荻上チキ『社会的な身体』

多くの人々が生まれてから、今ここに至って、あらためて、大きな「いらだち」とともに考えていることは、
なぜ「生きづらい」のか
であろう。
セカイは進歩する。それは、さまざまなテクノロジーの発展とともに、さまざまな商品が生まれていることからも、了解されるであろう。であるなら、もっと人々は生きることが、たやすくなってもいいのではと思うところであるが、どうもそうなっていない。
若者は、仕事が決まらず、何度も何度も面接を行って、落とされ、心を傷付けられて、年寄りは、若い頃の不摂生がたたり、年金も少なく、将来どこまで貧乏のどん底まで落ちていくのかに、おびえている。
よく考えてみれば、あなたの会社にわざわざ入りたい、貢献したいと言って来てくれているわけですよね。こんなありがたい話が、ほかにあるだろうか。たとえば、ある事件によって、その会社が非常に社会的な信用を失墜し、批判にさらされ、業績も落ちこみ、まさに風前の黄昏時を迎えていたとしよう。今にも、この会社、倒産してもおかしくない。そうした場合でも、それでもこの会社に入って貢献したいと来てくれる若者がいたら、どう思うであろうか。本当に気持ちだけでもありがたい、と思わないだろうか。
お年寄りにしてもそうだ。彼らは、この日本の今まで、さまざまに貢献してくれて、日本を先進国として、ここまで、ひっぱってきてくれたわけだ。もっと感謝の気持ちが沸き上がってきてもいいように思える。もっと、社会が一丸となって、お年寄りに、今までの献身的な活動に報いようと、恩返しがしたいと思って不思議ではないように思う。
つまり、なぜ、彼らはそんなにまで「つらそう」なのか。なぜ、そんなことになるのか。
どうも変なのだ。私たちは、本当は、なにか大きな誤解にとらわれて、ずっと夢から醒めていないのかもしれない。
なぜ、生きにくいのか。なにに「強いられているのか」。なぜ、この「生きにくさ」は「進歩」しないのか。
この問題の最も分かりやすい例題こそ、この前とりあげた、ATM問題のように思う。なぜ、ATMが、深夜、手数料を、ぼったくり続ける、などということが起きるのか。
まず、銀行業は、許認可制であり、だれでもできるわけではない。次に、全国の各地にATMをもてるのは、大きな銀行だろう(最近はコンビニでも、おろせるが、これも、大手でありかつ、手数料をとられる)。
つまり、以下のトライアングルが成立していることが分かる。

  • 便利 - 独占 - 手数料ぼったくり

人々は、社会がより「便利」な方向に向かうと思って未来を夢みてきた。ところが、社会を「便利」にできることが分かっていながら、
やらない
のだ。その「便利」を、人々に解放しない。なぜなら、「便利」は、
金の成る木
だからだ。ATMでいえば、銀行業が、完全な許認可制であり、その独占的な立場を利用して、マシンの設置を行っておきながら、ひとたび、独占状態を手にしたら「こっちのもの」。どんなに市民が、これを自由に使えたら便利だろーなーと思っても、
使わせない。
理屈なら、なんとでもつけられる。いやー。あの、ATM。設置するだけで、すごいお金かかってんですよー。専門家じゃないと分かんないでしょーがねー。その元をとんの大変なんだわー。
しかし。普通に考えるなら、元なんか、すぐに取り終わるだろう。だって使うだけでどんどんお金を引かれるんですからね。あっという間に、
貯金の利子など消えて無くなる。
それでも、いろいろ、屁理屈つければ、なんだって、いくらだって、お金が必要ってことで。まーだまだ、こんなもんじゃ足りないって言ってるだろ、ボケが。
(一応、バランスを考慮して、付け加えておくと、例えば、今後、あらゆる、取引において、現金決済が無くなる場合を考えてみよう。今どき、カードリーダーなんて、安く売ってる。パソコンのない店もほとんどないでしょうから、ぜんぶ、スイカとか、そういった、
電子マネー
でどこもかしこも、取引するようになる「時代」が、もう目の前に来ている、と考えるなら、ATMを誰も使わなくなるわけで、そうなったとき、維持費名目で、それ位の手数料もありうるのかもしれない。)
よく考えてみると、世の中、こういったカラクリって多いように思う。検索サイトとして、それ行けググるたん、が完全に独占したとき、どうして、
検索一回手数料100円
です、とか始めないと言えるだろう。ミクシユーザが完全に、フェイスブックにとりこまれ、世界中のネットがフェイスブックしかなくなったとき、
友達一人100円
つぶやき一回100円
いいね一回100円
やだね一回100円
お前の顔なんて二度と見たくない一回100円
お兄ちゃんなんて全然好きじゃないんだからね一回100円
ブロック一回100円
見送り一回100円
バント一回100円
振り逃げ一回100円
隠し玉一回100円
オフサイド一回100円
ログイン一回100円
ログアウト一回100円
...
とどうして言い始めないと言えるだろう(電子書籍を、キンドルしか扱ってなかった頃は、アマゾンでの販売手数料をものすごい割合にしていたが、同じようなことだろう。また、高速道路無料化で新幹線が急に安くなるみたいな話も、「なんだやれるんじゃん」と思ってしまう)。
人々が、「自由競争」を信仰すればするほど、価格の逓減が、きっと「進歩」するはずと思いがちだ。しかし、往々にして、そうならない。なぜか。その市場自体が、非常に、
公共的財産
の特徴があるため、どうしても寡占状態を脱却できないからだ。たとえば、下水道設備は幾つも必要だろうか。電気を配送するインフラは幾つも平行して必要か。警察や裁判所や軍隊は「幾つも」必要か。自地域を複数の「国家」が覆い、競争している必要はあるだろうか。
しかし、である。
一つでいいや、と「あきらめた」時点で、それは
寡占状態
なのであって、先ほど言ったトライアングルが「必然的に」走り出す。

