植村和秀『昭和の思想』

著者は明治と昭和の違いを強調する。つまり、明治の頃というのは、言ってみれば、政府が小さい。まさに、革命政権で、何人かで、一気にあらゆることを決めて、突破していった。
ところが、昭和の頃にもなると、もう、何世代と経過してきて、政府を中心とした、国家として見えている、図体が、比べものにならないくらいに、大きくなっている。もう、昔の英雄時代ではやれなくなって、大量の人口を動員して、コントロールしていかなければならない、まったく違う、政治力学になっていく。
つまり、日本の昭和初期の傾向は、そういった、大量人口を動員していく、
官僚
が主役となっていかなければならない時代における、動員のメソッドの稚拙さが、全体の統制を逸脱する、つまり、敗戦へと向かったということなのかもしれない。
ただ、この敗戦についてなのだが、どうしても、今から考えての謎は、
軍隊
であろう。明治政府から、この国の基軸とされてきたのは、軍隊だったはずだ。この国は、軍隊を中心に体系化されていたはずである。あらゆることが、陸軍と海軍を中心に回っていたはずのこの国において、どうやって、敗戦とともに、これだけスムーズに、軍隊の解体が進められたのだろうか。
国家の基軸としてあったはずの、軍隊。あらゆることが、まず、軍隊が先行することによって決定されていた。まず、軍隊の形を決め、その後に、そのおこぼれとして、民間部門の権益が割当てられていく。そんな感じだった、この国において、これほど、短期間で巨大権力を持つ軍隊が、あっさり解散され、消滅していったことは、驚きとともに、あきれかえってしまう。
それは、世界のさまざまな紛争、旧ユーゴ紛争が、どれだけ長びいたか、イラク戦争が、どれだけ泥沼の結果として、ぐずぐずと繰り返しているか。アフリカの紛争の解決がいかに、難しいか、こういったことを考えると、そもそも、暴力組織をどうやって解体していけばいいのかは、ほとんど
不可能への挑戦
くらいに難しい問題に思える。
イラク戦争の戦後処理において、よく、日本の戦後処理に学べ、ということが言わたことを思い出すが、結果としては、まったく成功しなかった。
というのは、彼らネオコンはまったく分かっていなかった、ということなのではないだろうか。なぜ、日本の武装解除が、ここまでスムーズに完成したのかを。
そこには、間違いなく、ある軍人の「深謀遠慮」があった。

終戦に際しての阿南の努力には、さまざまな解釈があります。阿南が陸相としポツダム宣言受諾に強く抵抗し、徹底抗戦を求める部下たちを取り締まらず、しかし彼らの激発に加担はせず、複雑な態度をぎりぎろまで示したからです。私が思いますのは、阿南の自刀は、考えぬいた末の見事な収拾策だったのではないか、ということです。

しかも、一四日の御前会議は午前中に招集され、次の計画に取りかかった首謀者たちの先手を取ることとなりました。午後には閣議が開かれ、夜にかけてポツダム宣言受諾の手続きが進行します。そして当夜付けの遺言を残し、阿南は一五日早朝に自決します。このゆっくりとした自決について、私は、暴発を阻止するための最後の切り札だったのではないかと思うのです。
つまり、自決によって陸軍大臣が不在となれば、大臣名の命令は出せないわけです。自決が早すぎては、後任者が決定されかねません。自決が遅れると、偽命令が出されかねません。肝心の日に大臣としての陸軍を麻痺さえ、暴発を萎えさせる効果的な方法であることを、陸軍に長年勤務した阿南は読みきったのではないでしょうか。

よく考えてください。陸軍こそ、日本そのものと言ってもよかった時代。つまり、この超巨大組織である、陸軍は、基本的に戦争継続で固まっていたわけですね。そこで、どうやったら、こんな巨大組織を武装解除できるか。
天皇が敗戦宣言すると
同時に、
陸相という、陸軍トップが自殺することによって、命令系統の頂点を消滅させた、ということですね。巨大組織にとって、全ての生命線は、命令系統です。その頂点が消滅するということは、その、さらに上と
直結
するということですから、自動的に天皇の命令により、武装解除へ向かうということになるでしょう。しかし、それにしても、大事なのは、そのタイミングでしょう。早けば、代りが決定され、遅ければ、偽命令を流される。阿南惟幾こそ、日本をイラクのどろ沼にしなかった英雄だったのかもしれません。
しかし、問題は、なぜ彼がそのような行動にでたのか、ではないでしょうか。これを考えるには、彼の師にあたる、平泉澄の思想が重要になります。

また、その昭和戦前期における影響力は学生と軍人に対して強く、文部省にはそれほどなかったように思います。平泉の影響力が文部省に強く及ぶのは、むしろ昭和戦後期であり、自衛隊とともに注目すべき要点となります。

まず平泉は、日本をもって一つの独立した歴史的世界と把握します。そしてこの歴史的世界は、日本の理念を核として成立しており、その理念を失えば崩壊してしまう、とするのです。その理念とは、平泉によれば皇国理念であり、つまりは、天壌無窮の神勅に示された建国の理想に他なりません。

