清水浩『脱「ひとり勝ち」文明論』

都道府県は、
使えない土地
をたくさん持っている。「なににも使えない」土地。とりあえず、

使えない土地。これを有効利用「できる」(原発以外で)となるなら、各都道府県にとって、もしかしたら「魅力的」なのかもしれない。
使いたくても使えない土地。
畑や田んぼには、どう考えても無理そうだ。また、今回の東日本大震災で、がれきだらけになった、海岸沿いは、復興するにも、ちょっと住む場所としてどうか。
じゃー。
その上に「とりあえず」ソーラーパネルでも置いとかね?
これが、ソフトバンクの孫さんのアイデアであるようだ。ここでおもしろいのが、「とりあえず」というところだろう(なんか別の使い道で、いい案が思いついたら、そのパネルを撤去して、別の場所に移してもいい...)。

皆さんは意外に思うかもしれないけれど、生き残る技術は、ひとつです。
そのひとつが、太陽電池であるということは、たいていの専門家ならわかっているわけです。このことは、97ページの「自然エネルギーの評価」を参照していただければわかります。
それなら、「従来のままの燃料だとか、さまざまな発電方法だとかを捨てて、早く太陽電池の世界に入っていくべきじゃないのかなぁ」というのが、ぼくのメッセージなのです。
これまでの日本は、太陽電池、バイオ発電、風力発電水力発電、火力発電、原子力発電......どれもこれもに「バラまく」というやり方で予算を投入してきました。そのため、国際競争力もないまま、社会もよくならないまま、という状況を招きかねないところにきました。
なぜ太陽電池が生き残る技術かというと、大量に作れば、他のエネルギーを得る方法に比べて、電気代がものすごく安くなるから、です。同じ社会で同じ時代に同じ目的を持った技術で生き残れるものってひとつなんですけど、それは、便利で価格の安い技術を、ほとんどの人が「コレを買いたい」と選択していくからです。
それから、太陽電池を作るための資源は無限にあること、これを使うためにむずかしい技術もいらないこと、世界中のどこでも使えるということ、これを普及させることで新たな問題が発生する心配のないこと、こうしたことなども、主流になっていくための大きな理由にあげられます。

それにしても、なぜ、太陽光パネルなのだろう。

量子力学の教科書をながめてみると、最初のページから、「光は波だったり粒だったりする......」などと、むずかしいように思えるものです。
だけど、そう、むずかしくとらえないで、量子力学については、「原子の中身と、分子の中身を理解するための学問」と、大雑把にとらえてみたら、理解しやすいのではないでしょうか。
当初、原子は分子に比べてよりシンプルなので、その中身を理解しやすかった----そのことによって、原子力原子爆弾原子力発電といった技術が、二十世紀に生まれた。
その次の時期になって、原子が複数個集まってできる分子の中身をながめた結果、生まれたモノこそ、二十世紀のなかばから後半にかけての、いろいろなすばらしい発明なのです。
トランジスタも、太陽電池もそうです。
これらは、量子力学の中の半導体の原理にもとづいて生まれた技術でした。
トランジスタというものは、N型とP型とN型という三つの半導体をサンドウィッチ状にくっついたものですね。簡単に説明するなら、小さい電流を流したら、別のところからドバーッと大きい電流が流れるという性質を持っているものです。
太陽電池のもとになっているダイオードは、N型とP型の半導体でできています。
「光を当てたら電気が出てくる」
「電気を流したら光が出てくる」
そういうおもしろい性質を持っているダイオードの「光を当てたら」を使っているのが、太陽電池です。

つまり、言いたかったのは、太陽電池自体は、みなさん、電気屋でいろいろな商品にくっついて売ってるわけで、少しもめずらしいと思わないでしょうけど、これ自体は、非常に
最近
の技術だということなんですね。コンピュータと近くて、近年になって、どんどんでてくるようになった。原発はいわば、トランジスタや、太陽電池、の前の世代のテクノロジーだと考えればいいのではないでしょうか。トランジスタや、太陽電池を決定的に世にださせたものこそ、
量子力学
の、戦後の実用面での急速な発展、ということなのでしょう。このことは、非常に重要ななにかを示唆しているように思えます。
原発世代にとっての、青春時代には、まだ、量子力学の本格的な実用化は目に見えていなかった。つまり、トランジスタ太陽電池が、彼らの後の世代の技術だとするなら、彼らの青春時代に見えていなかった技術が、前の世代のテクノロジーを追い越していく可能性はないだろうか。つまり、世代交代。
もちろん、言うまでもないことですが、太陽は昼間のそれも晴れている日でなければ、顔を出さないわけで、そう考えると、非常に重要なことは、
エネルギーの集配力のテクノロジー

