諫山創『進撃の巨人』

今日、第三巻まで読んだ。連載は読んでいない。
ある種の、極限状況を空想することは、さまざまな問題の本質を明らかにする(そもそも、科学とは「極限状況」を説明するための営みであり続けたわけである。ニュートンがリンゴが落ちるのを見て万有引力の着想を得るという話にしても、夜空の月や太陽は、さすがに、例外だろう。そんな天上界には、私たちの身の回りとは、別の法則が支配しているだろう、という「例外」を認めなかったから、「すべてのもの」に働く法則の発見に成功するのだ)。
このマンガの世界は、いわば、私たちの今の世界の延長に考えられた、近未来SFとなっている。ただし、その「イメージ」はキテレツである(つまり、ファンタジー)。
人類の目の前に、ある日から、「巨人」たちが現れるようになる。
彼らは何者なのか?
それは分からない。分からないが分かっていることもある。彼らはでかい。一般に15メートルくらいはある。そして、外見は「完全に人間と同じ風体をしている」。
彼らは、我々、普通の人間にとって、「残虐に」振舞う。普通の人間たちを見かけると、彼らは、追ってきて、つかまえ、手足をちぎり、
食べる。
彼らの腕力は「桁違い」であるのだから、私たち普通の人間を「ちぎる」ことは、まるで、私たち普通の人間たちが毎日、空を眺め、空気を吸うように、
普通に日々行う、日常の行動でしかない。
人間を捕まえ、人間の手足を「ちぎり」、口にほうりこみ、食べていく。その姿は、たしかに、自然界における、食物ピラミッドを思わせなくもないが、一つ違うのは、その行為に、飽食感がないことだろう。いつまでも、人間をひきちぎり続ける。まるで、人類の残虐行為が、その「必要」を超えて、いつまでもサデスティックに続けられるように、いつまでもいつまでも続く...。
しかし、彼らの「実体」は杳として不明だ。彼らは「突然現れる」。まるで蜃気楼のように(宇宙人UFOのように?)、いつのまにか、気付くと目の前にいる。彼らは、首をふっ飛しても、「元に戻る」(しかし、彼らに弱点がないわけではない。彼らの、ちょうど人間でいう、脊髄の辺りを攻撃することで、彼らを破壊することができる...)。
こういった「巨人」によって、作者は何を示唆しようとしているのだろうか。
たとえば、本来、エヴァンゲリオンでいう「使徒」は、こういったものを描きたかったのではないか、と考えてみよう。テレビアニメの制約によって、子供たちの死ぬ場面を描けなかったわけで、当然、残虐な「使徒」を「人間の似姿」で描くことは、できなかったわけだ。
またたとえば、これを、第二次世界大戦における、日本の「鬼畜米英」の延長で考えてみよう。日本の歴史において、明治以前の江戸期を一般に「鎖国」時代と言う。もう、この頃には、多くの欧米の方々は、大型船によって、世界を航海していたわけだから、日本に、もっと多くの方々が住んでいてもよかったわけだが、彼らの日本上陸は(長崎の出島を除けば)基本的に許されなかった(まさに、このマンガでの、万里の長城のような外壁の外に、でっぱりのように、街がとび出て、いるように)。
日本人は、それまで、ほとんどの人たちが、彼ら「欧米人」と会ったこともなければ、話したこともなかった。ほとんどの人が、である。そうしたとき、私たちは、どう思うだろう? まさに、ドイツ語で言う、ウムハイムリッヒ、不気味であるとは、知らない、ということであり、つまりは、外国人ということだ。
知らないからこそ、彼らに対する妄想は、どこまも広がる。知らないから恐い。怖さは彼らの自己イメージを巨大化させる。それは、私たちが、小動物、例えば、昆虫などを造作もなく、捕まえられることをイメージしているのだろうが、普通に考えれば、そんな物理法則を無視した、巨人の俊敏な動きなど、そう簡単ではないものだろう。
パールハーバーで日本がアメリカに先制攻撃をしてから、日本は、どんなに戦局が不利になっても、いつまでもいつまでも、戦争を継続し続けた。戦争で真に重要なのは、撤退戦であろう。物量で勝る相手に、最前線を後退させながら、秩序を維持していくことは、簡単ではない。後退は「消滅」つまり、恐怖、戦慄、を示唆する。当時の日本人たちが、自らの
滅び
をイメージしていたことは、間違いないだろう。
しかし、その狂ったような、撤退戦を、それでも戦い続けるということは、一体何を意味しているのだろうか? それはつまり、降伏をしない、という決意なのだろう。なぜ、降伏をしないのか。つまり、
降伏の通用する相手かどうかが分からない
ということである。日本人はまだ、「一度も」欧米人と交流をもっていなかった。少なくとも、当時の一部インテリを除いたほとんどの日本人がそうだった。だから、
分からない
のである(降伏とは、それまでの「慣習」によって、定義されてきたものであり、それは、中国の古典で描かれてきたものであり、日本の過去の戦(いくさ)で行われてきたものだとして、どうやったら、欧米人に同じ「慣習」が存在すると、思えるか。実際に、そういう人に会って、体感してみないことには、その共同体にとって、なんの常識となっていないことを「想像」することは難しいのだろう)。知らない、体験したことがない、というのは大きな認識のギャップとなる。だからこそ、若者たちに、さまざまなことを体験するチャンスを与えることには、意味がある。体験することで生まれる認識があるなら、体験することによってしか生まれないかもしれない認識もある。
戦後、アメリ進駐軍が、日本をオキュパイドした途端、
あっという間に、フレンドリーになっちゃった。
ウムハイムリッヒな存在は、毎日一緒に暮す存在となった時点で、ハイムリッヒ(親しい)な存在になっちゃった。
じゃあ。
私たちは、一体何と戦ってたんでしょうね。
私たちは、欧米の方々も、私たちと変わらない、義理も人情もある、同じ「人間」であることを「体験」していき克服していったとしても、その
なんだかわからない
ウムハイムリッヒな存在に、おびえ、絶望的な戦いを続けた「記憶」は消えない。その実感は肌から消えることはない。その、皮膚感覚だけは、
リアル
に残る。なぜなら、そう「思った」ことだけは、間違いなく真実なのだから。こういった、トラウマは、子供の頃の古傷が大人になっても、残り続けるように、理屈抜きで、刻まれたまま、「存在」し続ける...。

進撃の巨人(1) (少年マガジンKC)

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