渡辺龍也『フェアトレード学』

3・11以降においても、日本での原発をめぐる議論は、非常に
特殊
であると言わざるをえない。
今後の日本は、今の原発を維持していくべきか。それとも、今までの原発政策を「後退」させるべきか。
たとえば、この地球上が一つの国家であったとしてみよう。
(ということは、どういうことか。ある日。地球に、「第二の黒船」。UFOがやって来たとする。彼ら宇宙人は、どういうわけか、地球人と、非常に似ていただけでなく、地球人と同じような生態だったとしよう(はるか昔に、地球を飛び出し、宇宙で生き続けた、日本のブラジル移民のような方々と思えばいい)。地球人は、彼らと「交易」を行う。地球上の、さまざまな物産は、めずらしがられ、「高く売れる」。気付くと、宇宙は、さまざまな宇宙人が、経済競争をしていた、と考える。)
私たち「地球共和国」の、政府である、内閣総理大臣は、考える。

  • 地球上のどこの地域に、どんなエネルギー供給を行うべきであろうか。

一つだけ間違いないことは、
間違っても、日本に原発を作ろう、などと思わないだろう。

104基の原発が運転中の世界一の原発大国・アメリカでも、原発地震のない中・東部に集中しており、西部の地震地帯にはほとんど立地していません。第2位のフランスは地震のない国です。

中国工学分野の専門機関である中国工学院の前院長が、中国の今後の原発立地にあたって「マグニチュード(M)4以上の地震が過去1000年起きていない場所につくる」との基準を明らかにしました。

screenshot

ようするに、地球上の地震多発地帯で、こんなに狭い地域に原発が群生しているのは、日本だけなのだ。このことが何を意味しているか、いい加減に分かろうよ。もし、地球が一個の国家だったらやらないことを、日本という狭い地域の自治を認めた途端に始めるということは、どこか、日本人の常識は
壊れている
ということであろう。こんなことなら、日本という自治をやめて、世界共和国を目指したらどうだ。日本人である限り、こういった病的な選択を、どうしても選んでしまう、というなら、日本であることこそが、最も問題だ、ということになってしまわないか。
経済のことになると、あれほど、
グローバルスタンダード
を強調する人たちが、こと、原発のことになると、頭に血が登って、国の政策に従順になるしかできないって、なんなのか(どうも、江戸時代の御上意識が強すぎるのか、少しでも国家に反抗的な態度を自分がとることへの「恐怖」が強すぎるようだ。国策がこれだ、となると、そこから外れたことを言うことに、極端に警戒的になる。そんなことを言って人にどんな白い目で見られるか。そこから、そういった、国に反抗的な発言をする人の、さまざまな欠点をあげつらって、罵倒することで、自分が「そっち側」の人間でないことを確認して、「安心」する。つまり、戦中の非国民罵倒を繰り返した大衆を反復することになる)。
では、これを「逆」に問うてみよう。なぜ、ほかの世界の国々は、地震多発地帯には、決して原発を建てないようにしているのに、なぜ日本「だけ」は、これだけの原発を建てて平気な顔をしているのか。

  • 事故が起きても「安心」なように、「法律」でしたから。

つまり、法律によって、原発は人口密集地帯には建てないようにすることで、たとえ原発で事故が起きても、国家の補償金額が、国家財政を脅かさないような範囲になるようにしているから、
大丈夫
なのだ。地震多発地帯であれば、原発が悲惨な事故を起こすことは、確率的に「必然」である。だから、世界中の「日本以外」の国は、そういうところに原発を作らない。
日本が逆に、そういうところ「なのに」、原発を建てるということは、つまり、日本の政府は、

  • いつか原発事故は起きることは間違いない

と思っている、ということである。でも、日本政府は、原発事故が起きたって、賠償額を、ある程度の金額に抑えられるのだから
大丈夫
と考えた。日本国家は、国民のある程度の被爆(日本人の死)は、
たいしたことはない
と考えた。つまり、その程度の「日本人の死」は、「賠償額」の金額から見れば、
はした金
だから、
その程度の日本人なら死んだって(原発で殺したって)たいしたことはない
と考えた(国家の発展の踏み台として、国民のある程度の犠牲を、強いることを前提とする。こういう意味で、日本は、戦後の「後進国」マインドを一貫して、保持し続けてきた国といえるだろう)。
ところが、である。
福島レベルの事故になると、あまりに被害が大きくなってしまう。20ミリシーベルトの問題も、ようするに、あまりに被害地域が広すぎて、
補償額を払える自信がない
となると、途端に、国は、もにょもにょと、いろいろ言い訳して、国民生活に関わろうとしなくなる。しかし、こういったことは、ここでも何度も書いてきたことであった。国家も一つの
企業
であって、この資本主義世界のプレーヤーの一人でしかない。自分が危機に陥れられる可能性のある、それくらいの「責任」を背負わされる可能性があるとなると、とたんに国民生活に関わろうとしなくなる。
(言うまでもないが、「たかだかエネルギー」なわけだ。こんなもので、国民を危険にさらすなんて、馬鹿げてる。戦争じゃないんだから。だから、他の世界中の国々は、地震多発地帯に原発を建設しない。人の命と、エネルギーなど比べものになるわけがない。だって、いくらでも安全に、エネルギーを作れるし、実際に、日本以外の世界中の国々はそうやってるのだから。そんなに日本のエネルギーが信用できないんなら、どうぞ、中国に工場を作ってください。いずれにしろ、長期的には、選挙などを通して、日本の政府はより、「緑の党」的性格を色濃く持たなければ、国民の支持を得られない傾向を強めていくことになるだろう。)
企業は、どういったビジネス・モデルを勝ち取ることができると、儲かるか。
錬金術
を見つけたとき、と言えるだろう。では、錬金術とは何か。たとえば、先進国においては、あらゆることが「フェア」であることが、まず、すべての条件である。だれかを差別することが許されては、それは先進国とは言わない。あらゆることが、フェアであるから、国民はお互いの経済格差があっても、それは「平等な競争の結果」であるのだから、「しょうがない」と思うわけだ。
ところが、である。
そういった、先進国のお金持ちが、もし、後進国において、取引をやることになったとしよう。そのお金持ちは、もちろん、自分の国の先進国内では、平等な扱いを当然とする。ところが、その人が、ひとたび、そういった後進国で商売を始めようとしたとき、
どうしてフェアでなければならない、と思わなければならないだろう。
ここは、自分の国じゃない。自分の国なら、自分をフェアに扱ってもらうために、自分と他の国民の間は、フェアであるべきに同意できたとしても、だからといって、他の国でまで、自分はフェアに扱われなければならない、とはならないだろう。
むしろ、自分を
特別扱い
させれば、自分は間違いなく「儲かる」。

