経済「外」的という欺瞞

今週の videonews.com は、TPPにからんで、農業問題をとりあげる内容であった。
近年のFTA、TPPの議論は、非常に重要な問題に思えるのだが、どうも真剣に議論をしている、サイトも見かけなければ、ツイッターのつぶやきも見かけない。
(それにしても、なぜ、文化系の人たちは、経済を語らないのだろう。なぜ、経済を語らずに、文学や政治を語るのか。その反動性になぜ、悩まないのだろう。まず、経済の「外」に、
芸術
があるかのような、「はしゃぎ方」から、みっともないんで、やめてもらえないだろうか。)
もちろん、「たんなる」経済学者たちによる、TPPを容認しろの大合唱だけは、かまびすしい。これしか、日本の生き残る道はない。アジア各国との経済競争に「勝つ」ためには、これしかない。
しかし、このTPPとは、グローバルな協定ですから、日本がさまざまに行ってきた農生産物保護を維持できなくなる。
なぜ経済学者たちが、容認しろの大合唱になるかは自明で、グローバル市場で競争できない、生き残れない小規模農家なんて、消えちまえ。そもそも、競争力がないのが

なんだ。経済の世界では、強いものだけが残るのは当然なんだから、まず、弱者は滅びろ、と(そいつ本人が滅びるということではなく、そいつの仕事が、ということ)。TPPさえ結べれば、日本が売りたい工業製品をもっと売れる。
これに、二つの反対が起こる。一つは、国家安全保障的な意味での、反対。日本の大地で、農業がなくなり、すべて、道路と駐車場とマンションだけになったら、いざ、海外の国々が日本に農産物を売らないと言ってきたとき、急に、そういう場合になっても、自国で作れないのだから、ある程度の自給率は必要なんだ、という話。
もう一つは、こういった考えに後押しをされて、今まで、農業をやっていた人たちが、急に、売れなくなると分かっている政策に賛成するわけがない。
そもそも、日本は民主主義なのだから、どんなに儲からなくても、農業人口がそれなりにあるなら、そういった人たちが「間違いなく」選挙で投票してくれなくなるとなれば、大きな力になる。
しかし、その前に言われていたのは、FTA(自由貿易協定)についてだった。これは、言わば、各国間で、関税フリーな
経済的国家統合
を目指す方向と言える。

はじめに正確な定義ではありませんが、私のFTAの解釈をご紹介します。
「FTAとは、2つ以上の国や地域の経済をできるだけ統一化する協定である」

図解よくわかるFTA(自由貿易協定) (B&Tブックス)

図解よくわかるFTA(自由貿易協定) (B&Tブックス)

この表現が微妙であるが、国家はもちろん、それぞれの国によって、主権があり、違っている。そこから、国家ごとの関税というアイデアにもなる。違う国の商品を輸入するなら、税金をかけよう。反対にこちらの商品を輸出するときも相手の国に税金をかけられる。
極端に考えて、もしお互いの関税が高すぎるなら、相手国では、その商品は高すぎで売れないのだから、その商品の市場は自国内だけということになる。
商品の競争力において、いかに、その商品を売れる市場が大きいかが重要になる。もし、その商品を多くの人が買ってくれるなら、儲かること以上に、生産ラインの効率化ができる。多く生産しても、さばけることが分かっているなら、いっくらでも、効率化ができる。そうすれば、値段を下げることだって容易だ。なんにせよ、多くの人たちが買ってくれることは、強烈な強気オプションの選択を許す可能性を与える。
しかし、売れるとは、どういうことか。売れるためには、市場が必要だろう。それも、できるだけ大きな市場だ。沢山の人が、うちの商品を買おうかどうか、と悩んでくれるということは、それだけ売れる可能性がある、ということである。
ところが、もし、その商品が競争相手のものより、ダブルスコアで高価だったら、悩むまでもなく、うちの商品を選ばないだろう。同じカテゴリーの商品同士、そんなに性能が違うわけないのだから。
つまり、なにはともあれ、競争相手と同等レベルの値段にできることが、なによりも、優先して求められるわけである。ところが、それが、「うちだけ」関税かけまくられたら、競争するにも競争できないだろう。
(たとえば、ユーロというのがある。これは、各国が通貨発行権を放棄して、その加盟国内で一つだけ、通貨を存在させよう、という戦略である。自国の金融政策を放棄するし、当然、関税もない。つまり、EUも一つのFTAでありTPPになっていると言えるだろう。そもそも、経済において統一された、EUが、各国で分かれている、とは何を言っているのだろうか。経済の「ほか」になにかがありうる、という言い方になにか意味があるのだろうか。つまり、である。FTAを結んだ国同士は、もう、一つの国なのだ。つまり、ある種の、新しい時代の、侵略なわけだ。相互侵略。今、各国は、こうやって、自分たちの
領土
を拡張してきてる。それにしても、おもしろい。FTAを結ぶ国々の国民は、すでに、同じ○○人となる。どんなに「文化」が違おうと。これは、新しい、
世界共和国(グローバリズム
への一歩なのだろう。)
この事態というのは、一体、何が起きている、ということなのだろうか。
FTAとはなんなのだろう? 一つだけ、はっきりしていることは、ある種の、
カルテル
になっているということなんじゃないか。マイナスのカルテル。今までの、自由貿易論議は、すべての国が合意する条約であった。この条約に参加する国々は同じルールでやらなければならない。
ところが、FTAは、基本は、2国間の問題になる。お互いの国同士は、お互いで決めたルールでやりましょう、と。そんな、二国だけで、おかしいじゃないか、と思うかもしれないが、なぜ一般に容認されるかと言えば、
国際条約は守りながら、
さらに、強力な「自由化」をお互いの国の間だけは、やるということで、より自由化しようという、いい方の取り決めなんだから、いーんじゃない、というわけだ。

