森川嘉一郎『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』

著者が、後書きで書いているように、2005年に「萌え」という言葉が流行語大賞にノミネートされ、アキバブームとなるが、この本が書かれたのは、それ以前、だということである。
そういう意味で、この本に描かれているのは、秋葉原という土地が、アキバブームと呼ばれる形で、
大衆的に受容
されるまでの、変遷だと言えるだろう。
なぜ、秋葉原が常に特殊な場所であり続けたのか。著者はまず、その歴史の出発点を戦後直後に置く。

秋葉原電気街の形成には、二つの大きな要因があった。一つは終戦直後、近くに位置する電気工業専門学校(現東京電機大学)の学生がアルバイトで始めたラジオの組み立て販売が大繁盛し、部品を供給する電器関係の露天商がそこに集中したことである。ところが一九四九年に、当時日本を占領していたGHQが道路の拡幅整備のために露店撤廃令を施行したことで、この闇市は危機に陥る。念のために記せば、GHQは実質上、戦後のアメリカの世界戦略の中に日本をはめ込むために設置した機関である。このGHQの政策に対して露天商組合が陳情した結果、東京都と国鉄秋葉原駅のガード下に代替地を提供するという措置がとられ、露天商はそこへ凝集せしめられた。これによって後のラジオセンターやラジオデパートを成す駅周辺の高密度な部品商区画が発生し、電気街の原形が形成されたのである。
もう一つの要因は、戦前から店を構えていた廣瀬商会が地方にネットワークを持っており、遠方から仕入れの目的で小売業者や二次卸し店が多く訪れたことである。結果、秋葉原は安いという評判が広まり、交通の結節点ということもあって、一般客も集まるようになっていった。そしてその後は所得倍増計画などを背景としたいわゆる「三種の神器」(テレビ・冷蔵庫・洗濯機)を代表される戦後の家電ブームに後押しあれて、一九七〇年代には全国の家電市場の実に一割を一平方キロメートルに満たない領域で担う日本一の電気街に成長したのである。
高度成長期にはメーカーにとっても、秋は特例的な値引きを許し、また消費者からの反応をフィードバックあせるための実験場になった。専門知識を持った販売員として、社員の技術者が新製品とともに、主要な小売店の店舗に集中的に投下された。数々の大手家電メーカーが、秋葉原の発展を厚くサポートしたのである。

上記にあるように、秋葉原という土地が、もともと、庶民がGHQという、日本国家の「外」の権力に働きかけることによって、勝ち取った、
治外法権
であったということが、よく分かる。東京は、この国の首都。つまり、
政治
の中心である。そのように考えるならば、この東京の、「一等地」にこういった、貧乏人の街が保持されていることの意味を考える必要があるだろう(後述する)。
しかし、アキバブーム、を用意した、アイテムとして、まず取り上げるべきものこそは、長年ここで取引されてきた、家電製品、家電部品、ではなく、90年代ぐらいから、急速に勢力を拡大してきた、アニメ関連の商品だったことは間違いないであろう。
こういった、電器の街が、なぜ、アニメだらけになってしまったのか、ということがよく議論のネタになったものだが、著者は、むしろ、その近接性を強調する。電器部品の、さまざまに、専門的な知識や技術を要求する、その大量の情報の操作を要求されるデスクワーク作業性が、アニメの文学(デスクワーク)性と近いところにあることは、明らかだったように思える。実際、パーソナルコンピュータの普及が、そういったアニメコンテンツの「パソコンでの個人的管理」と、ほぼ同列に、進む中で、アキバがアニメ関連の店舗に、埋め尽されていく現在の様相を用意していったと言えるだろう。
しかし、何度も強調しているように、こういった傾向が現れてきたのは、比較的最近の現象であり、それまでは、今あるような、あそこまでの様相を示していなかった。つまり、ノーマルな電器街だったわけで、だとするなら、問題は、それまでにおいて、そういったアニメ・コンテンツが、マーケターにどのように、とらえられていたのかを確認しておく必要がある。

