入間人間『電波女と青春男 SF(すこしふしぎ)版』

テキストとはなんなのだろうか?
文学において作品とされるものに対して、二つのアプローチがある。一つは、その作品を書いた「その人」の生態から迫るものだ。その作家はどんな生い立ちなのか。その作品を書いていたとき、どこにいたのか。毎日、どんなものを食べていたのか。こういった方面から、
その作品の作者のメッセージは何か
に迫っていくアプローチである。その作者は、なにかを言いたくて、その作品を書いたのだろう。その言いたかったメッセージはなにか。作品とは、それのための、一つの「証拠物件」でしかなくなる。作品は手段の一つとなり、我々は、一つの推理(アブダクション)の、過程において、その作品を「通過」するという意味しかなくなる。
ところが、もう一つのアプローチがある。その作品をテキストとして扱う、ということになる(これを、解釈学と言ってもいい)。たとえば、ある作品があったとき、いったんその作品の周辺を忘れるのだ。作者がだれかも忘れる。ひたすら、その作品の内部の
内的連関
にだけ、関心を局在させる。ひたすら、その作品内の主張の整合性だけを考える。こっちでこんなことを言っているが、これは、あっちのこの発言の応答になっている、というような...。「なぜそう書かれているのか」このように人は問いたくなる。しかし、あえてそういった問いを封じるわけだ。そうあるのだから、そうある。
こういったアプローチをすることで、どういった利点があるか。テキストの外部をそのテキストの意味連関の解読の文脈に導入すると、結局、
「その作品」性
が曖昧になってしまう。どんなに、その作品において「こう書いてある」としても、外部を認めた途端、「でもそれってこういうことなんでしょ」という臆断が横行してしまう。
ひとたび、作品の外部を認めてしまうと、そういった超越的判断を抑止する経路がなくなる。解釈者は、その作品を読んでいて、どうも自分の「常識」から、スムーズに読めない場面につきあたるたびに「この作者はこういう思想を持ってたのだから、こんなことを言うはずがない。きっと、なにかの間違いなのだろう」と、どんどん解釈をねじ曲げて、曲解されていく。
後者のテキスト読解において、その作品をただ、それだけで解釈しようとするということは、結局のところ、何が起きていると言えるのだろう。つまりは、
読者の読解
に、すべての「判断」を任せてしまった、ということなのだ。作品は「その」読者の数だけ、解釈がありうる。そして、そのどれが、正しいという言い方に意味はない。
こういったアプローチは、どこか、数学基礎論に似ていなくもない。
数学とは何か。一回、こういった神学的な解釈を忘れて、とにかく、数学という名の下に、人々は
何をやっているのか
だけに注目する。そうすると、そこには、多くの「証明」と呼ばれている、文字の羅列の存在が浮かび上がってくる。大事なことは、その「内容」を考えてはならない、ということである。そのそれぞれが何を言わんとしているのかを「一切」考えないようにして、とにかく、そのそれぞれの文字の羅列相互の連関だけを見ていく。すると、そのそれぞれの、文字の羅列の間には、ある「規則」が発見されていく。
テキストもそうである。
いったん、その文章内のそれぞれのメッセージの意味を忘れるのである。そして、ただひたすら、そのテキストを読解していくことで、ある前半と後半の関連が、その読者の読解の中から浮かび上がってくる。
つまり、作品の中から、ある「(数学的)モデル」を抽出してくる作業と言えるのかもしれない。驚くべきは、なぜ、そのようなモデルを読者は発見することになったのか、であるが(カントで言えば、我々はこの現実世界にある形式を「投げ入れる」)、それはひとえに、読者その人そのものの
歴史
と関係がある。
こういったテキスト論の特徴は、徹底した作者の読者に対する「無力」である。結局のところ、作品がどのように読まれるかにおいて、作者にはなにもできない。読者の読まれるに任せることしかできない、ということであろう。しかし、こういった非歴史的アプローチは、一見非現実的に思われるかもしれないが、それゆえに、発見されるなにかもありうる、ということなのだろう。
ラノベ小説として、今テレビアニメが放送されている「電波女と青春男」を、読者はどのように読めばいいのだろうか。
著者も後書きで言うように、一巻と二巻以降には、ある「断絶」がある。