  • 便利 - 独占 - 手数料ぼったくり

そうであるなら、「普通に」考えるならば、

  • 便利 - 独占

の「仕分け」が必要に思うわけである。

  • 便利 - 独占:しょーがない

これをたとえ認めたとしても、

  • 便利 - 独占:お金のない人にとっても、自由に使えるなら、非常に生活が快適になる
  • 便利 - 独占:お金のない人はそれほど使わない

こういう区別はあるはずである。そして、そう考えるなら、前者を「手数料ぼったくり」することは、
このセカイをみんなで便利で「生きやすい」社会にしていこう、という「進歩」史観に「敵対」する行為
だと言えないだろうか。独占的地位を利用して、社会の進歩を「わざと邪魔する」...。
掲題の著者は、現代の特徴を考える上で、まず、
メディア
という言葉に注目する。

現代人は常日頃、様々なメディアに触れている。テレビ、新聞、ラジオ、雑誌、書籍、ポスター、パソコン、ケータイ、映画、手紙、標識、電光掲示板。数多くのメディアを使いこなすことで、情報を管理し、状況を判断し、人と交流し、目的を果たし、娯楽を享受い、様々な利便を得ている。それと同時に、メディアを通じて、メディアそのものについても頻繁に語り合っている。

そもそもメディアは人々の欲望を叶えるため、社会に登場し、定着していく。単に「もともとあった欲望」を満たすためではなく、新たな欲望を植え付け、発展させていく。個人の振る舞いを変えると同時に、社会が個人に期待するもの、個人が他者と世界に期待するものも変えていく。
例えばそろばんや電卓、コンピュータなどを使うことによって、人はより簡便で、高度な計算能力を手に入れてきた。文字や数字を獲得し、情報として記録するために紙や電子媒体を獲得することで、自らの身体的限界を超えて、膨大な情報を蓄積し、共有することを可能にした。

著者の言う「メディア」とは、私たちの日々の生活において「取り囲んでいる」もののことである。取り囲んでいる、とはどういうことか。常に、私たちとシームレスになっていることを意味する。

  • 情報:人間 --> メディア
  • 情報:メディア --> 人間

もし、メディアをこういった我々自身と切っても切れない関係にあるものと考えるなら、この際、メディアを
私たち自身の一部
と考えてしまおう、ということなのである。

つまり比喩的に言えば私たちの身体は、メディアを通じて新しい「身体能力」を獲得していくかのようだ。しかしそれは言うまでもなく、私たちの「生物的身体」が「進化」(あるいは「退化」)していくことではない。自分が可能な振る舞いを変容させ、他人の振る舞いに対する予期を変容させ、社会制度を変容させるといった形で、メディアは「社会的身体」のあり方を解体/構築していくのだ。