オタクというのは、はた目には趣味のこととなると金に糸目を付けない、購買意欲の旺盛な人種にみえるかもしれない。しかし実は女性のファッション市場などと比べれば、市場規模が小さいことからも、コントロールがしにくいことからも、マーケッターたちにとっては扱いにくい存在であり続けてきた。コミックマーケットに代表されるような素人による同人漫画誌の即売会など、大企業にカネが流れたりコントロールされたりしないようなシステムを勝手につくったりする傾向まであるからだ。
前述のファッションとオタク趣味に関するメディアからの圧力の違い、さらには大企業メディアにおけるオタクの差別的な扱いは、ここに大きく起因している。メディアにおけるオクバッシングは八九年の幼女連続誘拐殺人事件、いわゆる宮崎事件に端を発するとあれているが、仮にそうしたメディアのスポンサーたる大企業の多くがオタク相手に大儲けをしてたとするならば、類似した事件が何度起ころうと、メディアはオタクを文化的リーダーとして持ち上げ続けるに違いない。

この指摘が非常に重要であるように思う。そもそも、各アニメコンテンツは、それほど儲かるようなものではない。なぜなら、それぞれの作品が非常に、
パーソナル
な感情を描いているからである。つまり、全ての国民に喝采を浴びるものというより、その作者の個人的体験が、描かれたものということで、すべての人向けの商品になりづらい、ということなんだと思う。しかし、それゆえにこそ、熱狂的な一部ファンの共感感情を呼ぶ。しかし、それでは、
マス・マーケティング
に乗らないわけである。大量消費社会の商品としては、一種の

になる。つまり、こういったものが売れては困るわけである。こういったものに人々がとりつかれると、一般のマスでマーケターが売りたいものが、あまりに「画一的で」、どうしても、つまらなく見えてしまう。しかし、マス・マーケターはマスで売らなければペイしない、販売戦略しかとりえない大規模消費構造を前提にしなければ、飯が食べれない人たちなわけだから、そういった相手は、とにかく邪魔で、戦々恐々している、というわけである。
こういった、マス・マーケターの敵殲滅の欲望は、マス・マーケターが「大資本」の側にあることから、簡単に「権力」と結びつく。

間接的に答えを示してくれたのは、同じく鹿島建設が当時ITセンターの隣に建設していた、四〇階建ての高層分譲マンションの方の担当者だった。

「分譲マンションを買われるのは、どちらかというと安定志向の方々です。一般的には、二〇年、三〇年と住み続けるつもりで、購入されるものですから。そうした安定志向と、オタク系な嗜好とは、やはり相反するものだと思います。お客さんから、「ITセンターにはオタク系ばかりが集まってくるのか」と聞かれたりするが、いやそうではないです、という話をすれば、だいたいご納得いただけますね」

秋葉原のような、東京の一等地(銀座も近いですよね)を、あんな、貧乏くさい商品を、ちまちま売って、たいした儲けにならないような街にしておくより、いっそのこと、全部、おとりつぶしにして、かたっぱしから、分譲マンションにして、
セレブ
たちに売れば、どんだけ、東京都「は」儲かると思ってるだろーねー(前から言っているように、税金を払うのは、セレブのような、大金持ちですからね。扱いが最初から違うわけです)。しかし、そういったセレブが最も嫌うものこそ、同人誌みたいな、貧乏くさく、それどころかうちのお坊ちゃま、お嬢ちゃまの教育上よくない、変な影響を受けたら、将来を間違ってしまうような「ロリコンワイセツ物」で、教育上よくない、ってわけでしょう。
しかし、どうなのだろうか。間違いなく、子供たちは当たり前のように、ケータイを持ち歩くようになり、だれもが、こういったコンピュータデバイスに親和的になってきたことが、アキバブームへの敷居を下げてきたことは間違いないように思える。今回の都のマンガ表現規制条例も、上記のような対立の延長の
残滓
の最後の徒花として起きた事態のように思えるが、問われるべきは、そのアキバブームがどこまで、本物だったのか、なのだろう。
(「このこと」の意味することについては、次回、検討の予定。)

趣都の誕生―萌える都市アキハバラ (幻冬舎文庫)

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