さて。
偶(たま)にですが、このような指摘をされます。『この本ってさー、一巻とその後でキャラの性格色々と違わない?』まったく持ってその通りです。

電波女と青春男(7) (電撃文庫)

電波女と青春男(7) (電撃文庫)

もちろん、こういった指摘は凡庸で、商業ものは、好評だったから、連載化が許されるのであって、許されるというか、出版社側が結果として、連載を求めたということでしょう。
一巻は、どこか「黙示録」的な印象を受ける。なぜ、丹羽真(にわまこと)は、藤和エリオ(といわえりお)と、自転車で海に飛び込むことになったのか。もちろん、その説明らしきことは、物語としては描かれる。しかし、その説明がどこまで、説得的であるかと問うてみると、はなはだ、こころもとない。
しかし、この一巻を読んだ時点で、読者はそういったもろもろを、ミステリ的伏線(はやりの言葉で「フラグ」)と解釈する。
しかし、読者にとって、それ以降の、二巻から八巻の結果は、そういったもろもろに応えるような内容であったのだろうか。
二巻から八巻の展開は、この作品特有の部分を除けば、非常に「ラノベ」的と言いたくなる、お決まりのルーティーンだったと言わざるをえないだろう。
涼宮ハルヒの憂鬱」において、作品は、結果として、高校生が学校で経験する、さまざままな定例行事を、ルーティーンとして「こなす」ことになる。それは「けいおん」のような漫画でもなんでも、学園ものと呼ばれるものは、基本そうだと言ってもいいだろう。基本的に、この作品も、その形をたどり直すことになる。
しかし、どうだろう。なぜ、藤和エリオの行方不明だった半年の記憶はないのか。藤和エリオは、話の展開から考えるなら「復学」するべきとしか思えないが、なぜ作者はそれを示唆するだけで(八巻で、エリオが宇宙飛行士を目指すなら、復学すべきじゃないのか、という真の質問に「微妙」と答えているわけで)、そういった形を描かなかったのか。
どうしても、この作品自体の「生煮え」感が拭えない。
二巻以降の「ラノベ」的ルーティーンをどうだとか言いたいわけではない。むしろ、書かれるべきでありながら、あえて作者によって書かれなかった何かが、気になるわけだ。
たとえば、主人公の丹羽真は、クラスの生徒たちと、どういった関係にあったのかは、ほとんど書かれない。書かれるのは、リュウシさんと前川さんの二人とのからみだけ。
これは異常である。
一巻の作品の主題は、明らかに、エリオが退学に追い込まれていく過程にあったはずである。そこで何があったのか。それが描かれることはないが、間違いなく、エリオのいとこである真は、クラスでなじめない、立ち位置にある。つまり、彼は、終始、クラスで孤立していたはずなのだ。
本来、この作品は一巻の時点では、主題は、エリオという、半年、行方不明になり(この作品のSF的背景を考慮しなければ、さまざまな不幸な暗いバックグラウンドをここに想像できるだろう)、戻ってきても、クラス内でのさまざまな軋轢(つまりは、イジメだろう)があり、あっという間に、中退し高校を辞め、引きこもりのニートになる、その
暗いいきさつ
にこそ、この作品の真骨頂があったはずなのだ。本来そここそが、徹底して描かれなければならなかった。
一巻において、エリオは、どう見ても、普通の女子高生である。ところが、二巻以降、著者はエリオを「幼児」化させる。母親っ子の、純粋キャラとして、その純情っぷりばかりを強調するようになる。
それは言わば、作品の主題が、エリオでなくなったことを意味する。エリオは、この作品において、脇役的な「手段」的位置付けに変わっていた。つまり、作品の
主題
が変わったということである。
こういった事情を補完する意味で、「SF(すこしふしぎ)版」の位置付けは重要である。

