論的な人間にとって、他者は、あくまで「世界の一部」であって、自らの中心を占めることはない。だれだって、基本的には、自分を切り盛りするだけで、人生はあっという間に過ぎ去る。
しかしだからといって、人が本質的に社交的でないことは、悲観すべきことではないと思う。なぜなら、「だからこそ」他人との関係を大事にしようという態度となる「はず」だからである。
前回、子安さんの福沢儒学批判評価を紹介したが、儒教のいう五倫の中で、たとえ「君臣」が相対的なものでしかないとしても(生まれた藩によって藩主は違う)、だからといって、ほかの、父子・夫婦・兄弟・朋友、の意味を弱めることにはならない。
これらは、人間が生きるその、
独我論的世界
において、普通に「いつも隣にある」関係であり、まさに
自分の一部
であり、それで
必要十分
なのである(アメリカじゃあ、上司もファーストネームで呼び合うという。そこまでいかなくても、場合によっての先輩後輩。それくらいでいい)。人は本質的には他人に無関心だからこそ、父子・夫婦・兄弟・朋友、とりわけ、恋愛のような愛情の関係の形成(実践)を重要視する。つまり、逆説的に、ルソーの理想は、恋愛による、
最小のコミュニズム
の否定にはならない。そういった濃密な人間関係の
実践
の否定ではない。かといって、上記にあるような、社交性を利用した
他者依存
に露悪的に耽溺することで他者を「ただの」手段として利用しようとする、「社会」性を人間の本質とは捉えない。
この辺りの事態は、日本においては、むしろ、倫理学理論の
対立
として存在したのではないか、というのが子安さんの最新刊

和辻倫理学を読む もう一つの「近代の超克」

和辻倫理学を読む もう一つの「近代の超克」

の主張なのではないだろうか。和辻哲郎は、西洋の倫理学
偽物の倫理学
だと言う。彼は「本物の」倫理学を、この論文で示す、と言う。

これをいう『倫理学』上巻の「序論」は、次のような言葉をもって始まっているのである。

倫理学を「人間」の学として規定しようとする試みの第一の意義は、倫理を単に個人意識の問題とする近世の誤謬から脱却することである。この誤謬は近世の個人主義的人間観に基いてゐる。

