エレン・ラペル・シェル『価格戦争は暴走する』

前回のブログで、企業は人助けをやってはいけない、と書いた。企業はタイガーマスクになれない、と。
つまり、企業人は、法律によって、「嫌な奴」を「演じる」ことを、強制されている、ということである。
もちろん、そんな外ヅラをしていたら、企業イメージを損ない、消費者に悪い印象を残してしまうのだから、
見た目上、
企業は、まるで「良い人たち」集団であるかのように振舞わなければならない。しかし、それは「外ヅラ」だけである。つまり、企業は、消費者の「ため」の集団では「ない」ということである。企業人とは、あくまで、
株主
の利益を最大化するという御題目の下に、存在することを「許された」、
有限責任的存在
だということである。以下の、厳然たる法則の前に立たされたとき、我々は、その事実の重さに、ただただ茫然とさせられる...。

  • 消費者にとってうれしいこと < 株主にとってうれしいこと

私たち企業人の、「慈善感情」は、株主利益の前には、自らの感情を「殺して」、
無私
にならなければならない、というのだ。
ここから、多くの企業人は、ある事実の、その「責任」の意味について、生涯に渡って、悩まされ続けることになる...。

”安値の時代”には、わたしたち全員が観光客の立場に立ち、ひたすら売り手の良心を当て込んで、最大限に買いたたかれた仕入値の安さの、おこぼれにあずかれることを期待する。小売業者、特に安売り業者は、抜かりなくこの信頼を裏切ってくれる。ノーベル経済学賞を受賞したジョージ・アカロフが、ある古典的な思考実験でこの問題をわかりやすく説明する。高品質の牛乳が1クォートにつき1ドルで、水で薄めた牛乳が1クォートにつき60セントで卸売りされているとする。標準的な買い手なら、水で薄めた牛乳には80セント、薄めない牛乳には1ドル20セントまで出してもいいと考えるだろう。どちらの牛乳についても、商取引から双方が利益を得る。買い手も売り手も自分が何を手に入れようとしているのかを知っていて、双方が最終的に、公正と見なえる取引をしたことになる。ところが、客の側が商品の質を見きわめられない立場に置かれた場合、どちらの等級の牛乳も同じ値段----1クォート90セント前後----で売られるはずだ。そういう仕組みのもとでは、薄めていない牛乳を売る誠実な仲買人は破産し、水で薄めた牛乳を売る不実な仲買人は懐を肥やす。から、理の当然として、生き残りを図る商人たちはみんな、牛乳を水で薄めて利幅を大きくするようになり、消費者のほうは得な買い物をしたつもりが、じつは粗悪品をつかまされてしまう。経済学者はこれをグレシャムの法則と呼ぶが、その名の由来となったサー・トーマス・グレシャムは16世紀の商人で、エリザベス女王を説き伏せて、下落したイギリス通貨の価値を回復させた。グレシャムの法則の最も重要な原理、”悪貨は良貨を駆逐する”というものだ。

普通に考えるならば、値段が安いということは、質が悪い、と同じであろう。しかし、一般大衆は、そのように考えない。値段が安いということは、
お得
だと考える。なぜ、貧乏もいいところの自分が、そんなモノを買えたのかを問うことはない(自尊心が邪魔して、考えたくないのだろう)。そうやって家の中が、モノであふれることは、リッチになったことの象徴のように思う。お金持ちの人の家にあって、うらやましかったモノが、とうとう家(うち)にも来たのだ、お祝いをしなきゃ。
しかし、それだけでは終わらない。モノの値段が
下がる
ということが、なにを意味しているか。小売をやっている人たちは、このことを想像するだけで、眠れない日々が続くだろう。自分が売っている商品と、「同じ」と「自称」する商品を、ある日、自分の家の隣で、だれかが
半額
で売り始めたら、どうなるか。値段を下げることは、まさに
チキン・レース
だ。たとえ値段を下げることによって、以前と同じ数をさばけたとしても、その価格差を、どこで補填するか。自分の給料を下げるのか。しかし、それにも限界があるだろう。自分だって生活がかかっているのだ。むしろ、そんなことになったら、なんのために働いてるのかも分からなくなるではないか。
背に腹は変えられない。
サービスの質を落とすしかない。それしかない。しかし、なぜ「これ」だけは通用するのか。
消費者がバカだから。
どうせ、味の分からない、大衆には、水で薄めた牛乳かそうでないかなんて、分かるわけがない。分からないのは、貧乏人がバカだからであって、バカがバカなことが悪いに決まってる。
自己責任。
ところが、話はこれで終わらない。バカは別に貧乏人に限らない。みんなバカなのだ。見ただけじゃ、これがバッタモンか掘り出しモンかなんて分かるわけがない。しかし困ったことに、ということは、
売りモノは、みんなバッタモン
になっちゃうんですよねー。つまり、
悪貨は良貨を駆逐する。