「きみって、藤和エリオの友達かなにかなの?」
真はそこで顔を上げる。そして。
平然とした表情で、嘘をつく。
「え、それなんの話?」
自分の声なのに、それは耳も骨も、なにも揺るがさなかった。
言った途端、真の頭は潰れていた。
少なくとも真の認識では、頭の中身の左半分が潰れたように重々しくなっていた。
目の前に立っている男子生徒が遠くなり、教室の輪郭が曖昧となる。真は自分が今、どんな表情を浮かべているか分からなくなる。男子は尚も話を聞き出そうとする。
「いや、だって見たぜ、藤和が籠に載ってるの」
「んん? だから、なんの話だ。トウワッテダレダヨ」

「SF(すこしふしぎ)版」は、一巻のリメイク版となっている(作者自身がそれを、エヴァの映画版に例えているように)。しかし、そこには「差異」がある。その一つがこの、丹羽真が、

をつく場面だろう。嘘は、村上春樹の小説においても、重要な位置にあった。丹羽真は、これ以降、完全にクラスで孤立するが、丹羽真はそのことにいらだちながらも、そのこと自体を決定的ななにかとは受けとらない。
エリオがクラスでいじめられ、退学し、ニートとなり、そして、転校してきた、いとこの丹羽真も、シカトといういじめの導入部を「再現」することになる。
たとえば、どうして、高校において「退学」が認められているのだろうか。それは、高校以降は「義務」じゃなくなるから、である。しかし、だれでも、高校に入学したときは、その高校を「卒業」したいと思って入ったのであろう。そうであるなら、退学という結果は、相当の理由がない限り認められるべきではないのではないか。
たとえば、クラスの全員が、ある一人をウザイということで、全員でシカトして、陰湿なイジメをして、
自主退学
するまで、執拗に攻撃したとしよう。この場合の問題はなんだろう。もちろん、クラス全員の非人間性なのだろうが、むしろ、問題は一点で、
いじめられた子供が高校の教育を受けられず、中途で退学した
こととプラグマティズム的には考えるべきである。なぜなら、そのいじめられた子供も、入学時点では、普通に卒業したいと考えていたにきまっているから、である。これは、親の金銭的な事情で、高校卒業をあきらめる生徒のケースも同型で、ようするに、
高校の「目的」はなにか
が問われている。高校は、なにがなんでも、生徒を卒業させなければならない。別に、クラスに来ないで、家で引き籠っていても、勉強ができないわけじゃない(そもそも、そういった陰湿なイジメという「犯罪」が原因なら、ひきこもりの子供の責任でない可能性だってないだろうか)。クラスでの人間関係がこじれて、学校に来れなくても、勉強は部屋でもできるのだ。なぜ、そういった生徒への「教育」を先生は、放棄するのか。
なぜ、高校はあるのか。
生徒を「卒業」させるため。
生徒を卒業させることを、あきらめた、教師は、ドラッカー的な意味で「顧客」を失ない、その使命が終わった組織でしかないことを意味するだろう。
たとえば、エリオの「幼児」化において、母子家庭との関係を読みとることもできる。村上春樹が自らの小説において、こだわったものに自分が「一人っ子」であったことがある。彼は一人っ子はどこか「異常」なところがある、という見通しにおいて、小説の「僕」を描く。彼は自らが書く小説における「僕」の「異常」さに、自覚的であったことを認識する必要がある(主人公の「僕」がスムーズな人間関係のために、他人に嘘をつくことに積極的なのも、ここに関係する)。
エリオのマザコンぶりは、父親を知らずに、一人っ子で育った、おいたちを考えたとき、ある必然性を示唆している。子供が母親を、ママと呼んでいたのが、ある日から、お母さんと呼び始めることは、どこか
異常
である。「ママ」であったものをママと呼ばなくなることは、その連続性を考えたとき、大きな断絶がある。もちろん、なぜ呼び方が変わるのかといえば、
社交性
にある。社交的にだれもが成長とともに、多くの他者と社交するようになり、母親をその「常識」に、解釈し直すわけだ。つまり、大人になるというわけだが、そうやって多くの人々と、母親は「相対化」される。
しかし、言うまでもなく、産まれて成長するまで、子供にとって、母親だけが、自分の話し相手であり、自分を世話してくれる、自分の「相手」である。そうであった存在を、そうでない存在に「する」ことには、大きな断絶がある。
しかし、その家族の家の中においては、この関係が壊れる要因はない。二人以外に存在しない、この閉じた、クローズドなセカイでは、
なにも変わらない。
結局のところ、作者はエリオを「なにもの」と描くことに失敗したと言わざるをえない。

