三浦展『これからの日本のために「シェア」の話をしよう』

資本主義は、「自明」なのか?
こんな問題提起は過激だろうか。たとえば、資本主義において、当然、この「運動」のドライブを加速させるのは、「交換」である。

  • 商品:売り手 --> 買い手
  • お金:買い手 --> 売り手

さて、商品を売って、お金を手にした売り手は、そのお金をどうするのか。もちろん、
買う。
なにかを買う。この関係を、このお金の移動を中心に眺めたとき、目が眩むような、世界が生まれる。

  • お金:人A --> 人B --> 人C --> 人D --> 人E --> 人F --> ...

お金は常に、どこまでも移動する。移動し続ける。この移動が激しければ激しいほど、お金が天下を回っていることになり、景気のバロメーターと考えられたりもする。
他方、である。前者の「商品」の方は、なにをやってるのだろう?
だって、この後者をドライブさせた、張本人のはずなのに、どうして、だれも注目しないのだろうか? そう考えると、あまりにも対照的なまでにスタティックな様相を示している。

  • 商品 ∈ 買い手

(ただし、「∈」とは、集合の元(要素)をあらわす記号で、「所属している」ことを意味する)。
これが、いわゆる「所有権」である。資本主義をドライブさせるのは、この「所有」というアイデアに関係している。森羅万象。この世のあらゆる、よしなしごとは、すべて、
だれかのもの
であると考えてみよう。そうすると、なにが起きるか。
市場
が生まれるのだ。だれかのものであるなら、その人には二つのオプションが存在することになる。

  • 売る
  • 所有し続ける

その人が「所有」するあらゆるモノについて、このオプションが存在する。こう考えたとき、次の思考のステップを進めるとしたとき、どうなるか。
今ここ、において、すべての所有物にたいして、上記のどちらを選ぶか、の行動選択のオプションがある、ということになるだろう。
この辺りから、「功利主義」的な、
自称「経済学」
的おしゃべりが始まる。上記オプションのうち、一番儲かる選択はなにか「計算」してやろう。しかし、である。その計算のために、うず高く積まれる「仮説」の山は、はるかに、部屋中を埋め尽し、さて、私はなんのために、こんなに頭を使ってたのかな。
この話が「嘘くさい」のは、上記の「所有」という、
神学
だ。それは「俺のモノ」というそいつは、一体、誰の許しを得て、そんなことをのたまっているのか。つまり、
国家
だ。国家が、そういう手続きを経て、お前の手元にあるのなら、お前が所有権を主張していい、と保障したから、にすぎない。
このことを逆に考えてみよう。
ある日、国家が、こう、のたまい始める、としよう。
お前の体は、今日この日、この時から、お前のモノではなく、別の人のモノになることになったからね。よろしく。
地球上の、あらゆる水から空気から、すべての物体は、我が国に燦然と輝く、おそれおおくもかしこみかしこみもうす、アマテラスオオミカミ様が、作られたのだから、当然、その子孫であらせられる、今生天皇様のモノとなるだろうな(もし、天皇がアマテラスの子孫だとするなら、日本中にたくさんの、アマテラスの子孫がいることになるだろうが)。
つまり、なんだ。
所有
とは、「強制」のことなわけだ。もう一度、その関係に注目してみよう。

  • 商品 ∈ 買い手

ということは、その商品は、嫌だろうがなんだろうが、国家の帳簿上、そいつのものと記帳されている、ということを意味する。
ということは、二のことを意味する。

  • それを所有していることによって派生する権利を行使する権利が生まれる。
  • それを所有していることによって派生する義務を受ける責任が生まれる。

たとえば、近年、テレビなどの大型不燃物は、ゴミとして勝手に回収していってくれない。お金を払わないと持って行ってくれない。勝手に、そのへんに捨てようものなら、刑務所につかまえられる。

  • 義務:国家 --> 買い手
  • 権利:国家 --> 買い手

ここで、はたと考えるわけである。これを自分が今持ってるんだけど、その持っているということは、「ハッピーなのかな」。物を持つということによって、逆に自分を面倒くさいトラブルに巻き込んじゃいないかな。
この問題をもっとラディカルにしてみよう。たとえば、ある日、国家が「ある一定額以上のお金を持っている人は、その分のお金を、日本中の貧乏人に、ある日までにあげなければならない」、と決定したとしましょう。しかも、そのルールを達成できなかったら、高額な税金を課す、と。すると、今、お金を持っていることが、喫緊で「やらなければいけない」タスクを生むわけで、余計な仕事をしなければならない、
面倒くさい
事態になっている、と考えられるだろう。つまり、所有する、ということは、なにか。
その物との、ある関係、を国家によって、認定される、ということを意味するにすぎない、ということである。
つまり、ここに、「アンビバレント」な関係が存在することが見えてくる。