つまり、平泉にとっては、明治憲法にあるように、この国は「天皇主権」の国なのだ、ということなのです。では、主権者である天皇と、日本人は、どういう関係にあるのか。

「吉野時代の五十七年が長かったというだけのことで、その長い時間は、実は空費せられ、浪費せられたに過ぎなかったのです。吉野時代は、苦しい時であり、悲しい時でありました。しかしその苦しみ、その悲しみの中に、精神の美しい輝きがありました。日本国の道義は、その苦難のうちに発揮せられ、やがて後代の感激を呼び起すのでありました。これに反し室町の百八十二年は、紛乱の連続であり、その紛乱は私利私欲より発したものであって、理想もなければ、道義も忘れ去られていたのでした」。
平泉は、このように評価を下し、吉野時代の忠臣たちを真の日本人とします。そして、日本という歴史的世界に生まれた人間は、その魂を体現して真の日本人となり、この歴史的世界を護持せねばならない、と主張するのです。平泉によれば、そのために必要なのは、日本の歴史を信じ、日本という歴史的世界お信じることに他なりません。より正確には、歴史に現れた日本の理念を信じ、日本という歴史的世界の魂を信じることなのです。これは信仰ですから、その意味で平泉の思想は宗教的と言えますし、信仰を拒絶する個人の自由を、認めるわけにはいきません。

吉野朝、つまり、南北朝時代の、後醍醐天皇時代こそが、彼にとって、唯一の、
真の日本人
が存在した歴史となる。つまり、天皇が政治のトップだった時代(飛鳥時代以前は、彼にとって、神話の時代となりますので、考察の対象とならない)。明治維新以降とは、唯一この時代と比肩できる、真の日本人の時代となるわけですね。

平泉の考えからすれば、主権者たる天皇は、皇国理念を自ら体現し、主体的に主権者として行動すべきなのです。つまり、建武中興の後醍醐天皇のように、責任をもって自ら国家を運営すべきとするのです。そして後醍醐の皇子たちのように、皇族も国家運営に実質的に参与し、内外未曾有の危機突破に責任を持って取り組むべきとします。

大事なことは、彼にとって天皇主権であることが重要なのですから、なにもかもを天皇が決めるべき、となるわけですね。後醍醐天皇のように。特に、国家存亡の危機において、天皇が国をひっぱることが、なによりも大事、となる。
これをもっと敷衍するなら、戦争をやるのも、やめるのも、考慮されるべきことは、唯一、
天皇の意思だけ
ということです。論理的にこうなるわけです。
いくら、陸軍が、まだまだ、日本は戦うべきだ、と考えていたとしても。
だって、負けて降伏するって、どういうことですか。これだけの巨大組織、巨大な権力を持っていた組織が、消滅させられるわけですよ。普通に考えたら、それだけの理由だけで、いつまでだって、降伏なんてしないんじゃないですかね。こんだけの権力の旨みがあっておいて、なんで、自分から、組織を潰そうなんてしましょうか。
しかし、平泉とその弟子の阿南にしてみれば、
論理的
にそれを目指すということになるわけなんですね。しかし、それは、あくまで、
天皇がその方向を選んだなら
ということです。

「この書簡は、陛下の思召にそって、和平の(一)「話のまとまり候場合」、(二)「決裂の場合」の、それぞれの対策を具体的に示され、前述の「国内特に陸軍」伝々の文章は、その(一)の妥結の場合の中の一節である。そして(二)の「決裂の場合」には、「急速に雄大壮烈なる作戦にいで、世界を震撼せしめられ度候。これまでのやり方は、まだまだ姑息なりと存ぜられ候。一億の玉砕、皇国の全滅をすら覚悟しての思ひきりたる戦」を展開すべきことを訴え、「従前の作戦、退守を専らとするは徒らに敵機の跳梁をゆるして戰はずして爆破せらるるもの、千秋無限の痛恨事に御座候。」と切言されてゐる。(後略)」

まあ、当然ですよね。こっちこそ、いつも講演で言っていたことなんですから。ですから、阿南惟幾が、日本の内戦を防いでくれた英雄だった、という言い方は厳密にはミスリーディングなんですね。だって、天皇の決断によっては、彼こそ、猛烈に戦争継続を生きることを間違いなく選んでいたわけですから。
つまり、彼は、あくまで、「天皇主権」として生ききった、ということですね。自分の意思を殺す。意思があるのは、天皇のみ。しかしながら、その場面場面における、最良の決断を主体的に選ぶことにおいては妥協しない。そういう前時代の一つの信仰(思想)を生きた一人だった、ということなのでしょう。
私たちが戦前の文献を読んできて、ときどき、分からなくなるのは、こういった雰囲気なのかもしれません。こういったものが、戦前の日本の一つの側面だった、ということなのでしょう。

昭和の思想 (講談社選書メチエ)

昭和の思想 (講談社選書メチエ)