ウィリアム・モリス「民衆の芸術」

東京で仕事をしていると、なんというか、時々、変な気持ちになることがある。
たとえば、それは、西武池袋線を利用することのある人なら、理解されるであろう、あの、銀河鉄道999、のペイントについてである。もちろん、「広告」ということであるなら、他の車両でもよく見かけなくはないが、広告の場合の特徴は、何日もしないうちに、外されることである。
それと比べるなら、これが、まったく広告的なものでないことが理解される。鉄郎、と特に、メーテル、がかなり本格的に描かれていて(近くで見ると相当エロティックにさえ思えて、こういうアニメ絵にあまり慣れていない人は、戸惑うのではないか)、おそらく、作者側の、こだわりが反映しているのではないか。かなり気合の入っていることがわかる。
また、痛車、かと思われるかもしれないが、今回は、こういったものを「肯定」することの可能性を掲題の講演から、探ってみたい。
ウィリアム・モリスといえば、「ユートピアだより」という社会主義小説を書いた人であるが、一般には、社会主義的な芸術運動を行った人として知られている。
なんだ、芸術なんて、自分には関係のない、お金持ちのセレブが、高いお金出して買う絵画みたいな話なんだろ、と思うかもしれないが、
まったく違う。
といいますか、ウィリアム・モリスの言う「芸術」が違うのである。定義が違うのである。そういう意味では、ウィリアム・モリスの言う「芸術」は、私たちが一般にイメージする「芸術」ではなく、むしろ、私たち庶民にとっての、
「労働」そのもの
を言っていると考えた方が正しい。
(そういう意味で、掲題の非常に、情熱的な講演を、ぜひ、今、安い給料で、日々の糊口をしのいで生きている、
若い人
に読んでほしいですね。)

画学生に普通よくあたえられる必要な忠告に古代を学べというようなことがあるのを初めに私はのべた。確かに私と同じく諸君もそのようなことをし、たとえばサウズ・ケンジントン博物館の廊下をさまよって、人間の頭脳から生れた美に接し、驚異と感謝の気持に一杯になったことがあるであろう。さて、これらの素晴らしい作品が何であり、どうして作られたか、諸君に考えていただきたい。今ここで「素晴らしい」という言葉を用いたが、誇張でもなけば、不当な意味をつけているわけでもない。これらの作品は過去の時代の普通の家具類である。そして、それが数が少く、大切に保存される一つの理由なのだ。これらの品はその当時にあっては、壊したり、よごしたりしはしないかと心配などする必要なく用いられていた日用品であって、珍らしい品物ではなかった。だが、われわれはこれを「素晴らしい」と呼ぶのである。
そして、それはどういう風に作られたのか。その模様を描いたのは偉い技術家だったのか----教養あり、高給をはみ、美食し、よい家に住み、仕事をしていないときは綿にくるまっているような人によって作られたのか。決してそうではない。これらの作品は素晴らしいものではあるが、これは所謂「民衆」が平凡な日々の労働のうちに作ったのである。

もし人がその軽蔑する仕事、快楽にたいする自然な正しい願望を満足させないような仕事をしなければならないとするならば、その人の生活の大部分は不幸に、自尊心もなく、すぎていくことになる。

土地を耕し、網を投げ、羊を柵にいれたりする、こういう労働は荒い仕事であり、多くの困難をともなうが、これも、暇と自由と適当な賃金という条件さえいれられるならば、われわれの最上のものにとってもよい仕事である。煉瓦工、石工といったような人々は、もし芸術が当然にあるべき本来の姿をもつものならば、これらの人々は芸術家であって、単に必要であるだけではなく、美しい、故に幸福な労働をしているのである。われわれが廃止する必要のあるのは、このような労働ではない。誰も必要としていない幾千という品物を作り、私が前に語った、誤って商業と称している、競争的な売買の要素としてしか用いられないような品物を作るような労働こそ廃止すべきなのだ。こういう労役が廃止されなければならぬことは、私の理性だけではなく、心情においても私は知っている。このほかに、前にのべた単に商業戦争の要素としてのみ必要で立派な事物を作る労働もあるが、これも制限し、改良する必要がある。このような改良は芸術によらなくては行えない。

ウィリアム・モリスにとって、芸術とは、あくまで「労働」の結果でしかない。それ以外になにかを認めないわけである。たとえば、私たちが縄文式土器を目の前にしたときの、驚きを考えてみてもいい。彼ら縄文人たちが、明らかに、楽しんでいたとしか思えないような、さまざまな造詣や、技術的な便利さが、そうすることで、楽しむことを知っている生活慣習を生きていた姿を垣間見させる。
しかし、実際の仕事においては、そういった、「楽しい」創造性を満たしてくれるものばかりではない。そこから、むしろ、ウィリアム・モリスは、
資本主義的「大量生産」コピー工業製品
を否定する(この辺りが、極端なまでの、文学的社会主義者となるわけだが)。
しかし、どうだろうか。
こんなふうに問うてみないか。もし、彼が、現代日本で生きていたとして、今あるような、「パーソナル」コンピュータであれば、彼は「ある意味」理解するのではないだろうか。これが、徹底した、
個人的な
道具であることを。では、現代の日本のアニメ的な造形については、どうだろう(まあ、キリスト教徒ですから、偶像崇拝的な意味では、否定されるでしょうが)。これも、「ある意味」においてなら、評価されうると思うわけである。
たとえば、上記の、銀河鉄道999にしても、たんに、メーテルが、エロい絵で、ワイセツだとか、そういう視点で見てないわけですね。ある程度の年代からだったら、ほとんど、このアニメを見てない世代ってないわけで、みんな、そういった絵を通して、あのアニメの
物語
を「反復」しているわけですよね。
絵は一つの象徴なのであって、そこに、あのストーリーが語っていた、メッセージをもう一度考えさせられているわけで、非常に抽象度が高い、高度な作業なんだと思うわけですね。
あたりまえ、ですが、人それぞれ、個人的な体験というのがあって、でも、それそのままでは、他人に伝わらない。すると、ある種の
抽象化
が行われるわけですね。それは、物語化される。しかし、だからといって、だれもそれを作者「そのもの」と考えたりしないんだけど、ある程度の真実性が、ある抽象度で反映しているのだろう、と解釈する。だって、どこかリアル、だからですね(だって、作者の体験が反映されているのだから)。
こういった、高度なやりとりが、現在の日本のマンガなどのサブカルチャー文化となっていると考えるなら、むしろ、今後起きてくることは、
日本中の「痛車」化
なのかもしれない。各会社から各個人から人々は、「自社(自分)マンガ」の作成を始め、そのマンガの内容が、
その会社(個人)のソーシャル・メッセージ
を仮託するものとなっていく。各社の商品から、車から、公共機関から、さまざまな「痛い絵」が描かれ、しかし、人々はそれが、一つの
イコン
として仮託されているメッセージを理解する
高度なリテラシー
を獲得していくことになり(今はまだ、私たちは未開人にも及ばないリテラシーしかない、ってことだ)、その会社(個人)の社会的イメージ、を共有するようになる...。
例えば、テレビアニメ「AIR」の第一話において、ある田舎の海岸ぞいの道を、国崎往人(くにさきゆきと)の隣で歩く、神尾観鈴(かみおみすず)、が、実に楽しそうに、両手を広げる
その姿
の意味を、私たちは深く考えるわけですね...。

民衆の芸術 (岩波文庫 白 201-2)

民衆の芸術 (岩波文庫 白 201-2)