東京の黄昏、日本の黄昏、国家のクラスタ化

この前の朝生で、なにが衝撃的だったかといえば、政府の一員である、民主党の大塚さんが、これだけの首都(最人口密集地)の「近く」で、これだけの規模の原発事故が起きた事態は、
人類史上始めて
だということを強調したことではないだろうか。
(こういった視点で見ていくと、よく考えると、あの番組は、それなりにバランスをとって展開しようと(少なくとも出演者は努力した)印象が、うかがえなくもない。)
なんとか、今の日本の原発推進政策の後退の「経済的影響」を懸念する人たちは、こぞって、
放射性物質なんて「たいしたことはない」
ということを
急に
「国内向けに」強調し始める。しかし、こういった(ある種、恫喝的でありながら、他方においては、「人々を安心させようとする」)言論は、
国際的なコンセンサス
とは、あまりに乖離がある。つまり、こういった人々の「お気持ち」は分からなくはないが、事態の進行に伴って、「機会原因的に」、放射性物質の危険性を「軽視」していく姿は、人々の信用を失う。
この前紹介したように、ICRPという国際機関による、内部被爆に対する防護基準は、限りなく、
経済的限界
を折り込んで妥協的に設定された「非科学的」なシロモノの可能性があることを指摘した。国際基準自体が、「みんなが経済的に被害を被らない程度にするには、どの辺で、手を打つべきか」という、別のバイアスで設定されているとするなら、そこにさらに、日本のローカルな経済的事情で
まだいける
まだいける
と、基準を骨抜きにしていったとき、この国際社会は、その健全性の「信用」を失うだろう。
つまり、大事なことは、なぜ、こういった立派な言論人たちが、このような「ダブルスタンダード」に流れざるをえないのか、の認識だといえるだろう。
東京に住んでいるお宅では今、都知事選挙の投票用紙が郵送されているはずだ。ところが、ニュースはその話をまったくしない。ということは、どういうことなのだろうか? 多くの人たちが 、東京の未来への
疑義
を呈し始めていることを意味するのかもしれない。戦後60年の、隆盛を誇った、この
トーキョー・シティ
が、今、黄昏を迎えようとしている。一つの頂点を極め、世界にその威容を誇ってきた東京は、今、その役割を終えようとしているのかもしれない。
この問題は、次のように考えるといいのではないか。
なぜ、人々が「不安」の中を生きているか。
それは、オールタナティブが用意されていないからだ。
たとえば、ITの世界において、サーバーがダウンすることは、ときどき起きる現象で、
なんら、(シュミット的な意味での)例外状況ではない。
ここが重要なのだ。
例外ではないのだ。
サーバーがダウン(つまり、サーバーデーモンが、起動状態を止め、「落ちる」状態)したとき、何が起きるか。
スタンバイ状態で、起動状態になるのを「待っていた」デーモンが、アクティブに切りかわる。
これが、(コンピュータ業界で言う)「クラスタ構成」である。
多くの社会において、通常モードとは別に、退避モードが用意されていることは、よくあることだ。プライマリ・サーバが、なんらかの異常によって、検査が必要なとき、プライマリ・サーバを止めたまま、なにもしなければ、そのサービスは一生止まったままだ。
それでは困る。
そこで、日頃から、セカンダリ・サーバを用意しておき、プライマリ・サーバの「代用」として、なんとか、この「トラブル」を乗り越えようとする。
しかし、こういった、系の特徴は、あくまで、「バックアップ」だというところにある。バックアップはあくまで、非常用で、能力的に劣る。
ところが、クラスタ構成の場合、二つのノードには「区別」がない。等価なのだ。まったく同じ性能であることで、どちらが「本物」か、という定義がない。どちらも「本物」であり、もっと言えば、「今どちらを使っているのか」でさえ、どうでもいい(同じ性能のものを用意する分、高価なシステムになることが特徴ともいえる)。
これを、国家に応用してみよう。
日本の首都は、東京である。東京は、江戸から明治に「革命」したときに、明治政府にとっての「正当性」の意味から、東京でなければならなかった。東京以外に遷都をするということは、再度、明治政府の「正当性」が疑われることを意味するため、なにがなんでも、東京が首都であり続けることが求められた。
しかし、上記の議論から分かるように、なにがなんでも東京にこだわることは、
リスク
が大きい。一度の失敗が致命的になる。今回、
逃げない
という言葉がキーワードになったが、それは、東京という首都に代わるものを認めないという意志を意味していたのであろう。そういった背水の陣は、ロマンティックではあるが、私たちが求める近代社会の要諦とは相性が悪い。
問題は政府という「機能」である。私たちが不安になるのは、政府機能が麻痺し、十全の能力を発揮できなくなり、社会生活に支障をきたすことがないのか、という心配なのである。
(たとえば、東電は今回、世紀の愚策の計画停電を国民に押し付けてきたが、これに怒り心頭の人たちは多いのではないか。
なぜ、他から電気を「おすそわけ」できないシステムになっているのか。東電を始めとした、日本の電力会社がグルになって、日本を脆弱な体制にしてきた、自分らの無策のせいを、一企業にすぎない電力会社が、国民に電気を「差別的に」押し付けることは、どこまで許されるのだろう。
たとえ、ほかから取ってこれなくても、電力が足りなくなったときのために、工場などと出力制限の契約をしているはずだし、一般家庭だって、アンペア下げればいいだけに思える。)
信号が止まって、もし、政府の重要人物が、交通事故にまきこまれたらどうなるか。
今、原発の施設への対応の方針は、まったなしに、理性的な対応を求められている。十分に思慮を尽された対応が求められている。そういったときに、電気が止まる地域があるとか、水は飲めないとか、そういう下世話な不都合にあふれていて、「政府機能」が十全にフル稼働しないとか、ありえないわけである。