私たちがあるコミュニケーション環境に適応するためには、様々な作法や慣習を身につけたり、いくつかのメディアを、特定の仕方で使いこなせるようになることを求められる。かつての日本であれば、ある階層には書道の能力、そろばんの能力、武道の能力、和装を着こなす能力が自明であった(として語られる)。しかし、現代の一般企業が「社会人として」求める能力は、ブラインドタッチ、ネクタイの締め方、電話応対、名刺交換の方法、ワードにエクセルの操作、携帯電話の電源を常に入れていることであって、責任を取るために腹を切ることではない。

私たちの日々の作法は、こういった「メディア」と深く関わって存在している。一般に考えて、こういった関係が、今後、切断されることは、よほどのことでもない限り、起きないだろう(例えば、石油文明の終焉のような)。
なぜなら。たとえ起きたとしても、その形態は、「アップグレード」的な方向とならざるをえないからだ。
ケータイを買い代えるとき、今まで自分が便利だと思っていたものが、使えなくなることを分かった上で、それでも代えようと思うことは、難しい。
一度身に付けた、行動規範を手放すことを、
主体的に
行うことは「抵抗」なしにありえない。ということは、こういうことが起きると予想することは現実的でない、ということを意味する。利便性、便利をあきらめることは、かなり高いハードルとなる。

このように、ひとたび特定のメディアが社会的身体化されると、その利用はすでに社会的に埋め込まれた「約束」になる。私たちはその「メディアによって拡張された能力」を簡単には手放すことはできない。新しい身体に何か「問題」が起こったとしても、その身体をダウングレードして「裸」の状態になるのではなく、さらにアップグレードすること、あるいは何か代替のメディアを構築することによって対処されていくことが望まれる。

掲題の著者の言う「社会的身体」は、私が昔検討した、「生活圏」の考えにどこか似ている。私たちは、毎日同じケータイを同じように使う。あいも変わらず。毎日毎日。そして、おそらく、明日も明後日も、来月も、一年後もそうしているだろう。そして実際にそうなる。
つまり、これだけ、いつもいつも、自分と一緒に身体の一部のように関わり続けるということは、それだけ、そのケータイは
自分なのだ。
こうやって一瞬一瞬、インタラクティブに、相互作用を及ぼし合っているものと自分を、区別することに、なんの意味があるか。基本一体として考えるべき、ということである。
私が、以前、「生活圏」という言葉を使ったときの基本のアイデアは、独我論的なものだった。結局、私たちは日々、感覚している。そして、その毎日の感覚は、恐しいくらいに「似ている」。同じようなことを、毎日毎日、あきもせず、反復している。実際にそうなのだからしょうがない。そう考えてくると、この一連の通時的過程を眺めたとき、その人の「定義」に、そういった何度も反復される行動作法を含めないことは、ありえないわけで、そう考えるなら、
それらの一連の作法
と彼を「区別」すること自体に、意味がなくなっていく。その人とそれらの作法に、これほどの濃密な関係があるのなら、その作法はその人の「一部」と言うべきなんじゃないか、となる。
もっと言えば、彼が毎日眺めている光景。毎日通る道。日の光。暖かく吹き過ぎる風。こういったものでさえ、なぜ彼と「区別」しなければならないのか、と言いたくさえなる。彼が今こうあることと、そういったものの、その姿には、一つの
同時的な
平行性があるわけで、そうであるなら、お互いを
区別しない
で、それらさえも彼の「中」のものとすることに、一定の合理性があると言いたくなるわけだ。
これをもっと突き詰めると、独我論になる。この世界は「私が生み出した」。このセカイとは「自分」なのだ。いや。自分がセカイだと言ってもいい。私の主張の力点は、こういった考えを、上記のような、
近接性
の延長で考えようというところにある。
いずれにしろ、なぜ掲題の著者は、この社会的身体というアイデアをあらためてここで整理しているのか。そうすることによって、どのような考えを相対化しようとしているのか、この辺りの考察を行っている場所が「ノート 「情報思想」の更新のために」、という章のようである。