砂を拭い終わると、エリオが砂浜に両指を突っこんでかき分け始めた。真の作った出来の悪い足場に砂を注ぎ足していく。水色の爪先が土をかく度、薄い青色の軌跡を描いた。
「なんだよ、そんなこと言って俺の意見を採用するのかよ」
真が嬉しそうな声色で呆れてみせると、エリオの無表情が睨みを利かせてくる。
「宇宙人に地球人なりの意見を提供したことを尊重し、イトコを使役することにした」
「んー、つまり、ありがとうってことだな?」

なぜ作者は、エリオの高校への復学を描かなかったのか。それは、そもそも今の高校の体制が、復学を許すようなシステムになっていないことと大きく関係するだろう。そもそも日本の学校は、なんのためにあるのか。子供たちの「弱さ」を考えるなら、退学した子供が、また、もう一度、学校に来たいと思うことは
当然
に思われる(なぜなら、少なくとも、入学の春には、卒業したいと思っていたはずなのだから)。そうであるなら、教育者であるなら、なんとしても、復学を認めるべきなのだ。しかし、そういうシステムはない。停学ならまだしも、退学の復学の制度はない。そもそも、日本の学校システムは子供のための制度ではないのだろう。そういった、子供の「弱さ」を容認するようにできていない。
非人間的
なシステムと言わざるをえない。
では、真にとって、クラスでの孤立やイジメに対抗する、手段はなんだったと考えるべきだろう。そういった私の疑問の答えを、なにげに示唆するのが、以下の会話である。

『ん? にわち、学校じゃないの?』
「ああ、今日はサボリ」
『お、ニワルだねー』
ひゅうー、と星中の間延びした息が聞こえる。口笛を吹くのに失敗したようだ。
「意味が分からん」
『にわちのワルの略』
「分かったけど、やっぱりお前は分からん」
『にわちは現国の成績悪いからねー。で、お出かけってどこ行くん?』

丹羽真が、クラスでの孤立、イジメに対抗する手段は、その「国語力」と言っていいだろう。彼は自らを、徹底して、文章化し解釈する。この客観的状況に、いらつきながらも、それを「国語」力により、記述し、相対化する。子供の頃、サッカーをやっていながら、一度もレギュラーになれず、試合に出れなかったことを嘲笑的にニヒルに回想する彼は、その頃の「自らの」感情を相対化する。そこになにか普遍的な意味でもあるかのように...。
(この作品で描かれなかった「答え」は、作者の別の作品において、提示される、と考えていいのだろう。)
それにしても、この作品での、丹羽真と藤和エリオの、「戦い」は勝利したのだろうか。なんとも、玉虫色のこの最終回において、やはりここは、この作品のトリックスター。困ったときの前川さん。違った、マエえもんの言葉に耳を傾けてみよーじゃないか。

『おーいまことくん。今日の昼休みは何を話してたんだい?』
『え、大したことじゃないんだけどー』
『困った時にはこのマエえもんに相談してごらんよー』
『えー......じゃあまぁ、マエえもーん、助けてよー』
『どうしたんだいまことくん、またチュパカブラ(♀)に血をカツアゲされたのかい?』
『エリオちゃんに買っていくプレゼントが決まらないんだよー』
「ははは、きみはほんとに馬鹿だなぁ。よーし、困った時のマエえもんがきみを助けてあげるよー、ついといで』
デフォルメすればこんなやり取りがあって。
で、まぁようするに前川さんのバイト先である和菓子屋(火星儀)へ連れて行かれて商魂逞しくわらび餅を勧められた、とそれだけなんだけど。

電波女と青春男〈2〉 (電撃文庫)

電波女と青春男〈2〉 (電撃文庫)

まあ、こんな作品です。