ワナメイカーの時代には、価格は固定されておらず流動的で、事情通は古代のバザールのように値切った。世事にうといか、売り手に嫌われた者は、より多く支払った。ワナメイカーはそういう格差をなくすために、不朽の発明品と言ってもよいもの、すなわち値札を考案した。商品にぶら下がった、このちっぽけな紙切れは、貧者も王様も、消息通も世間知らずも、理屈のうえでは万人が等しく支払えばよいように価格を固定することで、小売の歴史に消えることのない足跡を残した。

よく考えると、定価とは変だ。だって、その商品をそれぞれの人が手にしている段階で、そもそも、「そのため」にかかっているコストが違うはずだからである。いや。それだけじゃない。そもそも、なんで、同じじゃなきゃならないのか。よく考えると、その合理的理由は思いつかない。
手塚治虫のマンガ「ブラックジャック」で、ブラックジャックは医者でありながら、お金持ちに対しては、たんまりと報酬を要求する一方、貧しい大衆には、彼らの心意気をくんで、手心を加える。これがおかしいと言うためには、そもそも、定価という観念が確立していなければならない。
定価があるということは、売る側が、買う側に、値段をふっかけることができない、ことを意味するだろう。つまり、さらなる「低価格競争」に拍車をかけることになる。

バーコードのおかげで顧客の好みが”リアルタイム”で把握可能となった安売り業者は、売れ行きのいい品と悪い品とを速やかに分別し、商品の発注を微調整できるようになった。倉庫でくすぶる商品が少なくなれば、不動産コストや手数料が削減され、在庫の回転率が上がり、その結果、資本の流れがよくなる。

小売の最大の仕事といわれていた、在庫管理が「なくなる」というんだから、おかしな時代だ(たしかに、どこの本屋も、つまらんベストセラーしか店頭に置かなくなる)。
そもそも、テクノロジーの向上は、さまざまな労働コストを「中抜き」可能にする、錬金術だ。人がいらなくなるということは、最もコストのかかる、労働者と関係することなく企業活動を行えるということで、
いくらでも安くできる。
安くしたって、儲けは、いくらでも生まれる。だって、労働者という「金食い虫」に払わなくていいっていうんだから。しかし、それって「誰の話」? 必要のなくなった労働者って、あんたのことなんでしょ? じゃあどーすんの? どこもいらないって言ってるようですけど?

アメリカ人は、中国の製造向上で作られる汚染ドッグフードや破裂するタイヤ等、危険な商品を好んではいない。意図的にタンパク質の含有量を増やすためにメラミンを混入した牛乳と、何も混ざっていない牛乳なら、後者を選ぶ。また、含鉛塗料を子どものおもちゃにスプレーすることを容認してもいない。それなのに、一連の問題の原因の解決策にじっくりと目を向けるどころか、ますます無関心になっている。

安い。
それは、一体、何を意味しているのか。よく考える必要がある。それが「それ」として安いということが意味することとは何なのか。近年話題になった、中国製造の子供用のオモチャ、いっつも、あかちゃんが、噛んだり舐めたりするもの、が毒物でコーティングされてた、っていうんだろう。
中国産の粉ミルクで育った赤ん坊が、異常な障害にみまわれたり、ちょっと信じられない事態に思うかもしれないが、そもそも、
そこで何が行われているのか
そのこと自体を、私たち「想像」できるんですか? なんにも知らないんでしょ? 問題は、そういう「想像すら及ばない」ところの「そういうもの」を平気で買っているというメンタリティの方じゃないんですかね。

中国では、労働者の要求があまりに多いと、工場はあっさり内陸部へ移転する。

「何が起きているのかと言うと、地方の政府が海外の投資家と結託して、分譲住宅や工場を建設している、つまり事実上、土地を盗んでいるのです」とリーィンガーは言う。土地の接収は”公共の目的”でのみ実施していいことになっているが、この規則は守られていない。