世界の貿易自由化の基本スタンスは、WTOで討議され、進んでいく、つまり、WTO加盟国全体で関税を削減するなどして、自由化を進めることにあります。それに対して、FTAはWTO加盟国全体に対してではなく、特定の2国間での関税削減です。これは、全体で自由化を進めるというWTOのスタンスに反します。しかし、ドーハ・ラウンド以降進まなくなったWTOでの交渉に代わり、部分的にでもその理念である貿易の自由化が進むのであれば、一定の条件を満たしている限り、WTOは良しとし、了解するというスタンスになっていいます。
図解よくわかるFTA(自由貿易協定) (B&Tブックス)

国際ルールにおいては、なににおいても、自由化が進めば進むほど「良い」ということになっているらしい。各国、なんの理由であれ、保護的なことをやってるということは、
駄目な国
の烙印を押したいらしい。
(私にはこういった、WTOの姿勢が理解できない。とにかく、自由化だけが「善」って、こういった国際機関ってなんなのだろう。そうやって、各国の貿易を完全自由化したとして、ある日、完全保護貿易に、変わったら、自国の農業が無くなった国は、どうやって食料安全保障を達成するというのか。むしろ、WTOは食料安全保障として各国が取り組むべきボリュームの目安を提示すべきだ。)
つまり、WTOは、世界共和国を目指している、ということなんですね(最初に言ったように、この記事の論旨においては、私は「経済の外」を認めない、という立場をとっている。経済的な統合は、あらゆる人間活動全ての統合「への意志」と同値とみなす)。
じゃあ、FTAやりまくっちゃいましょう。といって、今一番、やる気まんまんなのが、韓国であろう。
韓国は、IMF危機の経験から、国民はもう、国家のやることに文句を言わなくなったようだ。財閥に完全に支配されているこの国は、国内農業を
捨てた。
これによって、韓国の農地は、かたっぱしから、荒地になり、国内食料は、ほぼ輸入品だけとなった。その代わり、
工業製品は、安く売れる。
どこの国でも、抜群の安さで売れるようになり、どこの国でも、売ってるのは、韓国製品しかなくなってしまった。日本製品なんて、高すぎて、店頭にさえ置いてもらえない。
こういった事態に、どうすればいいのだろうか。
おもしろい、ですね。
WTO自由貿易を目指すということは、上記の私の考えを敷衍するなら、世界国家を目指していると言っていいはずだ。WTOは、世界を一国にしようとしている。)
世界は、「経済エリアにおいては」、グローバリズムでなければならないようだ。グローバリズムを選択しない地域には、そもそも、競争力すら割り込む余地がない。
国家によって。
奇妙なことに、ここにきて、国家の存在感が増す。国家の税金戦略が、

