とあるアクセラレータ(一方通行)についての考察

アニメ「とある魔術のインデックス」は、ちょうど、ライトノベルの13巻

のあたりをやってる(とりあえず、13巻は読んだところ)。といっても、私も、原作の最新刊まで読んでいるわけでもないし、別にそこまで、語りたいことがあるわけでもない(超能力だとか、魔術だとか、いいかげん、この中二病を卒業したいよ)。
ただ、明らかに、今回のアクセラレータ(一方通行)は、どのように作品の中で位置付けるべき存在なのかが問われていることは間違いないように思う。
もう一度、この「とある」の世界における、超能力と魔術の位置付けを考えてみたい。この作品の舞台である学園都市において、子供たちは、「能力開発」を受ける。つまり、超能力を開発する。ところが、この超能力は、明らかに、
軍隊より強い
のだ。つまり、「軍事目的」であることが、明白なのだ。なぜ、子供の超能力の育成にこれほど力を入れているかといえば、どう考えても、さまざまな軍事機械より、有能な機械となるからである。
ということは、どういうことか。一つの「徴兵制」だといえるだろう。この学園都市において、超能力開発を受けることは、自分が「凶器」としての、能力を身に付けるということを意味する。軍事訓練を施されることを意味する。
自らの凶器性に目覚め、その武器としての、実行力を「磨く」。
こういった、サンプルとして最も分かりやすい登場人物が、アクセラレータ(一方通行)である。
この作品において、彼は、子供の頃から、かなり虐待的な能力開発訓練を受けてきた。自らが凶器であるとは、どういうことか。
表の世界では生きていけない、ということである。ひたすら、敵を反射的にまで、極め尽した先にこそ、彼の今がある。彼はただただ、人を殺すために鍛えられ、その目的のために、能力を極限まで伸ばした。
そんな人間が、一体、「普通の学園生活」を送れるのであろうか。
まあ、普通に考えたら無理だ。無理どころか、今まで、さんざん悪行を重ねてきている。人だって殺しているだろう。しかし、
その能力が有能ゆえ
生かされる。軍にとって、勝つことだけが大事であるなら、重宝されるかどうかは、有能かどうかだけが唯一の指針となるのだろう。彼らに一般社会のルールは通用しないのかもしれない。
しかし、彼自身が自分がそういった「表」の世界にいてはいけない存在であることを、十分に分かっているわけだ。
この前も書いたが、徴兵制もそうだが、徹底して、人殺しを訓練した人たちの精神状態はどうなるのだろう。人を殺すということは、双対性において、自分も殺される、ということを意味するだろう。つまり、常に、相手を殺す所作をするたびに、自分が相手の側で、相手が自分の側に、立場が入れ代わっていたなら、という、想像に襲われるだろう。つまり、ひとたび、人殺しの訓練に自分を投じた時点で、
闇の世界
に片足をいれている、ということなのだ。彼らは死ぬまで、その所作の意味に悩むことになる...。こういった「反射行動」を自らの体内にインプリントすることは、シャバに出れば、反射的に、その「作法」を発現してしまって、自分の回りの大切にしたい人たちに迷惑をかけるかもしれない。
しかし、こうも言える。そういう自分が守りたい人を、そういった「特殊」な技術を身につけていたがゆえに、たまたま救える場面もあるかもしれない。
関ヶ原まで、日本は戦国時代の、いつも、戦争が「日常茶飯事」の状態であった。ところが、江戸時代。まったく、戦争がなくなる。では、それまでの、
戦争機械
であった、戦士たちはどうなったのだろう。同じことは、日本の第二次大戦後の敗戦以降についても言えるだろう。
江戸時代から、日本には、ヤクザという暴力集団が存在してきた。国定忠次もそうだが、彼らの特徴は、
自分の手が汚れている
ことに自覚的だったことである。徹底して、自分たちと市井の市民との関わりを拒否して存在しようとする。彼らはむしろ、そういった
市民の平和な世界(ワンダーランド)
に自分たちが関わらないだけでなく、裏から守りたい、とさえ思っていたと考えられる。
自分の手は汚れている。もう、あの世界に関わることはできない。しかし、彼らには、なにがあっても、こっちの世界の蛮行の
迷惑
を及ぼしてはならない。
ある意味、戦後の平和主義とは、こういった人たちの「願い」が生み出し、残されてきた姿とも考えられるわけである。
13巻における、アクセラレータ(一方通行)は、まさにこの感情において、行動する。彼は自分が、ちょうどそれまで、かくまってくれていた人たちの、
一般人の人たちの暮し
の元に戻ることを、あきらめる。こんな殺人機械が近くにいるだけで、回りに敵が集まり、近くの人を必ずまきこむ。
そもそも、自分がそんな生活をできるわけがない。今まで、さんざんしてきた悪行を考えれば、自分はこういった血みどろの生き方をやめられるはずがない。やめたくても、まわりがほっておかない。
例えば、今回でも、彼は猟犬部隊(ハウンドドッグ)と呼ばれる、秘密軍事部隊の連中と血みどろの殺し合いをするが、ある意味、彼らは最初から彼の「能力を分かった上」で、集団で殺そうとしてきているのだから、返り討ちにあうのはしょうがないとも言えるかもしれないが、
そういうレベルではない
のである。アクセラレータ(一方通行)の所業はまさに、殺人を楽しんでいるようにさえ見える。つまり、殺人鬼として育てられ、そのことに、能力を特化し研ぎ澄まされてきた、その能力を
解放
する快感に彼は、身をまかせているわけである(残虐な殺人方法が際立つ)。
しかし、そんな彼も、まだ、中学だか高校だかの年齢なのであろう。たとえば、魔術側の人間として、主人公の当麻(とうま)と暮らす、インデックスにとって、アクセラレータ(一方通行)を「別のカテゴリー」に分類して、闇の世界の人という扱いにしなければならない、動機がない(そもそも、魔術そのものが闇の技術なのだから)。
(たとえばであるが、江戸時代において、戦争がなくなる(ちょうど、現代の日本のようだ)。そういった平和になると、前時代の、人殺しの英雄は、もはや、その能力が不要になる。すると、ある反転が起きる。戦士階級に対する、論功行賞として与えらえた、地位は、そのまま、行政官僚階級として、継続してその地位を維持する。しかし、彼らがその地位につけた理由は、殺人技術だったはずだ。なにせ、その後、何百年も戦争が起きないのだ。江戸時代において、武士階級のエートスには、間違いなく、行政官僚としての事務能力だけでなく、兵士としての「精神」が残り続ける。
しかし、中国や韓国における儒教文化においては、普通、行政官僚と、武官たちは、まったく、
ルート
が違う。違う科挙試験で入ってくる存在であって、混ざらない。
観念
が混ざらないのだ。彼らには、そういったウェットな感情が少ないのかもしれない。
同じことは、戦後の日本についても言えるだろう。戦争が終わり、帰還した日本兵たちは、この平和な時代になにを考えて生きたのだろう。
それは分からないが、いずれにしろ、右翼的感性に共感的な若者たちが、戦中の日本兵の暴力を「日本を守る」武士的感性でとらえようとしているところに、日本的な特徴があるのかもしれない。)
さきほど私は、この学園都市は徴兵制だと書いた。しかし、子供たちにとってはどうか。子供たちにとって、大人たちがなにを考えているかなど関係ないのである。子供たちは教育を当然受けるべき存在なのであって、そういった学生自治的な観念が、逆に子供たち自身によって、「ここを守る」、ここの人たちには「だれにでも」普通の暮しを提供したい、という行動を自生的に生み出していく...。
彼はつぶやく。
くそったれが。