ジョエル・ベイカン『ザ・コーポレーション』

日本の戦後は、もちろん、東京裁判から始まった。つまり、日本の指導者たちの、戦争「責任」を、法的に裁くという過程であった。当然、多くの批判がされた。そもそも、「平和に対する罪」という、なんとも、事後立法的な罪状は、多くの人たちに、不満を与えた一方で、むしろ
勝てば官軍負ければ賊軍
の法則によって、こうでもしないと、セケン(セカイ)は納得しないのだろう、という諦念のような感情の方が、人々には理解しやすかった。実際、戦争加害者の日本人たちは、他方において、こういった指導者によって、戦うことを強いられた側でもあり、少なからず、大衆は、そういった指導者を恨んでもいたのだろう。こういった、
裁き
は彼らの求めるものでもあった面も少なからずあったのかもしれない。
いずれにしろ、私にとって、気持ち悪いのは、この、「責任」という言葉である。
これは、なんなのだろうか? なぜ、こんな質問をするのかといえば、「罪」なら、分かるのである。やってはならない、と決めてあったことに、反する行動をしたなら、それは罪なのだろう。しかし、責任と言われると、それは、
結果
に依存している、となる。結果が上首尾で回っているうちは、
ヒーロー
なのだ。みんながチヤホヤする。ところが、結果が、どうもおもわしくなくなると、とたんに、
責任者出てこい
となる。オレがこんなヘタうったのは、お前のせいだ。どう落とし前つけてくれんだよ、と。
しかしである。結果がうまくいこうがいくまいが、その行動が、法律違反でないならば、なにものも、罪を問われるいわれはないわけだろう。
世の中には、「しょうがない」ってことはあるものだ。法律のどこを読んでも、これをやっちゃならねえ、なんて一言も書いてないなら、そのやった結果に、どうして、どうのこうの言われなければならないのか。そんなことを言うなら、「やるな」と法律に一言書けばいい。それが書いていないんだから、だれも文句ないだろ、となる。
いや。一般に「責任」と言うときは、法律で、ギルティとはなっていない場合の方が多いだろう。つまり
契約
ということで、ここにおいて、思わしくない結果には、それ相応の「保証」をしなければならない、とある場合がそうだ。
つまり、この場合、問題の焦点は、罪から契約、という個対個間「法」に移っている。契約とは、非常に狭い人間関係を、時限立法で、「法(ルール)」化することを、法によって根拠付ける、ということである(つまり、法内法)。
このように考えてくると、あることに気付く。
ようするに、邪魔なのは、この「責任」だよね。
責任を問われることは、非常にやっかいな事態だ。人はだれでも、いろいろなことをやりたい。「自由」に振舞いたい。でも
責任
を取るのは嫌だ...。

実業家も政治家も、一六世紀後半に初めて株式会社が生まれたときから、胡散臭いと眉をひそめていた。その頃一般的だったパートナーシップ(共同経営事業)では、比較的少人数の人々が忠誠心と相互信頼によって集い、元手を出し合って事業を興し、それを所有するとともに経営した。一方、株式会社では、所有と経営を分離している。取締役や管理職たちが経営に当たり、株主たちが会社を所有するのだ。この独特の仕組みは、多くの人々から堕落と醜聞の温床になると懸念されていた。アダム・スミスは『国富論』で、取締役なんて「他人の金」の番人としては信頼できないの、事業が株式会社という形を取ると「怠慢と浪費」は避けられないと警告している。実際、アダム・スミスが一七七六年にこう述べたとき、英国では株式会社が禁止されて五〇年以上も経っていた。

英国で有限責任制が導入されたときにいみじくもある国会議員がそれを難じた言葉----「[有限責任制度は]商法の第一の基本である、契約の負債は誰もが支払える限りにおいて支払わなければならないという原則を脅かすもの」----は、人々の不安を代表していた。さらに有限責任制は「限られた損失を覚悟すれば事業を初められ、それでいてその利益は無限に享受できる」ようにするので、これによって「たちが悪く軽率な投機」を助長する、との不安もあった。
こうした反対にもかかわらず、有限責任制は英国では一八五六年に、米国では一九世紀の後半(州によって時期は異なる)に、企業法に組み込まれていった。