和辻倫理学を読む もう一つの「近代の超克」

個人主義=西欧倫理学
と決めつける和辻にとって、ということは、どういうことなのだろう。彼は、
倫理など存在しない
と言っているのである。倫理などこの世にない。なぜなら、倫理は
儒教における、忠臣に反するから。
この世の中に倫理があってはならないのである。そんなものがもし存在したら、忠臣は理論的根拠を失ってしまう。つまり、この中心線さえあれば、日本の侵略戦争に「すべて」の日本人が赤紙徴兵される
理論的根拠
を提示できる。当然、日本人は命を投げ出さ「なければならない」。その、理論的根拠を、彼はなんとしても提示しなければならなかった。そういうことではないだろうか。その「証明」。これこそ、国家によって、国立大学の教授に求められていた使命だった、ということではないだろうか。
なぜ若者が次々と死の底に飛び込んでいかなければならなかったのか。なぜなら、私たちは、個人として独立していないから、である。そのような疑問が「偽物」なのだ。私ではない。日本民族なのである。独立個人は幻想である。あるのは、日本民族意志であり、その意志が示されたなら、それが個人の意志「なのだから」、自殺する。
それが、人間(倫理)なのだ。
ところが、和辻は、その「倫理学」を完成させることはなかった。ちょっとまて、本屋に行けば、岩波文庫で、ちゃんと完成してるじゃないか。そう思うかもしれないが、あれは、
偽物
である。終戦をはさんで、彼は、偽物をでっちあげることで、戦争責任を取ることなく、大学に居座った。戦前までに、上中下の中まで書いていた彼は、中巻を
勝手に大幅に書き変えることで、
つまり、自らで(GHQに言われるまでもなく)自己検閲しやがり、版を変えるという荒技によって、戦中版を抹殺し、下巻もまったく、本来の意図と別の無難な内容を書くことで、しらーっと大学教授をやめることもなく(多くの自らの信念に自己を賭けて戦争と生き、敗戦とともに、責任を引き受け、下野した「哲学者」たちを、あざ笑うかのように、彼は)戦後をやりきりやがった。
しかし、どうだろう。これが戦後日本であったわけだ。だからこそ、日本の全共闘運動は、戦中居残り大学教授たちの戦争責任糾弾から始まったわけであり、これは日本中の姿だったわけである。だれもが、戦中の自分など「まるでなかったかのように」戦後、まったく、いけしゃあしゃあと、人権、平和を語る。
同じ口、がである。
変り身のうまいことが、生きること(和辻の言う倫理)となった。だれもそこでは、人々は自らの「真実の姿」に向き合おうとしなかった。しかし、これこそが、和辻の言う人間の本質なのである。倫理など存在しないと言うのだから、何を言っても無駄なのだろう。
重要なことは、哲学とは、「こういうもの」だということである。屁理屈は「ある」ものではない。「つくる」ものなのである。なぜなら、そういう需要があるから。えらそうな先生は、国からこういう
汚い
お金をもらって生きている人たち、ということである。
しかし、そのことは、和辻本人が屁理屈だと自覚しているかどうかとは関係ない。今の中国の反日バッシングも、むしろ、ああすることが、
優等生
だったわけである。そういう教育をしてきたからこそ、もりあがる。国家が国民にそういった教育をしてしまった以上、今度は国家が国民の
正解
バツにできない。ある識者がむしろ、中国指導層の方こそ、日本に借りができたんじゃないか、と言っていたのは、そういうことなのだろう。
ヘーゲルの言った弁証法とは、こういうものである。過去との連続性は、決して、忘却できない。何度も何度も沸き上がってきて、我々を「制限」してくる。
しかしそれは、「逆」も言える。
和辻哲郎が、なぜ、人間の個人の独立を否定したか。それを彼は、
遡行的に
発見する。つまり、近代西洋哲学を歴史的にさかのぼっていった先の、アリストテレスにおいて。しかし、先ほどの、子安さんの本にあるが、彼は彼の最も根本的な自らの理論形成の根幹のところで、「偽訳」引用する。

アリストテレスが自足的である善(幸福)についてのべている個所、「自足的であるとわれわれの考えるところのものは、それだけでもって生活を望ましい生活、何ものをも欠除していない生活となすごときものにほかならない。しかるに幸福はあたかもかかる性質を持つものであると思われる」(高田三郎訳『ニコマコス倫理学』上、岩波文庫)を、和辻はこう訳している。「でここには自足をば、孤立させられても生を望ましきものたらしめるものとして定義する。それは幸福だと思う」。こう訳した上で、和辻はここから、「ここに人間を孤立させて考察するといふ方法が便宜上採用されたのであることは、極めて明白に云ひ現はされてゐる」というアリストテレスにおける方法上の個人主義を導くのである。

アリストテレスがポリス的国家と個々人との関係をいうのは、全体と部分という有機的関係においてである。部分に「根源的な実在性を認める」ことなどはありえない。全体を離れて自足しうる単独者とは、「野獣であるか、さもなければ神である」とアリストテレスはいっているではないか。だが和辻はアリストテレスの全体性のポリス的国家学にあえて個人と全体との矛盾的統一(弁証法的関係)のドラマを読み要れたのである。

和辻倫理学を読む もう一つの「近代の超克」

あたりまえであるが、全体と部分とは「論理的」な問題でしかない。全体(国家)について話しているときに、部分の「全体性」をうんぬんすることは、たんに「論理的誤謬」である(そういう意味では、アリストテレスは奴隷論を除けば常識的であろう)。マルクスから始めて、近代西洋哲学を遡行してきた和辻は、なんとしても、アリストテレスの中に、
弁証法
を見つけなければならなかった。言うまでもなく、自足していることと、「孤立させられていること」(方法的な個人主義)は、なんの関係もない。それ以前に、アリストテレスは、
そんなことを言っていない。
驚くべきことに、ゴットハンド和辻は、無いものを有る、に
しちゃった
のだ。そしてそれが訂正されることもなく、今に至っている、ということは、それが「権威として」我々を今も規制し続けている、ということである。
世界中の民族の中でも、不安遺伝子を極端に多くもっている「らしい」日本人に、この和辻の「おどし」は効いたようである。なんてったって、こんな根源的な所に、弁証法があるというのだ。
そもそも、なぜ和辻は、こんな「いかさま」をここで書いているのか。つまり、彼が「最初にダメ出し」した、倫理学とは何なのか?