しかし、言うまでもないことだが、別に、「政府という機能」が、東京で実行されなければならない、という理由はない。なぜ、東京でしかやってないかといえば、せいぜい、国会が東京にあるから、くらいの理由しかない。似たような施設が別のところにあるなら、そこでやったって、なんの不都合もない。
問題は、政府という「実体」ではなく、「機能」なのだから。
だとするなら、日頃から、政府活動を、どんどん別の場所で行えばいい(東京じゃなきゃやらない、という態度がリスクなのだから)。普段から、いつも、別の場所でやっていれば、こういった緊急の場合に、なぜ、東京でやらないのか、
逃げたのか
などという精神論をやらなくてすむだろう。
しかし、この話は、もっと広げられる。普段の私たちの生活自体も、クラスタ化するのだ。多くの人が勤めている会社も、多くは、賃貸のビルを借りて、企業活動をしている。だったら、都合によって、どんどん、移動したっていい。企業も一つの「機能」にすぎないわけなのだから(そのサービスが提供できることが、企業の必要十分条件だと考えるなら)、場所にこだわることに、たいした意味はない。
個人だってそうだ。逃げちゃだめ、って思ってる人は、東京に土地をもってたり、持ち家があったり、マンションの一室を買って、ローンが残ってたり、こういった人たちなのではないだろうか。そういった土地は、たしかに使わないと、もったいない。でも、自分が住まないなら、だれかに貸したっていい、と言えなくもないわけだ。
いずれにしろ、持ち家のない賃貸暮しの、多くの貧乏サラリーマンにとっては、関東だろうと関西だろうと、会社の都合で、今までだって、日本中あちこち転々としてきたわけだし、そんな感じで「クラスタ構成」にしていけばいい。
しかし、この話は、もっと広げられる。
たとえば、今回の問題にしても、東京がだめなら、大阪なら大丈夫か、といわれても、日本の外の人から見たら、大阪だって、福島原発の「すぐそこ」にしか見えない(世界地図を見りゃわかるが、日本は狭いのだ)。この程度の、「クラスタ構成」じゃあ、ノードの転換をしても、そのうまみは、小さい。
だったら、いっそのこと、大転換してしまう。
つまり、他の地球の裏側の国と、大転換してしまうのだ。
FTAというのは、経済的な関税同盟だったわけだが、せっかくだから、人の移動も「関税撤廃」しちゃう。一方の国で問題が起きたら、相手の国は、かたっぱしから受け入れる。というか、いっつも、気分でどっちかの国を行ったり来たりして過ごすようになるわけだ。
地球の裏側といえば、日本と同じように戦争を放棄してる(らしい)、コスタリカなんかどうだろう。成長著しく、日本とのつながりも深い、ブラジルなんてどうだろう。
私が言いたかったことは、こういった、フェイル・セーフ市民社会を、どのようにぶ厚くできるのかということであった。
多くの人たちは、東電の人たちは、今もがんばってくれてるんだから、文句を言うべきじゃないと思うかもしれないが、それは違う。私たち、近代社会は、そういった要求を当然してきたし、その要求に応えられないなら、不満に思うことは当然であろう。
つまり、今問われているのは、彼らへの「信用」なのである。大事なことは、その言論の「信頼性」が担保される構造になっていない、ことなのである。日本の電力会社は、戦後ずっと、マスコミ、大学、企業と、さまざまな機関に向かって、
お金をばらまく
ことによって、言論を封殺してきた。大事なことは、
この事実
なのだ。それによって、今、日本人は「だれも」日本の電力会社が本当のことを言っていると思っていない。それだけじゃない。他の日本人が日本の電力会社について語っていること「全て」を信用していないのだ。
ウソにウソでぬりかためられた日本社会。
それは、日本の黄昏と言ってもいいだろう。たとえば、高速増速炉もんじゅ、も今、大変な事態になっているらしいが、これも、炉の中に、なんかを落としちゃった。操作ミスかなんかで。そして、もうなにもできなくなっちゃった。
しかし、である。こんなこと、日本の原発のそこら中で、起きてんじゃないのか。たまたま、もんじゅの場合は、こっからなにもできなくなったから、人々が「なんで、もんじゅ動かないんだ?」と疑問がわくから、隠せないだけで、他も、そこら中、ひどい状態なんじゃないか。隠して表向き動いているように見せかけているだけなんじゃないか、という疑問がぬぐえないわけだ。
なぜ、自民党から民主党政権交代ができたのか。民主党が、原発推進を継承したからではないのか。枝野さんの会見でも、民主党は、これからも、原発を作りたくて作りたくてしょうがない感じがぬぐえない。ただでさえ、今までの、原発は老朽化してるわけで、この一度始めた麻薬は、そう簡単に手放せないということなのか。
(今、日本に電気が足りないとなって、なぜ、日本の企業人は「代替エネルギー」を生み出そうとビジネスしないのだろう。なんか、なさけなくないだろうか。原発にしがみつき、ニュー・エネルギーにチャレンジしようとしない、起業精神の失われた、日本の姿は、どこか、日本の衰退を象徴しているようにも思える。)
世界の中で、工業国としての競争力を維持してくためには、石油の代わりとしての、原子力エネルギーを手放せないと考え続ける限り、民主党はこれからも、原発を作ろうとする(そのことが、民主党の時代の終わり、民主党の役割の終わり、を意味するのかもしれないが。日本にも緑の党、が生まれることは時間の問題ということでしょうか)。問題は、それが割に合うのかであり、後の世代に危険を押し付けるべきなのかであり、究極的には、日本人はだれも原発を信用していないという事実であり、つまりは、
日本という国
への国際的な信用の失墜なのだろう。