つまり、株式会社とは、この自らが
責任
を負わなくてもいい、現代の
錬金術
としての可能性を夢見させてくれるものとして、近代社会において、徐々に浸透してきた経緯をもつ
いわくつき
の一品であるということである。
近代ポストモダン社会とは、一体、なんだったのだろうか? それは、一言で言えば、だれもが自分の行うことに責任を負わなくなる社会、と言えるのではないだろうか。それは、ニーチェが批判した、弱者支配社会と言ってもいいだろう。
あらゆることの動機は、いかにして、自らの責任を免れるか、の一点になる。日本における、救急車たらいまわし、で、
妊婦が、医者に殺される
事態の続出も、妊婦そのものが、その存在自体において、死と隣り合わせでありながら、
医者が妊婦になにかをする(医療行為)
ことに「よって」、胎児や母体の死が結果「しない」という証明が、ほぼ不可能だから、なのだろう。だったら、医者の「合理的行動」は、自らが母体と「関係しない」つまり、救急車をたらいまわしにさせて、母体を殺すこと、だということにならないか(昔から思っていることであるが、こういった問題に対する解決策は、
基金
しかないと思っている。なんらかの保険制度を作ること以外の答などない。国が関わる関わらないに関係なく)。
いずれにしろ、現代ポストモダン社会において、わざわざ、責任を引き受ける連中とは、愚者、となる。生きるとは、いかに、リスクを引き受けることなく、余生を過ごすか、である、というわけだ。
しかし、どうであろうか。
そんな、錬金術、のような「うまい話」なんて、あるのだろうか。
株式会社は、所有と経営を分離する。すると、なぜか「有限責任」だということになるらしい。しかし、それは変じゃないか。なぜか、責任が「限定」される、というのだが、そしてその理由は、お互いがそれぞれの「役割」を演じることしかできないから、というのだが、それは変だろう。だって、「責任」は責任であって、どういう形態をとろうとも、その「量」が増えたり減ったりするはずがないではないか。
ということは、どういうことなのか。
つまり、その責任を「国家が代わりに引き受けた」ということになる、法を通して。ということは、どういうことか。
私たちは、簡単に民主主義などというが、この時、なにが行われているか。
民主主義という、「民衆の意志決定」によって、民衆は、そういった、企業が引き受けることを放棄した、さまざまな「責任」を、毎回毎回、肩代わりすることを、
自分たちの
民主主義的意志決定によって、約束(責任の代行)させられている、ということなのである。本来なら、その企業が、一生かかって、償うべき、代償=責任、を、彼らとなんの関係もない、我々民衆が身銭をきって、ご奉行せねばらなん、というわけだ。
例えば、この問題を、以前、とりあげた、東さんの「一般意志2.0」なるものから考えてみたい。
その連載中の議論が、終盤に行けば行くほど、露骨に、昔の宮台さんが強調していたような、アラン・ブルーム的な、エリート主義、つまり、衆愚的な今の日本の国会の非知性への侮蔑から、
専門家だけの民主主義(つまり、貴族主義)
つまり、いかに無知な大衆を政治に「直接」関わらせないことが、国家が道を間違えない必要条件となるか、に集約していることに注意がいる(カール・シュミットの独裁であっても、それが、衆愚の反知、を免れるなら、彼の言う「民主主義」と矛盾しない、というわけだ)。
しかし、彼がこのエリート主義を「民主主義」と言いはる根拠は、エリートが「大衆への共感を忘れていない」から、となる。つまり、ツイッターなどによる、大衆の感情の「唯物論」的な記録の分析を、各専門家が
常に「手元に置いて」、
いつも、大衆の方たちのことを考えてやってますよ
というポーズを忘れずにやってくれるから、というわけだ(そういう意味では、国家官僚は「良い人たち」だ)。しかし、これって、ようするに、統計学でしょ、ただの。社会学(社会統計学)の、統計母集団として、国家はネット上のアバターの行動記録を、リアル空間の大衆のさまざまな「諸権利」の調整を、
正当化
する根拠として使える、と。つまり、国家側のオプションが増えてますよ、ってだけなんじゃないですかね。
この民主主義「革命」の特徴は、大衆を民主主義的な決定プロセスから、「隔離」する一方で、彼らの「責任」は、そのまま、残されている、ところではないだろうか。大衆は、自分で決定をしない。しかし、その決定は
一般意志
なんですから、自分たち「が」積極的に(その責任を)引き受ける。
気付かないだろうか。
非常に、「株式会社」に似ていないか。行為する人間を、いかにして、その責任から、逃れさせるか。
まさに、ポストモダン的とも言える。おそらく、今後、こういった、個人を責任から分離させるための、さまざまな、
しかけ
が、さまざまな需要とともに、雨後の竹の子のように、現れ絶えることはないだろう。

