ウルリヒ・ベック『危険社会』

今、あらためて、この本を読み直している人も、多いのではないだろうか。
この本は、チェルノブイリ原発事故「について」書かれた本であると、一般には思われているが、それは正しくない。というのは、本文はすでに、それ以前に書かれていたからだ。
しかし、この危険について検討した本を出版するにあたって、著者は、直近に起きた、チェルノブイリについて語らないわけにいかなかった。なので「はじめに」、という序論として、チェルノブイリについて、どう考えればいいのかの著者の考察が書き加えられ、この本を有名にした。
では、この本には、どのようなことが書かれているのだろう。
たとえば、以前私は「私的所有」という考え方について、検討した。
しかし、この「私的所有」という考えは、たしかに、資本主義の根幹をなすものであるが、こと「国家」との関係では、相性が悪い(こんなことを言うと驚く人もいるのかもしれないが)。
たとえば、今回、津波で、村がめちゃくちゃになってしまった。しかし、その「がらくた」や「ごみ」は、
所有者
がいるはずである。また、その土地についても、だれかの所有のはずで、勝手にゴミを回収していいのか、は大いに疑問であろう。しかし、当然であるが、国は、この「ごみ」を処分する。
また、今後、このように家をなくし、一切の家財道具が灰塵に帰した彼らの「生活力」をどのように回復していくのか。村を失くし、それだけでなく、その土地に帰れるのか、帰るべきなのかも問われている状況で、本当に根無し草のように、放浪していく可能性さえ考えざるをえなくなる(代わりとなる土地が、この日本のどこにあるというのか)。しかし、だからといって、政府が無策なまま、放置はできないだろう。ある程度の、支援をせざるをえない。税金の優遇も必要だろう。借金の棒引きも必要だろう。
逆で言えば、東電は今回、国民に多くの被害を与えている。まず、周辺の人たちが住めなくなった。電気の供給が「急に」少なくなり、計画停電という、世紀の愚策を国民は飲まさせられた。そもそも、放射能放射性物質のだだ漏れで、農業や漁業が壊滅的影響を受けている。東京の水道を幼児が飲めない。しかし、その「賠償」は、国がやる。というか、東電がやったところで、電気料金が上がるだけなのだ。そもそも、こんな大きな事故を起しておきながら、
倒産
しないってなんなの? そんな私企業ってありうるのかな? なにかが根本的に間違ってないか?
上杉隆さんが RT してるけど、東電の社長は、日本広報学会とかいうところの、会長をやってるとかで、つまり、電力会社って、私企業なのかな。限りなく、国営に近く(電気料金を独占しているんだから、好きな値段をつけられて)、自分たちの都合のいい広報活動をしたいときだけは、私企業の特権を使って、
宣伝
活動でしょう。つまり、
構造的に
だれも彼らを擁護する言論の「正当性」を担保する構造になってない、ってことでしょう。そこが、一番の問題なんでしょ?)
こう考えてもいい。私たちの私的所有は、国家によって担保されている、と。つまり、
国家所有
だ、と。

  • 個人の財産 ∈ 個人
  • 個人 ∈ 国家
  • 個人の財産 ∈ 国家

そういう意味で、これを私的所有と呼ぶべきなのか、という問いも生まれる。

ということは、どういうことになるだろう?
逆からも言える、ということである。
富の反対である、貧乏とは、「国家が配分したもの」なのではないか。
国家は国家の都合によって、国民一人一人に、「貧困」を配分しているんだ、と。

  • 贈与(貧困):国家 --> 国民

しかし、この考えは、さらに進めることができる。つまり、
未来
である。私たちは、未来に向けて「予測」をして生きる。未来に、どういったことが待っているかを折り込んで生きる。こういう生活をしていれば、こんな素晴しい未来が待っている、と思うから、今のライフスタイルを選んでいる。つまり、

を未来への予測を含めた形にしたものが、これだ。

  • 未来への満足(安心):国家 --> 国民

では、これの、

  • 贈与(貧困):国家 --> 国民

に対応するものは、なんだろう? それが、これだ。

  • 危険の配分:国家 --> 国民

この土地が危険だったら、違う所に、ひっこす。それは、将来の「貧困」に今から対処しているわけだろう。つまり、私たちは「未来の危険を予測しなければならない」という、コストをすらも折り込んで生きている。今、たらふく、おいしい飯を目の前にしていても、将来の不安が大きすぎで、飯が喉を通らないかもしれない。つまり、コストについて、考えなければならないこと自体がストレスフルであろう。しかも、それが、何年も続くとなったら、どうだろう。
つまり、私たちが生きるということは、国家によって「あなたにどれくらいの割合の危険を贈与します」と言われていることと、同値である、ということなのだ。