在上海米国商工会議所(AmCham)と米中ビジネス協議会は、公的には中国の改革を支持しているが、裏では猛烈な反対運動を行なっている。2006年3月に中国政府が意義深い改革を提案したちょうど一ヶ月後、AmChamは、42ページに及ぶ文書を中国政府に送りつけた。<マイクロソフト>、<ウォルマート>、<デルコンピュー>、<グーグル>、<ユーピーエス>、<ナイキ>、<AT&T>、<フォード>、<インテル>など1300のメンバーの代表として、中国が”厳格な”規定と呼ぶものの見直しと取り消しを迫ったのだ。中でも、労働者の解雇に関する規制や、いわゆる派遣労働者の複数年度契約にもとづく雇用を規制する内容に強い反対の意を表明した。また、法的拘束力がある雇用契約を常勤者と締結して、最低賃金の適時支払いを保証することにも異を唱えた。一連の改革案は、中国ではとりわけ重大な意味を持つ。というのも、個人契約にしろ集団契約にしろ、書面による労働契約の締結が労働法の前提となっているからだ。理論上は、中国の労働者はすべて雇用契約を結ぶよう義務づけられているが、現実には、おびただしい数の労働者----特に出稼ぎ労働者----が搾取と酷使の格好の標的になっている。書面の契約がないと、労働者は雇用されているという証拠を持たず、雇用者はあっさりと雇用契約の存在を否定できてしまう。

(非人間的な環境にあることを強いられ生きるしなかったような人たちが、提供するモノを、どうして人間的に信頼できるというのだろう)。
マルクスが活躍した時代のイギリスは、まさに、資本主義的な問題が顕在化し始めた時代であり、それから何十年とかけて、現在の先進国には、まがりなりにも、労働者保護の福祉政策が確立してきた。ところが、こういった、先進国の大企業は、国内の高コスト労働者を雇わずに、海外の、まだ
マルクスがイギリスを見て警告した労働者保護規制
が確立していない発展途上国で、「マルクスが言っていた労働者搾取」をやろう、っていうわけだろう。しかも、そういった国々が、
一人前の国
になろうとする努力を、
邪魔
する。そりゃあ、そういった国々が、アナーキーなままの方が、もうかりますからねー。
戦前の日本に住んで、安穏としていた日本人に、当時の関東軍が中国本土でなにをやっていたのかを、まったく知らず、関心もなかったように、今の先進国の大企業が中国本土でなにをやっているのかを、今の先進国の人々は知らないし興味もなく、ただ、安い商品をかきあさる。
結局、この問題のポイントはどこなのか。どうしてもこの「フラット」な、価値観が私には気持ち悪い。自分から遠く離れれば離れるほど、自分の想像を超え、そこで何が行われているのかを考えられなくなっていくのは、しょうがないことではないのだろうか。自分で自分の身を守ると考えたとき、そういった遠くから、はるばる運ばれてきたものに、警戒を抱くのは、当然のことのように思える。
いつも身近にいて、毎日、相手の顔を見て、世間話もしながら、時には、家族同士のつきあいまでして、相手の家に晩御飯を食べに行くくらいになって、やっと「信頼」のある関係と言えるのかもしれない。
そういった信頼できる人の作ったものであるなら、自分のことを考えて、いろいろ心配して、気配りをしてくれるのではないか。その道の専門家なら、なおさら、私の日々の生活習慣を考えて、危険なものが口に入らないように、想像して注意してくれるだろう。
高いか安いかではない。それが自分が生きていくうえで、かけがえのない「関係性」が必然的に自分が持つ事態をもたらすような
縁(えにし)
のあるものなのか、が大事なのであって、いくら安くとも、海のものとも山のものとも、つかないモノと、関係をもつべきかどうかに注意するのは、当然のことに思われる(ポストモダン消費社会の、マーケティング戦略の非人間性が、ソーシャルネット社会の進展と共に、反省される、その方向が、内需。人とモノとの関係が、より「地域」や「友達」、つまり、「近接性」を重視していくような、ビジネスモデルが賞賛されることこそが、あるべき方向に思われるのだが...)。

価格戦争は暴走する

価格戦争は暴走する