いまや「企業の最高利害関係者」原則は、たいていの国で企業法にしっかりと組み入れられており、アダム・スミスの懸念に対する回答となっている。つまり、経営の意思決定者である経営者に、会社にとって、ひいては株主にとって、もっとも有益な行動を常に取るように命じているのである。この法律は、企業にそれ以外のいかなる行動をも禁じている。それが労働者を手助けするためであれ、環境を保全するためであれ、(値下げによって)消費者の倹約を手助けするためであっても、同じである。こうした事々を、一市民としてポケット・マネーで行なうならかまわない。しかし、企業の役員、つまり他人の財産の管理人としては、それ自体の理念のためにそうした行動を取る法的権限はないのである。よしんばそうした行動を取ったとしても、それは企業自身の利害追及の手段として行なうに過ぎない。そして企業自身の利害とは、一般に株主の富を最大化することである。

企業は、株主の富を増やすため以外の行動を行うと、
法律で罰せられる。
つまり、企業は慈善事業や人助けをやってはならないのだ。企業は、タイガーマスクになってはならない。
この事実を知らない人は多いのではないか。しかし、そのことが、アダム・スミスの懸念(まさに、エンロン事件は、この結果のようにも思えるが)の一つの解決策となっているというカラクリがおもしろい。
しかし、人間万事塞翁が馬、という言葉があるように、なにが、会社のため、になるかなど、一義的なはずがない。つまり、企業は、どんどん、慈善事業をしまくっちゃえばいい。もちろん、そのことで、株主がなにを言ってこようが、無視すればいい。だって、嫌なら、株主は、その会社の株を手放せばいいだけのことだからだ。
(しかしこれについては以前もとりあげたが、アメリカが「外圧」によって、日本に「株主配当」を増やせ、と圧力をかけてきたとき、事情は変わってくる。企業の利潤が従業員の給料に回らず、株主にむしり取られるなら、それは、まさに「株主主権」であるが、もし上記の指摘が正鵠をいてるなら、つまりは、その事態は多分に「国策的」ということであり、今ある株式会社の非人間性とは、国の政策が、非人間と言ってるのと同値だということである。)
そうやって、その会社の「理念」に賛同してくれる、「サポーター」が、株主になってくれるような関係になればいいのだが(まあ、そううまくいかないから、アダム・スミスは懸念したわけですし、この事実は、「北斗の拳ファンド」の結果が証明しているようにも思えるわけですけどね...)。
もし企業が株主のものであるなら、ほりえもんは、フジテレビを買収できていただろう。しかし、企業を最初に起業したのは、経営者のアイデアであったわけし、そして、そのアイデアに賛同した人たちが、集い、共に行動した、というだけにすぎないとも言えるわけである(こう考えるなら、企業は「社員主権」となる)。
いずれにしろ、答は簡単である。
錬金術などない、ということである。
「責任」の「量」が変わることはないのだ(まさに、エネルギー保存則、そのものだ)。
本来、その責任を負うべき人がその責任を引き受ける。ニーチェの言う「強者」とは、これだけのことにすぎない。こういったことが、分明に意識される社会が、求められる未来であり、「普通」ということ、なのだろう...。

ザ・コーポレーション

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