「情報思想」について議論する場では、次のような「物語」が一定の効力を持っている。情報技術の発達等により、この社会は「規律訓練型」の(権力を求める)社会から、「環境管理型」の(権力を求める)社会に変化した。そうした「新しい社会」では、「アーキテクチャ」、すなわち社会的に埋め込まれた様々な「コード」の「設計」如何によって、人々を特定の仕方へとコントロールする匿名的な権力が肥大化しうる一方、「人間らしさ」の概念が変容し、コミュニケーション能力が要求される領域は縮減しつつある。そこでは人々が「人間らしく」振る舞わなくても、相応に社会が駆動することが期待されるようになり、実際人々は「思考」をシステムに委ね、ますますエコーチェンバー(社会認識の言説の棲み分けの徹底)に閉じこもるようになっている----。

たとえば、今後クラウドがより普及することになるだろう。これは、「自分の身体」なのだろうか。当然そうなる。しかし、その「身体」は、言いえて妙だ。例えば、ケータイであれば、一つの物質として自分が触っていれば、重さを感じる。ところが、クラウドは、自分と直接に「繋がっていない」。しかし、クラウドがなければ、私たちが求める情報は、自分まで届かない。つまり、
自分(の身体)が「ない」。
例えば、近年でも、フェイスブックやブログなどで、サイト管理者がさまざまな、機能変更を行うと、利用者から、非難ごうごうで、変更前の状態に戻すということが起きる。
このことは、大変、示唆的だ。そもそも、なぜ、クラウドは一般ユーザーに公開されるのか。私たち利用者は、結果として便利であれば、それ以上、深く考えつめることはない。気軽に始められるし、大変便利な機能がテンコ盛りであるわけだし、利用しない理由がない。
ところが、このサービス提供者にとっては、どうだろうか。

  • クラウドサービスを提供:管理者 --> ユーザ
  • クラウド利用情報を提供:ユーザ --> 管理者

クラウド管理者は、クラウドサービスを一般に提供することによって、ユーザーの利用情報を収拾する。ユーザーが何を書いたのかの全ては、クラウド管理者にとっては、すべて丸見えである。もっと言えば、どんなユーザーが削除した過去の汚点も、ひとたび書き込んだ時点で、それは、クラウド管理者の
財産
となる。クラウドに置く、ということは、ユーザーはそれを管理者に「くれた」と同値なのだ。
彼らがそういった情報で利用者を「脅す」ようなケースも考えられるだろうが、むしろ、利用者側がその「怖さ」によって管理者批判を「自粛」するというのが正しいだろう。
しかし、これは、クラウドだけの話ではない。
もし、この社会インフラを裏で構築している
匿名
の「設計者」がいるとして、あらゆるインフラを、
ある一定の意図の下に、
すべてが連動するように、仕掛けをし始めたとしたら、どのようなことになるであろうか。

  • たとえば、貧乏人が、自分が貧乏であることに、自覚的になりづらいマインド・コントロールは、どのようにして可能か。
  • 貧乏人に、富裕層が「幸せ」そうに、見えなくさせることで、妬みを感じさせなくするには、どうすればいいか(まったく、「共感の反対」ですよね)。

その一番簡単な方法は、

  • 学問的「真理」にしてしまう。

これだろう。「証明」してしまえば、
誰も反論できない。
おそらく、「哲学」とは、こういった「さまざまなニーズ」によって、要求されてきた、「言いすぎ」の、ごった煮、だったと言えるだろう(カントの理性批判が、こういった理性の限界の輪郭を分明にすることだったと考えるなら、あい変わらず、ここには、
批評性
があると言えないだろうか)。
例えば、上記の引用にしても、