明治の哲学界を回顧うるものによって必ずその早すぎた死が惜しまれる大西祝(はじめ)(一八六四 - 一九〇〇)の全集中の一巻に『倫理学』がある。

これは著作としての完成をもっていないと編者はいうけれども、しかしこの講義録は一〇〇年後の私のような読者にもある感銘を与えうる力をもっている。それは文章を通して伝えられる大西の、自らの哲学的課題に真摯に、そして全力をもって向き合った姿勢である。この姿勢は清沢満之(一八六三 - 一九〇三)の『宗教哲学骸骨』などの初期の文章が伝えるものと同種である。

つまり一九一三年の日本に行なわれている倫理学とはもともとイギリスの近代市民社会を前提にした倫理学エシックス)であることをこの定義はいっているのである。倫理学(エシックス)とは近代市民社会における個々人の行動原理なり規準を導く学的手続きである。シジウィックは倫理学の方法とは、「個々人が何をなさねばならないか、あるいは彼らにとって何が正しいかを決定するための合理的な手続き」であるといっている。ちなみにシジウィックは政治学の課題を、「政府によって統合あれている社会の正しい構成と、正しい公的行為とを論定する」ことにあるというのである。

和辻倫理学を読む もう一つの「近代の超克」

イギリス功利主義哲学から始まり、倫理学(ethics)とは、こういうものだったのである。「それ」が欧米から「輸入」されたものだったのであり、その定義を否定して語られる限り、それは、倫理学の「権威をかさに着て」自分の勝手な妄想をオルグしている「何か」でしかないわけだ。
つまり、和辻は、倫理学を否定し、政治学一元論を目指したわけだが、ただそれは、ある意味、
優等生
和辻がこういった通俗哲学に行ったことは、当然のようにさえも思える。なぜなら、国家の教育がそう教えていたのであろう。国家は、こういった考えに「向かいがち」になる子供を優等生として優遇した。こういったことになんの矛盾も感じないでいてくれる子供「だから」、国家は、どこまでも餌を与えて
飼いならす。
しょせん、優等生の定義とはその程度のものなのだろう。
たとえば、和辻哲郎も、本居宣長のいう「もののあはれ」について考察している。しかしその手つきは、一方的な決めつけであり、たんに不快であり、少なくても、私にはなんの関係もない。

また和辻の「もののあはれについて」は、本居宣長の「物のあはれ」概念を論じたものであるが、和辻は「物のあはれ」を、宣長のように日本の文芸一般の本質としてではなく、平安期特有の「永遠への思慕」を表すものとして、またそれを宣長の言うような理想的な「みやび心」としてではなく、むしろ「求むべきものと求むる道との混乱に苦しみつつ、しかも混乱に気づかぬ痴愚」として、あるいは「徹底し打開することを知らぬ意志弱きものの、煮え切らぬ感情の横溢」として捉えている。この論考が当時の国文学者を宣長の「物のあはれ」論の呪縛から解き放った点で大きな役割を果たしたことも、よく知られている点である。

藤田正勝「解説」

これと例えば、子安さんの以下の文庫の解説と比べるとずいぶんと、その
アプローチの仕方
が違う。

子安さんは、あくまで、「宣長がそこで言わんとしていることは何か」にこだわる。そこを文献学的に検証していく。子安さんにとって大事なのは、宣長とは何かである。しかし和辻には、どうもそのことはどうでもいいようである。なんか彼はもう最初からなんでも知っているようだ。彼の関心は源氏物語平安時代「がなんだったのか」であり、それを
女心
の価値にあくまで局限することで満足する。現代の価値観を「上から目線で」過去に投影して、なにかを言ったつもりになっているのだろう(ニーチェの言う遠近法的倒錯)。
(というわけで、私は和辻読みとしては失格なのですが、そんな私の評価としたら、彼はその時代の人だったということだろうか。)
ずいぶん寄り道をしてしまったが、今だに、私が今回言いたかったことに、辿り着いていない。東さんがルソーとはなんだと言っていたかに戻りたい。