  • 所有することの利点
  • 所有することの欠点

この二つを「どちらかを選べない」。両方引き受けるか、両方引き受けないか、どちらかしかないわけだ。
しかし、そうなのだろうか。たとえば、空を見上げれば、さんさんと太陽光が降り注ぎ、雨が降り、水が天から降ってきて、田畑に恵んでくれ、食糧が実る。そもそも、私たちは空気がなければ生きられないのに、人間の生活圏においては、常に空気は、私たちをとりかこみ、
勝手に
鼻から入ってくる。ここでも、ある日、国家はこんな無理難題を命令したとしよう。
我が国の国民は空気を吸ってはならない。なぜなら、今日、この日から、日本中を覆う空気は、国家のものと決定したからだ。よって、空気を吸いたければ、国にお金を「支払え」。
所有権 = 市場
を、なぜ私は、
神学
と呼んだのか。リチャード・ローティが言うように、これは、
言語
の問題だからだ。なんにせよ、すべてのモノは、ひとたび、文節化されたとたん、弁証法によって、
市場化
される。すべての「文章であらわせるもの」は、資本主義的「所有」の対象になるのだ。人の「心」は買えるのか? 二酸化炭素の排出権が買えるくらいですから、買えるんでしょーねー。
つまり、こうだ。
言語(文系) = 神学 = 市場 = 病気
そもそも、商品が「ある」などと言い始めたこと自体が、人間が言葉を話すなどという、ずいぶんとけったいな行動を行うようになったことに(必然的に)由来する、
病気
なのであって、なんら、自然法則でもなんでもないわけだ。
つまり、そもそもここで問われていたのは、「所有」という、あまりにも、スタティックなイデオロギーについてだった。
たとえば、こんなふうに考えるところから始めてみよう。

  • 商品X ∈ 人A :30%
  • 商品X ∈ 人B :60%
  • 商品X ∈ 国家C :6%
  • 商品X ∈ 人類D :3%

Aさんは、その商品を「持っている」。しかし、だからといって、それを所有していることの「すべての責任」をAさんが背負わなくてもいいんじゃね、ってくらいに持っている、と考えるのだ。
Aさんは「そんなに」持ってない。Aさんよりそれを「もっと」持っているのが、Bさん、だ。つまり、Bさんの方が、それを所有しているがゆえの「責任」が大きい関係になっている。しかし、それにしても、この二人だけが、これを所有しているがゆえの、責任を背負わなければんらないわけでもない。6%くらいなら、それを、そいつらに持つことを許した、国家自身に責任があるんでしょーねー。いやいや、3%くらいなら、人類が生みだしたモノに対する責任は、人類みんなで背負わなならんでしょう。
この関係をさらに進めてやろう。

  • 商品X ∈ 人A :たぶん30%くらいかもね。
  • 商品X ∈ 人B :たぶん60%くらいかもね。
  • 商品X ∈ 国家C :たぶん6%くらいかもね。
  • 商品X ∈ 人類D :たぶん3%くらいかもね。

私たちは、しょせん、有限の存在であり、常に我々が所持する情報は有限である。そういった「確率過程」によってしか、私たちは生きることはできない。今ある情報それぞれの「確実度」を忖度すると、だいたい、こんなとこですかねー。
人生は「ファジー」だ。
森毅がいつも言ってたではないか。

  • 間違ったっていいじゃないか。
  • いいかげんがちょうどいい。

ちゃぶ台をかこんで、みんなで食事をしていたとしよう。子供たちは、おかずの取り合いをしている。たまたま、あるおかずが、最後に一個だけ残ったとしよう。
これは「だれのモノ」か?
いーんじゃない。先に箸を伸ばした奴が食えば。
おそらく、こういった「複雑系」が、その合理性のもとに、近未来において、浸透してくるのではないか、というアイデアが掲題の本が提唱する「シェア」を私は考える。
(たとえば、なぜ、上記のようなアイデアを、大学でやってるような「数理経済学」が真面目にとりあわないかと考えると、
あまりに複雑すぎて計算に乗らない
から、と考えられるだろう。経済学の数式は非常に「美しい」までに単純化することに、おもしろさがあるわけで、複雑な過程は(彼らの頭の中だけのルールによって)「ルール違反」なのだ。)
たとえば、車が好きな人なら、
今まで発売された「すべて」の車に乗ってみたいな
と思ったとするだろう。もし、それを、

