高学歴者の「動物」化と「ルール・共感」

正直に言って、私は、社会主義の何が悪いのかを分かっていない。そういう意味で私は左翼と言ってもいいのかもしれないが、そもそも、人々がなぜそう思わないのかが、まず分からない。
社会主義という言葉は、いろいろ、いわくつきの使われ方をしてきたこともあり、意味がオブスキュアになってしまっているが、マルクス主義共産主義。別に、こういうい言葉を使おうが、その意味するところが分明であればそれでいい。
よく言われるのが、カンボジアの大虐殺や、スターリンの粛清、毛沢東文化大革命のときの、さまざまなブルジョアの弾圧、これらの国でのさまざまな言論弾圧、であり、そこから、
資本主義の方が「まだまし」
という、
「まだまし」論
が始まる。つまり、社会主義的アイデアは暴力の暴走を止められないし、社会の非効率化をもたらすし、言論の抑圧を招くから、だめ、と言いたいらしい。
これが分からない。
つまり、こういうことを言う人たちは、ポル・ポトスターリン毛沢東の政治は「社会主義」だった、という前提で語っている。彼らが言っていることは、
こういう人が指導者として行った政治
がひどかった、ということしか意味していないだろう。つまり、
歴史上、社会主義を「自称」した国々の政治はひどかった
と言っているにすぎないわけで、権力者が自らの独裁の野望のために、理想を口先で踊らせるという、当たり前の行動を、鬼の首でも取ったように糾弾する姿は滑稽以外のなにものでもないだろう。
そして、さらに「不思議」なことが起こる。
社会主義がNGなのだから、資本主義の中でやるしかない、という「推論」である。
彼らは、資本主義に問題がないと思っているわけではないが、社会主義がNGという「疑うことを許されない真理」が、
資本主義以外にありえない
という「消去法」となり、そしてそれは「資本主義の全肯定」となる。つまり、資本主義内修正はOK。資本主義「外」修正はNG。
そもそも、今、資本主義的に困っている人は、こういうことを言わない。だって、わざわざこんなことを言わなきゃならない、動機がないから。
じゃあ、だれが、こんなことを「わざわざ」言うかというと、こういうことを言いたい
動機
を持っている人となる。つまり、今「成功しちゃってる」ことに、「世間体」を考えて、
なんらかの説明がいるんじゃないか
と「無意識」に思っている人、となるだろう。
たとえば、高学歴大学に入学した学生は、かなりの割合で、高収入の親であることは、さまざまな統計で明確なわけで、なんらかの状況が変わらない限り、この関係が変わっていくことはないだろう。
しかし、お前が大学に入らなければ、別の人が入れたことは、間違いのない事実で、つまり、お前がいたから、他の人の「夢」が潰された。他の人が不幸になった。定員が決まっている限り、この事実が揺らぐことはない。
あなたが入ることを選択しなければ、間違いなく別の人が入っていた。そう考えると、だれかを蹴落すようなことをしてまで、お前が、ここに入ったことを、どこまで「えらそうに」ふんぞりかえる事態なのか、と問いたくなる。
しかし、こういった人たちは、この事実をそのようには考えない。どう考えるかというと、つまり、「ルール」によって。つまり、自分が高学歴大学に入れたのは「実力」によって「ルール」に則って判断されたから、と考える。
しかし、それは変だ。なぜなら、それは、この、突然現れた、
ルール
という言葉にある。別に、私たちが生まれてから今まで、自由に、やりたいことをやって生きてきたはずだ。みんな好き勝手にやってきたわけで、それがなぜ急に、
ルール
が、現れなければならないのか、と疑問に思ったら、少し分かってくるはずだ。
大学には、どういう人が入るべきなのか。
もし大学がたんなる研究機関なら、その研究を大学でやらなければならない理由はないわけで、つまり、大学でなかろうと、どっかで勝手にやっててくれればいい。人のリソースも企業の採用のように、いろいろと深謀遠慮して、拾ったり拾わなかったり、勝手にやってればいい。けっこう前に、歌手のオーディション番組がはやったが、あんな感じで、勝手にやってればいい。
つまり、たんなる「研究」なら、大学はいらないのだ。
よって、まず行うべきは、すべての大学の廃止ということになるだろう。
しかし、そう考えない人もいる。
大学を、高校までの学習の、さらに上の知識を学ぶ場と考えるわけだ(たしかに、高校までの授業のどこが、学問なのかというのは、だれもが思っていることだ)。しかし、もし、このように考えるとすると、今度は、なぜ、学ぶ人を「ルール」で選別しなければならないのか、の理由が分からなくなる。