「人間らしく」振る舞わなくても、

という所は、貧乏人の話をしているわけではないわけだ。むしろ、彼らが、放縦に振る舞い始めると、アキバ事件のようになり、「危険」なのであって、こういった連中には、もっと規律訓練が必要だと言ってもいい。彼ら向けのアーキテクチャは必要なのだ。
つまり、ここで言っているのは、エリートの話だと考えるべきなのだ。エリートはディーセントに振る舞う必要はない。控え目は、昔の日本人には美徳だったのかもしれないが、アメリカ人のように、もっと、自分がエリート大学に
選ばれた
ことを「人生の喜び」として、人々に自慢していい。エリートとして、人生の勝ち組に今自分がいることを、喜び、謳歌するべきなのだ(実際、自分は「落ちこぼれたちと違って」役に立つ)、となるだろう。
フェイスブックが、もともとは、エリート大学内での、ナンパツールであったことは、このツールを、嬉々として使っている連中の本質をあぶりだす。)
(佐々木さんがツイッターで、今どきテレビなんか見ているのは、下層階級くらいだろう、とつぶやいていたが、むしろ、こういった人の口から、
下層階級
と、差別的に分析する視線に、こういった人たちを情報のトレンドから落ちこぼれた「かわいそう」な人と見る視線が、見え隠れする(もともと、保守的な人なのだろう)。実際は、今のインターネット環境は、かなりの高額で有料であるわけで、年金生活者には、なかなか届かないメディアのはずなのだ。メディアには、オールドメディアも生きつづける。ニューメディアだけが「社会的身体」ではない。)

ロバート・B・ライシュは『ザ・ワーク・オブ・ネーションズ』において、「情報化時代」における労働者のあり方を、大きく「ルーティン生産労働者」「対人サービス従事者」「シンボリック・アナリスト」の三つに分類した。ライシュが「実際、『情報化時代』には、最低限の技術しか持たない人々も高所得を稼ぐ多くの機会に恵まれるというバラ色の予言に反して、多くの情報処理のしごと はこのルーティン生産に分類される低所得の仕事であるに過ぎない」と指摘するように、この三つの労働の間には、求められる能力の格差が横たわっている。
例えばライシュの本を読んだ(日本の)読者層の多くが、「シンボリック・アナリスト」という概念を自己啓発として消費しているように(!)、「ライフハック」という言葉に敏感に反応した層は、情報社会が他ならぬ「階級」を再生産するものであると「正しく」認識している。情報社会をポジティブに捉えつつ、自らの生産能力とコミュニケーション能力を磨いていき、適切な収入の確保と、他の階級とのストレスフルな遭遇を免れる環境を確保する欲望を、隠すことなく発揮している。
しかしそれは、エコーチェンバーが望まれているというわけではない。言うまでもなく棲み分け自体はもとより存在しており、それはメディアによってもたらされたものではない。むしろ逆で、ライシュらの議論を借りながら鈴木謙介が『サブカル・ニッポンの新自由主義----既得権批判が若者を追い込む』でクリアに指摘しているように、そうした「現状の膠着」といったイメージが拡大することが、むしろ「現状打破」の希求を尖鋭化させるのである。

企業は、将来における、リーダーの資質を見通して採用する。彼らの、底辺での能力の大小は大した問題ではない。将来において、リーダーまで登りつめるのは、数えるほどしかいない。
むしろ、情報社会が、「階級」を、より尖鋭化させる。

例えば最近頻出するキーワードに「設計」というものがある。この言葉は、最適なアーキテクチャア配置を行うことで、システム管理をするという意味程度にゆるく使われている言葉ではあるが、それがSEやプログラマによってではなく、情報社会における集合行動について論評する者の口から語られる際には、例えばローカルなコミュニケーションでは「承認」を得がたい者に対する「包摂」の場を、社会的(人為的)に構築していく必要がある、という形で用いられる。
この言葉は、今の日本では独特の意味付けがされている。例えば、秋葉原無差別殺傷事件の容疑者が、ネット上の掲示板で孤独さを書き記し、凶行に及ぶまでの模様を「実況」していたにもかかわらず、それをとめることができなかったことを「反省」する際にも、ウェブ空間に対する慈悲的な課題として、「ウェブコミュニティにおける承認」「システムによる包摂」といったテーマが提示された。
しかしこのような「語り口」については細心の注意が必要となる。懸念の一つは、自らがすでに「設計する側=包摂する側」に回っていることを問わず、時に隠蔽してしまうことだ。つまり何の資格があって、あなたは「設計側」で、「彼ら」は「包摂される側」なのか、という問いへの無自覚さである。『排除型社会----後期近代における犯罪・雇用・差異』を著したイギリスの社会学者ジョック・ヤングは、『後期近代の眩暈----排除から過剰包摂へ』において、「過剰包摂」を問題にしている。