  • すべての車 ∈ 人A :100%(i.e. すべての車を、オークションで買いあさる)

としようとしたら絶望的かもしれないが、

  • すべての車 ∈ 人A :5%(i.e. 各一台づつ、一時間だけ、試乗させてもらう)

とするなら、俄然、現実味がでてこないか。
人間の労働形態もそうだ。

  • 人A ∈ 会社X :100%(i.e. その会社の、正社員として、新卒から、定年まで勤めあげる)

しかし、どうだろう。もっと「あいまい」な、なんだかわけのわかんない関係が、より進むとは思えないだろうか。

  • 人A ∈ 会社X :5%? (i.e. どーも彼。たまに、あの会社に顔を出してるみたいなんだけど、なんで彼。ここにいるんでしたっけ?)
  • 人A ∈ 大学Y :5%? (i.e. 彼。仕事しながら、たまに、大学に行って講義を受けてるみたいだけど、よーそんな暇あるな。なにしてる人?)
  • 人A ∈ 近くの畑:5%? (i.e. 彼、たまに、畑仕事をしてる所を見掛けるよ。毎日じゃないけど。楽しそーだわー。)
  • 人A ∈ ネットでシェアウェアを作成・販売:5%? (i.e. 暇なとき作った、アプリが、けっこう儲かってるみたい。へー、儲かることもあるんだ...)
  • 人A ∈ ひたすら寝る:5%? (i.e. 説明不要...)

...
うーん。ようするに、あんた何してる人? よーわからんけど、人間なんて、そんなもんでしょう。そいつは「何者」だと名指してる時点で、さまざまな夾雑物を排除して、単純化してみた、ってだけですからね。
非常に、「ゆるーい」所有概念が、人々に普通に浸透していくようになり、各自のアイデンティティも「ゆるーい」感じになっていく。
もし、その方が「さまざまな」人々自身の、感覚(快楽)の
微調整
が可能になるのであれば、どんどんと、こういった方向に進むのかもしれない。
たとえば、お年寄りは、ただでさえ、年金が減らされて、そんなに貯金もしていなかった人たちは、なかなか生活も大変かもしれない。
じゃー。もう。この際。人生の最後のイベントだと思って、あらゆる老人が「老人特区」を作って、みんなで、そこに、東京ドームみたいな、でかい家を作り、みんなで、みんなが持っているものを持ち寄って、
なんとなく皆で使い回す
ことにしたとしよう。自分の知らないだれかが自分のものを使ってたって、どーせ、自分。いい歳だし、いずれ死ぬんだし。
ま。いーや。
俺も、どっかのだれかのなんか、勝手に借りちゃお。
そんな感じで、ゆるーく、みんながだれかのなにかを借りてるんだけど、つまり、そうやって「借りる」ことで、
今までやりたかったこと
がみんな。実現できちゃうんですよね。これってなに?
みんなハッピーじゃん。
さて。問題は、こういった条件を「成立させる」その基盤となるインフラ的関係とは、どういったアイデアなのか、となるだろう。

他方、本書が取り上げるさまざまな事例のように、近年、わが国の社会では、個人と個人をつなぐさまざま活動が見られるようになった。それはかつての共同体とは違う共異体である。それは、

成員が固定的でなく、束縛されない
空間的に束縛されない
時間的に限定的である
共異体同士は排除し合わず、競争しない

という特徴を持っている。
成員が固定的でないという意味は、たとえばある活動をしている人が、その活動に専念しているわけではなく、収入を稼ぐ仕事は別にしているとか、主婦が家事の合間にしている、といっケースが多いということである。誰もが、協力できる人が協力できる時にする、といった原理で動いている。NPOなどはそういうことが非常に多い。

たとえば、これを「家に帰る」毎日の行動に考えてみよう。
なぜ家に帰るのか。
いーじゃないか。その辺で寝れば。なぜそうしないかについて、よく考えると、あまり合理的な理由も思いつかない。何時間もかけて、家に帰ったって、置いてあるものも、いつも同じだし、少し、飽きませんか。その辺の家に泊めてもらいましょう。
シェア
させてもらいましょう。夕御飯をごちそうになって、ちょっぴり人の暖かさにもふれて、
ふらふらふらふら。
いーじゃない。どこで寝たって。もともと、日本の大地はどこだって、だれかのモノだったわけじゃない。縄文人なら、好きなときに好きなところで寝てたのだろうしね、きっと。

これからの日本のために 「シェア」の話をしよう

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