貧困社会における富の分配の論理から、発展した近代における危険の分配の論理へのこの転換は、歴史的にみれば(少なくとも)二つのことを前提している。この転換が生じるために必要な第一の前提はこうである。まず今日認められるように、人類の技術生産力と社会福祉国家的な保証と法則とがある水準に到達することである。そして物質的貧困が客観的に軽減され、社会から追放されることである。この種の転換が生ずるための二番目の前提は、近代化の過程において生産力が指数的に増大するとともに、危険と人間に対する脅威の潜在的可能性が、今までになかったようなスケールで顕在化することである。

この引用をみると、彼の言う、危険社会とは、ほとんど、近代社会と同値だと言っていいだろう。近代社会がどのような特性をもつべきであるか。
絶対貧困は根絶すべきだ。ある程度の未来への安心が保証されるべきだ。それなりの、生活が保証されるような、生産力(つまりインフラの維持)が恒久的に保証されるべきだ。
こうして、国民と国家の関係に、大きなディバイドを置くことができなくなっていく。つまり、これらの特性は、国家システムに内包されているべきだ、という観念が大きく浸透する。
しかし、あらゆる活動には危険がともない、その危険が拡散することによる、他人への損害の責任、保証、の問題が発生する。
ところが、国家とは、民主主義的には国民のことであった。この自己言及的な関係において、この関係は「危機」に直面する。
本来なら、その危険を引き受けるかどうかを責任者は、判断し、行動するのだが、当然、その危険を「そいつが引き受けられるのか」が他者によって、査定される(これが、本来のアカウンタビリティだ)。もし、そいつ自身が引き受けられないのなら、そいつは、パージされるだろう。
ところが、民主主義においては、自分で行動し自分で責任を引き受け自分で利益を享受する。この限りなく、自己撞着的なシステム内では、

  • 危険だから「やらない」

ではなく、

  • やるから「やる」(危険かどうかは行動の決定に関係ない)。

というトートロジーとなる。日本中にお金をばらまく。すると、だれも反対しなくなる。ということは、「やる」のだ。だって、反対する人がいなくなったのだから。
そうこうしているうちに、
国家による国民への「危険」の贈与
の量が、どんどん増えていく。この究極のシンボルとして著者が「発見」したものが、原発だったわけだ。
この前の朝生については、すでに多くのことがツイッターなどで語られている。
一人として、原発について、警告している人を入れない「原発村」住民だけで行われた原発という「御神体」をこれからも、崇めていくことを再確認するための番組。
(猪瀬さんが、「合成の誤謬」という言葉を使って、隣の面積バカを、たしなめていたが、猪瀬さんは原発推進だとしても、そこは理性的であった、ということなのだろう。
勝間さんについては、ツイッターでの彼女への罵詈雑言がひどいが、きっと、彼女自身の「リスク管理」ができてないのだろう。自分が、中部電力の、原発広告塔をやってきておきながら、それを
棚に上げて
(その事実に一切ふれず)、語り続ける姿は、彼女の語ることを今全国で聴いている人たちへの真摯な態度とは思えない。自分が
原発広告人
なのであれば、あなたの語ることに一定のバイアスがあると多くの人は考えざるをえない。問題は真実ではなく、そういった立ち位置に対する自覚なのであって、こういった構造的関係を隠蔽し続ける限り、敗戦の失敗は繰り返され続ける。)
こうやって、上の世代の人たちの、傲慢な自分さえよければいい、というような口ぶり、体たらくを、地震以降、日々、下の世代の人たちが見てきて、
今、若い人たちの上の世代への「尊敬」感情が失われてきている
現状があるのではないか。彼らバブル以降世代は、バブル通過世代の、なにごとも、自分が死ぬまで、バブリーで
キラキラ
でなきゃいられない。とにかく、
自分が死ぬまでは、「大量生産大量消費」のキラキラな自分でいさせて(自分が死んだ後のことなんて知らね。勝手にこの地球が滅びれば)
という態度に「侮蔑」の感情を抱き始めているのではないだろうか。彼らが、さんざん、エネルギーを使ったから、バブル以降の失われた20年があり、福島カタストロフィーを帰結した。しかし、ことここに至っても、
バブルよもう一度
をやめられないのだ。こうなってくると、本当に上の世代は必要なのかな。彼らがいること(きゃっきゃとはしゃがれること)自体が、犯罪的なまでに、今、これから実現していかなければならない、節約社会。節約しながらでも幸福を感じられる社会を支えていくための、大きなお荷物になっているのではないか。
原発の全ての問題は、全ての問題を、
次の若い世代
に、押し付けていることですよね。一切の問題を後の世代に押し付けて、今の、エネルギー文明を謳歌し、
逃げ切る
ことしか頭にない、上の世代の倫理感覚。
掲題の著者がなぜ、原発はコントーラブルじゃないと
断言
するのか。