つまりルソーは、ひらたく言えば、人間嫌いで、ひきこもりで、いささか被害妄想気味の、ふだんは楽譜を写したり恋愛小説を書いたりして生活をしていたとてもロマンティックで繊細な思想家だったのである。

東浩紀「一般意志 2.0」第3回
本 2010年 02月号 [雑誌]

ルソーが孤独を愛したとか、そういう世迷い言は虫酸が走る(たとえそうだったとしても、私には関係ない)。優しい心の持ち主とか、そんなことは、他人が言うことじゃないし、だれもが、少なからずそうであり、まただれでも、そうでない部分もある、それだけの問題でしかない。

女に成ったあたしが売るのは自分だけで
同情を欲した時に全てを失うだろう

椎名林檎「歌舞伎町の女王」

(何度引用したか忘れましたが。)女は「最初から女であったわけではない」。いずれにしろ、女でないものが女に変わっているということなのである。そんな自分が、変わったことを同情されたい、と思うことが自らの拠って来たる何か本質的なものを無にする行為であると直感すること...。
また、我々は他者を同情することによって、自分が同情されたい、という無意識を欲望している。ということはどういうことか。相手をかわいそうだとか、優しい人だとか、そういうレッテル貼りこそ、一回やめてみるべき、ということである(そういう態度こそ、私の言う、ルソー的自然人である)。あるのは、それぞれが、何をやったか、何をやろうとしているか、だけであり、その倫理的な実践だけが常に問われているのだろう...。

吹き荒れる風に
涙することも

泣き喚く海に
立ち止まることも

同じ 空は明日を
始めてしまう

椎名林檎「同じ夜」

日々の生活には、さまざまなことが起きる。泣いたり笑ったり。大切な人を失ったり、困難な事態に直面し、ただただ、立ち止まり、うなだれることしかできなかったり。しかしそんな場面だろうとなんだろうと、同じく「空は明日を始める」。いつも、いつも...。

線路上に寝転んみたりしないで大丈夫

徒(いたずら)に疑ってみたいしないで大丈夫

無理矢理に繕ってみたりしないで大丈夫

椎名林檎「虚言症」

人間が本質的に他人に興味がないということは、人間は本質的に不安だということである。私たちは不安「ゆえに」考え、行動し、絶えずその不安から目をそらさずにはいられない。しかし、大丈夫なのである。それが、歴史的には、子供にとっての、母親であった。私たちが悩み苦しんでいる、たいていのことは、他人から見れば、どうでもいい、とるにたらないことであり、ただ「大丈夫」と言ってあげればいいのだろう...。

此の河は絶えず流れゆき
一つでも浮かべてはならない花などが在るだろうか
無い筈だ
僕を認めてよ

上手いこと橋を渡れども
行く先の似た様な途(みち)を未だ走り続けている
其れだけの
僕を許してよ

椎名林檎「月に負け犬」

僕を認めてほしい。なぜか。河はいつまでも流れ続け、ここに浮べてはならない花など一つも「無い筈」だから、である...。
たったこれだけでしかない僕を許してほしい...。橋を巧そうに渡るけど、どれも行き先が似ている、そんな道のどれかをただ走っているだけの僕を。

正しく舐め合う傷は誰も何も咎められない

全部どうでもいいと云っていたい様な月の灯

約束は 要らないわ

ずっと繋がれて 居たいわ

気紛れを 許して

もっと中迄入って

椎名林檎「本能」

月の灯。
彼女はそこで、ただただ、「全部どうでもいい」とだけ、つぶやいてみる。彼らは、ただただ「正しく」舐め合う。
そういう実践の中で、彼女は言ってみる。口走ってみる。思いついたことを。もう、それが彼女が本当に欲していたことなのか、願っていたことなのか、考えていたこのなのか、そういったことは、どうでもよくなっているのである。