今日では、途上国でも労働関係の法律は一応整備されていて、最低賃金や労働基準の定めがない国などないに違いない。したがって、問題は法や基準が守られていないことにある。原因の一つは行政能力の弱さ----違反を見つけたり、なくしたりするのに必要な人員・態勢が不十分----にある(日本でさえ偽装請負や派遣切りへの対応能力は恥ずかしいほどに貧弱だ)。しかし、それ以上に大きな要因は、法や基準を尊守させる政治的意志が欠如していることにある。
大農園主ないし大地主はその国の特権階級、いわゆるエリート層(実権・特権を握っている者という意味)に属しているのが常だ。地方の名士である彼らは、地方議会や国会の議員をはじめ、知事や大臣、農業から製造業、銀行業に至るまで主な産業を支配下に置き、有力ファミリー同士、婚姻関係で密接に結びついている。そうした中で、大農園主が法や基準を犯したとしても、政府が「仲間うち」の違反を追求する政治的意志を持つことなど「ありえない」話である。議会や政府が当てにならないならば裁判に訴えて、と思われるかもしれないが、裁判官も政治的な任命であったり、エリート層から買収されたりで、とても司法に正義を期待できないのが多くの途上国の現実である(正義を貫き通そうとする裁判官には身の危険が及ぶこともある)。
零細な生産者の窮状に対しても途上国政府の多くは冷淡である。彼らを守ったところで特権階級が得るものはほとんどない。それどころか、自営農や小作農(大地主から土地を借りて耕作する農家)の境遇改善に手を貸して彼らが力をつけるこにでもなれば、自らの地位が危うくなってくる。仲買人たちも心得たもので、詐欺的行為や法外な高利が摘発されないよう、地域の警察や政治ボスに「鼻薬」を嗅がせることを怠らない。

フェアトレードとは、こういった、さまざまな
末端
の「非力」な立場の人々を、
まったく別の「理念による」サポート
によって、外部的にコントロールしていこう、というかなり野心的な経済活動と言えるだろう(生協のようなものをイメージしてもいい)。
たとえば、発展途上国プランテーション農場で、コーヒー豆を作っている人がいたとする。しかし、彼には、そういった生産した農産物を市場に持って行くトラックをもっていない、とする。そこで、仲買人に売ることになる。しかし、学歴もなく、借金に生い立てられる毎日で、勢い、仲買人との交渉は、
圧倒的に不利
となる。口先三寸で、言いくるめられ、泣き寝入りも往々にしてあるだろう。一人は弱い。しかし、「みんな」で固まり、団体で交渉したら、どうだろう。
たとえば、NGOが、こういった農家の方々の産物を直接、消費者のご家庭に、届けるわけだ。
一切の仲買人を介すことなく。
そうすることで、売れた場合に、「直接に」生産者が、それなりの報酬となるような分配を可能にする。
そうすれば、消費者も多少お高くても、こういった形で買うことで、生産者の方が、「それなり」の金額の報酬がもらえるなら、これを
フェアな取引
として、「納得」して「いいことした」くらいに思ってもらえるかもしれない。
つまり、こういった、フェアトレード的な生協的活動は、こういった活動を通して、さまざまな資本主義的な、経済活動の
ひずみ
を、「人間の知性によって」市場を「コントロール」することによって、フェアトレード
セカイ
の実現を目指す活動と言えるだろう。もちろん、こういった活動は、発展途上国だけでなく、貧困化が著しく進んでいる、この日本でも重要である。
市場活動は、たんにそれに任せるなら、さまざまなひずみが生まれることは、必然であるとするなら、この21世紀において、人間がやることは、こういった
市場のコントロール
と言えるだろう。人間社会に、どうしても、こういった野蛮なムーブメントが生じるとするなら、我々文明人のやることは、その「制御」である。
日本国家という
企業
も、伸張著しい東アジア各国、BRICs の急成長を前にして、日本の相対的「貧困化」の進行に対し、日本国家は、消費税の増税などによって、生き残りを計る。しかし、それは、必然的に貧困層のより一層の生活苦をもたらす。政府が、消費税という、逆進増税にこだわるのは、そもそも、国家を操作する側の大企業の人々が、富裕層で固められていることと「同値」である。日本においても、こういった
階級
のより大きな対立の先鋭化が進むことは間違いない。こういった動きに、なんの抵抗もせずに、指をくわえて見守るだけだとするなら、それは前時代の態度であろう。これからは、
監視とコントロール
による、市場の「フェア」を、人間の手によって実現することを目指されるセカイ(しかし、それは一体、どういった経済システムなのか...)。しかし、これは経済に限る話ではない。もっと、人々は生きやすくなっていいはずではないのか...。

フェアトレード学-私たちが創る新経済秩序

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