  • 入りたい、と言っている人が、倍率何十倍か、くらいで存在する。
  • そのうち、7割くらいは、高校までの成績も、過不足なく、入ってから努力してもらえば、十分ついてこれるだろう。

さて。あなたは、この「倍率何十倍の7割」のうちから、定員数の人を選ばなければならない。そうしたときに、次のような疑問をもたないだろうか。

  • 非常に難しい難問の成績で、選抜を行うと、そういった難関大学用の頭でっかちエリート用の予備校で、親の大金をつぎ込んで、病的なまでに、くだらないペーパー問題に、朝から晩まで、あけくれて過した、いいとこのボンボンばかりが、入ってくることになり、こういった、くだらないことに若い時間を使いたくなかった、または、お金がなくて、そもそも、やることすらできなかった、貧乏人は一人も入らなくなる。これは、その大学に入ってくる人たちの社会階層的「バランス」として、最適なのか?
  • たとえば、上記の採用方法を単純適用すると、外国人やマイノリティが、大学に一人もいなくなる可能性がある。非常に偏った社会階級で、非常に偏った行動傾向を選択しがちな、ちょっと「気持ち悪い」人ばかりが固まってしまって、ちょっと「困ったちゃん」な、カルト的な人々の集まりとなり、世の中の動向とまったく解離した異様な場所になりかねない。
  • そもそも、この「倍率何十倍の7割」であれば、だれでもよかったわけであろう。みんな、授業を受けるに十分な実力があるわけだし。だったら、いっそ、籤引きでよくないか。もっと言えば、この中から、大学関係者が、さまざまな、社会階層を考慮して、バランスよく、ランダムピックアップをすればいい。