(...)他者化のプロセスでは、根拠が階級であれ、ジェンダー、人種、ナショナリティ、宗教であれ、自己に優越的な存在論が与えられており、自己は他者との対比で価値を維持され確実性を与えられている。そこでは二つの様式の他者化が普及している。ひとつは保守的な悪魔化(デモナイゼーション)である。つまり他者に否定的な属性を投影し、そうすることによって自分自身に肯定的な属性を与えるというものだ。もうひとつは、頻繁になされるがめったにそれとは認識されない、リベラルな他者化である。それは他者をわれわれのような素質や美徳が不足しているとみなすことである。かくいう不足は、保守バージョンのような本質的で質的な差異というよりも、物質的ないし文化的な環境や資本の剥奪によって生じる不利な立場とみなされる。もしこれらの環境が改善されれば、かれらはわれわれのようになるのに、というわけだ。このような差異について、保守派は正常なものの歪んだ状態あるいは転倒だと言いわたし、リベラル派は正常なものの不足に由来する逸脱だと言いわたすのである。(...)(現代の社会では)排除の力が強く働いていないと言おうとしているのではない。そのプロセスは、私が当初前提にしていた単なる社会的排除ではない。むしろここでは包摂と排除の両方が一斉に起きていて、大規模な文化的包摂と系統的かつ構造的な排除が同時に起きている。すなわちこれこそが過剰包摂型社会である。これは強力な遠心力と求心力とを有する社会であり、吸収と排斥を同時に行う社会である。

無論これは「包摂」自体への異論ではない。一方では、そこに存在している「階級」の問題に目を背けつつ、一方では発言者にとってわかりやすい図式へと回収してしまおうとすること。「設計」という言葉を唱えたがるという「欲望」が肥大化していること自体も、今やこうした「ニーズ」に下支えされたレトリックであると疑われる必要がるということだ。(統合的な)社会を語る饒舌さが、デタッチメントを覆い隠すための言い訳になるのは許されない。

この社会において、拡大し広がり続ける「階級」格差から目をそらすことは許されない。「そこにある」問題への、
デタッチメント
は、結局のところ、私たちが求める社会を把握するツールとしての無力に直面することになるだろう。
では、こういった問題に著者が提示するオールタナティブである、「社会的身体」は、こういった問題をどのように照射するか。

またプレーヤーは常に、特定のコミュニティの持つ強制的な引力に左右されつつも、複数のコミュニティが比較される空間を移動し、未参入のコミュニティを価値付けつつ、再選択する必要に迫られている。家族を生き、学生を生き、労働者を生き、消費者を生き、恋人を生き、通行人を生き、ハンドルネームを生きる。こうして人は、網状の空間の中に投げ出され、生存のための共同体と数々のブリッジを浮遊しながら、いくつかの交信方法を選択することになる。本書が、ケータイを使ってコミュニカティブに振る舞いつつ、「テレビ空間の拡大」を行っているプレーヤーたちに着目するのは、こうしたリアリティを活写するためのものである。

私たちの社会に自生してきた秩序の数々が、どのようなリソースの活用を可能にしているのか、いかにして参入を実現できるのかその条件に配慮しないままの言説は、排除を長期化させる共犯者にもなる。情報思想を語るのであれば、包摂を装う排除にセンティブでなくてはならない。

こういった、各個人の視座によって見られたセカイ、それぞれによって、眺められる、それぞれの
現場
から、考えようとするスタイルは、どこか、独我論的でさえある。実際、著者が掲題の本で分析する対象は、ゲームであったり、お笑いであったり、と、個々具体的な若者文化での「現象」であって、あくまで、この「社会的身体」によりそって、考え続ける著者の姿勢は、まだ、その輪郭を辿っているレベルだとしても、今後に可能性を感じさせる。
(前半に書いたような、「便利」に、ダイレクトに向かって、「階級」の問題を、ダイナミックに「更改」していくような、社会モデルを、こういった、近接的な、自生的秩序生成の延長で、プログラムを動かせていけるような、デザインが生まれてくると、ずいぶんと、このセカイも生きやすくなるなるのではないか、と、ちょっと読んでて思ったというだけだったんだが、ずいぶんと長くなってしまった...)。

社会的な身体~振る舞い・運動・お笑い・ゲーム (講談社現代新書)

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