  • 各国内の産業の競争力を完全に決定してしまう。

世界はより、国家コントローラブル、になっていく。
例えば、地方分権により、各地域が、上記のような、FTAを世界の国々と結ぶとするならどうだろう。名古屋を中心とした愛知一帯は、完全に農業をあきらめて、工業化戦略をとり、北海道や九州は、農業保護戦略で行くみたいな。
しかし、FTAがナショナリズムとなっているのは、関税に関係しているからで、中途半端な地方分権では、東京の地方の若者労働者の収奪構造の崩壊など、もっと、いろいろな側面で問題もあるだろう。
結局のところ、日本は今後、どういった方向に向かうと考えられるだろう。
アジア諸国の、今の工業製品製造戦略は、一言で言えば、
「欧米セレブ投資リターン額極大+労働者奴隷制+トリクルダウン」
と言えるだろう。山田電気とコジマ電気は、お互いで、相手より、一円でも高かったら、値下げすると強弁し合う(だったら、理論的には、顧客は、タダでもらえることになりますね)。同じように、各国アジア労働マーケットは、少しでも、労働者の福祉や給料を低くすることで、各企業の支出を減らす。どうせ、アジアには捨てるほど、労働者はいる。ほとんど、ただ同然でも、飢えて死ぬよりまし、と働こうとする、
奴隷
はごまんといる。そういった連中をうまく使って、できるだけ、製品に人件費を上乗せさせない。じゃあ、労働者に夢はないのかといえば、
おこぼれ
はあるかもね、と餌で釣っておくことは忘れない。うちの会社がもうかれば、すこしくらいは分けてやらないこともない。実際、ちょっと小金をつかまえてもらうことで、「他よりまし」とさらにがんばっちゃう。
こうすることで、より世界中に低価格で売れることで、世界の市場独占は進むのだろうが、それは「使い捨て」労働者の収益には、直接はつながらない。なぜなら、同じような、低価格戦略で、世界の市場を狙う競争相手は「アジア内なら」ごまんといるからだ。お互い、自分の商品を安くすることしか考えていない。
ものすごく低い価格のレベルでの競争ばかりが、激化して、より現場にストレスがかかる。
この、アリジゴクに入ったら最後。骨の髄までしゃぶられて、廃人にされること間違いない。ここから抜け出すには、一つ。真似されない、「ブランド」へ昇華させるしかない。しかしこれは、言うは易し行うは難し。
はっきり言ってしまえば、戦後の、日本が得意とした、natural science でやれる分野は、簡単に世界中に、
真似っこ
されちゃうということだ(真似って、アイデンティティの問題になりにくいんですよね。お前それでも○○人か、恥を知れ、と言われたら、これは△△人の真似ですから、と言えばいいんで)。日本製品、かたっぱしから、韓国人と中国人がコピーして世界中で売ってる。結局、再現性がディジットに確定している、ナチュラルサイエンスは、だれでも真似できることだけが、唯一のとりえなんだから、すぐに、世界中にコピーされてしまう。市場の優位性を保てるのは、どんなに、革新的なアイデアを発明しても、短期間しか維持できなく、無駄なわけだ。
虚しいなーと思うかもしれない。しかし、これが現実なわけである。何十年かけて発見した、数学の証明も、一度、論文として発表してしまえば、マネッコで、どんどん同じ手法を使った論文が、大量生産される。
しかし、逆に言ってみることもできる。とにかく、商品は安くなる。どこまでも。ということは、消費者は安く買えるということである。あらゆる商品が、ただ同然になることで、あまりお金を必要としない生活が可能になるかもしれない。
ただ生きるだけなら、それほど、お金を消費しなくてもよくなる。
そうなったとき、人々は日々を何をすることで生きるようになるのだろう。一方において、それほどお金を必要としなくなるかわりに、その少ないお金を稼ぐことが、やたらと困難な時代。
そういう時代においては、どう振舞うことが、それぞれの人を幸せに感じさせるだろう。
選択できるポジションは、以下だ。

  • ドロップアウト(労働意欲を無くした生き方。国は、国民に最低限の文化的生活を保障しなければならないから、生活保護などで、とにかく、飯だけは食い続ける)。
  • 攻撃ポジション(ベタに、この資本主義経済に、クリエーティブな創造を探し続け、挑戦し、世に問うていく。食べて行けるかは分からないが、新しい価値をこの世界に生みだしていこうとしているという意味で、積極的)。
  • あがり(大金を貯めてしまって、あとは、だれかに運用してもらうとか、とにかく、なにもしないんだけど、お金だけは入ってくる、金持ち父さんスタイル)。