ようするに、気持ちが悪いのは、「エリート主義」なのだ。
たとえば、企業の採用で、たとえエリートが採用されているように思えても、それは、大学における学生の「採用」形態が、そのように見えさせているだけ、と考えることもできる。企業が自分たちの企業活動を考えて、あえて「雇用」形態を選択する労働者リソースは、
さまざまなニーズ
に本来は関係しているはずである。海外展開を考えていれば、その現地の人が必要と考えるかもしれない。ブリッジ的な留学経験があるような、バイリンガルが必要と考えるかもしれない。さまざまな営業展開を広げることを考えて、十分に経験のある人を求めるかもしれない。
ある高学歴大学に入った人は、当然、さまざまな希少性の高い、学問の最先端の情報にアクセス可能になる。すると、そういった情報の、
エリートたちによる囲い込み
が始まる。こういった世の中にあまり知られてなく、かつ、「ぱっと見ても分からない」難解そうな事実を熟考できる環境にある自分って、けっこうすごいんじゃない?
事実、こういった難関大学の学生ばかりが、新卒採用で、どこでも売れる事実を前にして、彼らが
勘違い
してしまうのも仕方ないのかもしれない。
ところが、こういう人たちに限って、俺が入った大学なんて、くだらないとか言い始める。入っていて、全然、たいしたことなかった。今後は大学に入ったかどうかなんて、なんの意味もなくなる時代になる、とか言い始めて、その大学に入れなかった人たちに、「説教」まで始める。いい加減、学歴コンプレックスをなんとかしたらどうだ。
しかし、その大学がどうなのかなど、大学に行ったことのある人しか分からないわけで、最初から、
知的デバイド
を利用して、低学歴層を煙に巻いて、儲けをたくらむ、嫌な奴、としか見た目上、思われない。
これが、(宮台さん言わく)
「お前が言うか」問題
である。人にはそれぞれ、今の自分のホームベースがあるわけで、その立ち位置を「棚上げ」して、他人に説教したとして、それがどんなに「一般的」に人が考えるに正しく思われる内容であっても、
お前がそれを言うか
ということは、往々にしてあるものだ。
非難を覚悟して言わせてもらうなら、学校でいじめられるのは、自分が、お金持ちでなんでも持ってる、いいとこの子供「なのに」、KYなまでに、
自分の幸福自慢
空気をぷんぷんに発散してる一方で、貧乏人はノー眼中。たまに、目の片隅に入りでもしたら、虫ケラかなにかのような目で一瞬だけ不快感で眉をひそめるだけ。そんな連中だと、言いたくなる気持ちにさせられる。ところが、そうやって「さまざまな」いじめ的扱いを受けると、今度はこのお花畑は、キレる。
理不尽だ。
恨みさえ、つのらせ、なるほど。お互い、なかなか、共感というのは、難しいんだな、と思ってしまう。
たとえば、最近知り合った人といろいろ話していて、「この人は大変だなー。自分はまだましだ」と思っていると、ある時相手が、「あなたは、かわいそうですね」、とか言い始めることがある。自分が相手を不幸だと思っていたら、相手も私を不幸な人でかわいそうに、と同情してくれていたというわけだ。
つまり、相手は、「自分はまだまし」と思っていた、ということである。このことは、とても、示唆的だ。リチャード・ローティは、リベラリズムを、この共感感情を基盤にして、構築しようとする。
かわいそうに。
ところが、「すべて」の人が、「すべて」の人を、どこかしらに対して、「かわいそう」と思っている。つまり、「自分はまだまし」と思っている。
お互いが、相手になんらかの「共感」を寄せていることは確かなのだが、問題は、その共感の「ベクトル」が自己本位のため、むしろ、同情されるべきは自分かもしれないのに、その
値踏み
の質の悪さを無意識に無自覚になり、「どんな相手に対しても」同情ポジションに自分を置くことで、優越感ポジションに自分を置かないと、自分の「本当の姿」に直面するのが恐い、ということなのかもしれない。
こう考えてくると、「共感」というのは、どこまでのことが可能で、どこまでのことが不可能なのか。その「理性の越権行為」の輪郭が気になってくるわけだ。
今日、トゲッターをみてたら、都のマンガ規制条例について、おもしろい議論があった。
ある人は、コンビニにエロ本があると、小さな子供がそれを見てしまう。電車の広告の中吊りの、エロいのを見てしまう。見えるところに置かれている限り、見えることは、
子供に悪影響を与える
んだから、「法」でもっと規制しろ、と主張する。他方の反対者は、それにしたって、
親の仕事
だろ、と言う。コンビニに行っても、そんな棚を「見るな」と、ちゃんと、しつけをしろ、と。
自分の親が、自分が子供だった頃の、接っしてきた姿勢を思い出しても、私の親に法へ働きかけられるような、「階級」ではなかったわけだし、そもそも、そういう発想自体が、思いもつかないことだっただろう。
どんな親だって、子供に責任がある。だから「しつけ」ってあるはずだ。だから、親は子供を「しかる」。あれはやっていい。あれはやっちゃならない。どんなに嫌がられようと、自分が必要だと思うなら、やるべきなのだ。
だって、
自分が必要だと思っているのだろう。
こんなことを考えながら、クリント・イーストウッドの映画「チェンジリング」のことを思い出した。これも、本当に絶望的な映画だった。どうして、クリント・イーストウッドはこんなものを映画にしようとしたのか。でも、子供たちは、最後まで、なんとか自分たちで、道を切り開こうとするわけですよね。そういう意味では、これは、
子供に「戦う」ことを「しつけ」ようとする親にとっての、
映画だったんじゃないかという気がしている。
自分の子供の頃を思い出すと、もうほとんど覚えていないが、何度か父親に、げんこつで殴られたことだけは、しっかり、覚えている。小さく、まだ頭もやわらかかっただろう、自分には、間違いなく、痛かった。そのショックが今も心のどこかにある気がする。あと、二三回は、わがまま言って、言うことを聞かなかった罰として、家の外に鍵をかけられて、家に入れてもらえなかった、ことがあった記憶がある。
しかし、そういった「しつけ」も、体が大きくなるにつれ、口での注意はあるが、少なくとも、手を出すような行為はなくなっていった。それとともに、長く、そういう小さい頃にやられた「しつけ」を理不尽と思ってずっと、最近まで思っていたが、最近になって、少しずつ、考えが変わってきた。
私の親といっても、そんな学歴があるわけでもない。でも、「しつけ」として必要だと思ったなら、たとえ子供に嫌われようと、やるのだろう。実際、自分の親も、そうされてずっと来たはずなのだ。「しつけ」と思わない、他人の関係ない人と思うなら、こういうことはやらないのだ。親の人生もたった一回なら、子供の人生も、たった一回であり、教えなければならないと思っていることがあるなら、きっと、どんな手段を使ってもしつけるのだろう。最近は、これを「家庭内暴力」と一括りにされるのだろうが、たとえ、どんなに他人に言われようと、やるべきだと思ったことを、親は子供にやることを、ためらうべきではないと、なんとなく思い始めている自分がいて、そういう自分に戸惑うわけで...。