貧困は排除することが可能であるが、原子力の危険は排除するわけにはいかない。排除しえないという事態の中に、原子力時代の危険が文化や政治に対して持つ新しい形態の影響力がある。この危険の有する影響力は、現代における保護区や人間同士の間の区別を一切解消してしまう。

原発は作ったら、ほぼ半永久的に管理しなければならない。私たちの世代が「原発いーじゃん」と思って、じゃんじゃん作ったとして、後の世代が「やっぱ、やめたい」と思っても、もう後戻りができない。
私たちは、次々と、後の世代に「危険」を贈与している。その自覚がないんじゃないか。

それは、測定値や限界値とか、短期的結果や長期的結果とかをめぐる論争に対して、そもそもその存在価値を失わせる。今、空気、水、動物、人間に対して、当局の基準からみても緊急かつ危険なほど汚染が進行したとしよう。その時、各個人はどういう行動をとり得るかを、自らに問うてみるがよい。息をしたり、食べたり、飲んだりというような生きるための行為を、当局がとめたり、抑制するということが可能であろうか。汚染の程度はいろいろとしても、大陸全体が(風向き、天気、自己現場からの距離などの「致命的」要因からみて)回復不可能なほど汚染されたとしよう。そこに住む住民はどうなるというのか。国家(国々)全体を隔離できるというのであろうか。内部で大混乱が突発するであろうか。

(たとえば、勝間さんは、
リスク
と言った。そして、チェルノブイリでの被害として、人への被害なんて、乳幼児「くらい」しか
(まともに)「実証」されていないじゃないか
と。こんなものに比べたら、津波での死者の方が圧倒的に人数も多いし、どこまで深刻なのか、と。
たとえば、株式会社による企業活動であれば、最悪のカタストロフィーとは、倒産である。その他の一切の「責任」は国家が引き受ける、とされている(つまり、安倍元総理が言っていたとように、各個人は再チャレンジをすればいい)。
こう考えるなら、こういった場合の
確率空間
におけるリスクについては、勝間さんの言うことは、それほど違和感はない。しかし、ウルリヒ・ベックの言う「危険社会」とは、そういうことではない。そういった、「企業活動」によって、もたらされる、社会「全体」の
リスク
なのであって、先ほどから言っているように、そういった「危険」が、どんどん、国家から国民に「贈与」されている問題を考えているのであって、原発広告人の方々と違って、東電が企業として成功しようが失敗しようが、だれも興味はないのだ。)
たとえば、自分一人の努力で、原発によって起こされるかもしれない、この地球の生態系のカタストロフィーを防げるのか、と問うとよく分かると思う。
ある精神的にまいってしまっている人がいたとして、その人が、ある日、日本の核燃料廃棄物を、すべて、海に捨てようと考えたとき、
あなたは
その人を止められるか(この事実は、今、福島原発「で」トラブル対応を行ってくれている、派遣社員たちだれもが、作業を放棄したとき、どうやって、作業を継続するのか、と類似の問題と言えるだろう)。
自分ができない、自分の努力「だけ」で、この地球の生態系の崩壊を止められない。そうなったとき、上記の原発広告人たちは、ヒステリーになる。「強制的に」人々を「管理」しなければならない。まさに、「奴隷」的な人間の「マネージメント」が必要、と言い始めるのだろう(それしか、選択肢がないのなら、その結論は必然的なのだ)。
この国家の一大事に、人一人の命なんて「たいしたことではない」(リスク最小だ)。

われわれが危険を認知したらわれわれはもはや生きのびることができない。

危険に対抗することのできるすべてのものを危険が蹂躙する。

あのー。
あなたはその「リスク判断」というものに、ずいぶんと自信がおありのようですけど、一度でも、この地球から人類がいなくなったら、もう、その後、この地球上に人類はいないんですけどね。

危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)

危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)