こう考えると、真ん中の、攻撃ポジション、しか選べそうなオプションはなさそうだ。しかし、どうだろう。もっと、人々が楽に「も」生きられるような「オプション」が広がっていくような、未来をイメージすることはできないだろうか。
たとえば、ある、これさえ食べていれば、まずいんだけど、栄養の面では十分なので、天寿をまっとうできるような、微生物を、ただ、毎日、お日様の下で、増殖させておいて、それさえ口にしていれば、食事は他に取る必要のない。こんな生き物を開発すれば、だれもが
自給自足
生活も、やろうと思えばできる、ということになるだろう。いずれにしろ、もっと多様な生き方があってもいいように思える。たとえ人類が、自堕落に、なにもしない人たちばかりになったとしても、それでももし、彼らが生きていられるのなら、それはそれでいいんじゃないか、とも思わなくもない。
勤労の素晴しさを言祝ぐことは、働かない人生は虚しいというような、一種の道徳となっている。しかし、別に働かなくても生きられるなら、どうして「勤労を義務」にしなければならないのか。
というか、もっと言いたい。働かなくたっていいじゃないか。究極的には、あらゆることが遊びになればいい。みんな、そうすることが楽しいからやる。あきたらやめる。別のことを(好奇心が湧いたら)やる。でも、すぐ、あきる。
もしこれで、社会が回るなら(回るなら、ですよ)、これの何が悪い。つまりこうだ。
苦しいことをやればやるほど、霊験あらたかな、ご利益(りやく)があるかの、マゾヒスティックな輩が多すぎるんだ。いいかげん、そういう、苦しみから光へ、みたいな、ベートーベン第九のような生き方を卒業してもいーんじゃないな。
ただただ、感情のままに、おもしろいと思ったことを、何も考えずにやる。
いずれ、そうすることで、なおかつ、経済的な需要さえ満たす時代が来るんでしょうかね。たとえば、こんなことを考えてみよう。人々はネットによって、結ばれる。そうしたときに、何が起きるか。
だれかが、こう、つぶやく。「おれ、今、こんだけのお金が<必要>かも」。すると、地域通貨によって、ネット上の、私の口座に、そんだけのお金が、入る」。たまたま、私は、そうやって好き勝手にやりたいことをやってたら、自分の地域通貨がけっこうたまってお金持ちになっていた、とする。で、こう、つぶやく。「おれ、今、ここまでのお金は<必要>ないかも」。すると、自分が許容できる範囲くらいまでを残して、その残りのお金が、自分にされたように、他の人の懐に入ったり、それの幾らかが帰ってきたり、多少増えたり、などを繰り返すようになる。つまり、
すべてを<必要>だけが制御していく社会。
人それぞれ、必要な分で、均衡されていく。極端に貧乏な人もいなければ、極端に裕福な人もいなければ、極端に忙しくてやりたいことをやれない人もいなければ、極端にやりたいと思っていることができない人もいなければ...。
しかし、それじゃあ、競争がないじゃないか。進化論的な弱肉強食がなくなって、だれでも、不幸せにならずにすむって分かった途端、みんな、子供を産みまくるようにならないか。産んでも産んでも、増え続ける。
しかし、そういうものでも案外ないのかもしれないじゃない。人によっては、別に子供を産もうとしないことを選択するようになるかもしれない。そこまで、増えなければ、それなりに均衡されるだろう。
今は残酷だけど、貧乏な家の人は、なかなか幸せになれないから、貧乏な人たちは結婚もしない。子供も作らない。恋愛もしない。なにもしないで死んでいく。だって、子供なんて産もうものなら、その子供が
不幸
になることだけは間違いないんだから。だって、俺、貧乏だから(今の時代、子供がいて貧乏でないということは、セレブってことだ。セレブたちのガキ自慢ばかりが巷にあふれ、
セレブ=幸せ
を貧乏人は必死でヨイショして言祝げ、という道徳ばかり、やかましく叫ばさせられる)。
この観念が、ある限り、ハングリーさは消えないけど、そういう自分に鞭打つことで、喜悦を感じるような、マゾヒスティックなストイックさというのも、まあ、別にそれもありだろうけど、こればっかりでなくてもいんじゃね? といったところが、近未来に期待する生き方といったところだろうか。