そのエネルギーの定常性を保てるテクノロジー
となるだろう。ある場所で電気が大量に余っていて、他のところでは、電気が足りない。それが分かったなら、その余っている分を、そちらに「おすそ分け」すればいい。その場合に、電気の定常性、品質をどのように保つか(または、多少定常性、品質が劣る電気でも、端末側が誤差補正して、問題なく動かせるようにするか)。問題はこれをどのように、テクノロジー化するのか。今後は、こういった「省エネ」「効率化」のテクノロジーの競争がより加速するだろう。
しかし、その前に、言うまでもなく重要なのは、蓄電技術、つまり、電池なのだろう。
これについては、掲題の著者は、リチウムイオン電池を以下の理由で推奨する。

リチウムイオン電池というのは、「今後、二十年ぐらいは、これ以上のすばらしい電池は出てこない」、最高峰の電池なのです。
この数十年の電池の技術の歴史を見ると、発明から産業化まで二十年ぐらいかかります。ですが、現段階で、リチウムイオン電池を超える発明はまだ出てきていません。

つまり、他の技術による電池が生まれることを、「とりあえず」考慮せず、リチウムイオン電池に思いっきり投資してもいいのでは、と。
もちろん、多くの有識者が指摘しているように、現状、こういったテクノロジーは高価であって、価格競争力で話にならないように思えているかもしれない。しかし、
フェアトレード
を考えても分かるように、原発のような、ちょっと地震で事故になるたびに、自分たちの生まれ育った街を、手放さなきゃならない場所に変えられるようなものから、
安いですよー
と言って、電気をもらって、おもちゃで遊ぶのと、ちょっと、お高くても、持続可能性のある未来のテクノロジーによって生まれた電気で、おもちゃを遊ぶの、
どっちが楽しい
ですかね。ある種の、我々の「裕福な」価値観が、こういったものを選択するなら、日本にも再度の持続可能「太陽電池」テクノロジー立国を目指せるのかもしれない。
私たち日本人は、長い間、自分を中間階級意識のなかで、発展してきた。しかし、実際に、お金持ちとまではいかなくても、それなりに、裕福な生活をしている人たちが一方にいながら、他方において、かなりの貧困にあがいている人たちがいる。そうした場合に、前者の振る舞いとして、どういったものが
社会的に賞賛されるもの
だろうかと考えたとき、たとえば、前者はできるだけ、後者の「売る」ものを買うことで、彼らにお金が回るように振る舞うことではないか、とか、今回の太陽パネルにしても、多少高くても、それによって、日本のテクノロジーの方向に寄与するなら、と、
後者の方々ではやりたくてもやれない
より推奨される行動を、前者が率先して行う、こういったことが、いわゆる
フェアトレード
的な理念と言えるだろう。今回の震災で被災された人々は大変であると思うなら、彼らにはお金が必要だと思うなら、まず、彼らが売ろうとする、商品を、こういった前者の人たちが、
率先して
買う(だって、こういったことは後者の人たちには、やりたくてもお金がなくて、できないのだから)。まさに、ノブリス・オブリージュの理念と言えるだろう。
しかし、こういった方向に向かうには、もう一つ、困難な壁がある。

このコンセプトは、クレイトン・クリステンセンの研究成果『イノベーションのジレンマ』という本に書かれています。
イノベーション、日本語でいう技術革新には、「持続的イノベーション」と「破壊的イノベーション」の二種類がある、というのです。
持続的イノベーションは過去の技術の延長線上で発展するけれど、破壊的イノベーションはまるで異なる原理の技術だ、ということです。

さきほど触れたクリステンセンは、次のようなことを言っています。
「すでにある優良企業は、持続的な技術については、開発、商品化に、成功をおさめ続けるけれども、破壊的な技術については、失敗してしまうものだ」、と。
その理由は、設備の投資、技術の蓄積、人員など、これまでのものは要らないものになってしまうからだけではない、と言っています。
クリステンセンによれば、すでにある企業はバリューチェーンに組みこまれているということなのです。
バリューチェーンとは、クリステンセンの定義によれば、製造業でいうと、原材料を作る会社、それを加工して部品を供給する会社、それを組みたてる会社、流通とサービスをする会社、それに顧客が、ひとつの輪の中に組みこまれていて、おたがい、利益が出る構造ができているということです。
自動車産業も、数多くの部品会社とアセンブリメーカー、販売会社、修理会社、それから、顧客が強い結びつきを持って、産業を支えているわけです。
そのため、このうちのひとつのアセンブリーメーカーが、たとえ、破壊的技術を主役にすえようと思っても、バリューチェーンから抜けだせにないというようなことが起きるというわけです。

分業というのは、近代経済の基本中の基本のアイデアであるが、ひとたび、「破壊的イノベーション」が始まると、恐しいまでの
抵抗勢力
となる。当然だろう。自分たちのさまざまな、企業努力はへたをすると、その日から、無用の長物となりかねないわけだ。今日から、なにで食べて行ったらいいのか...。
原発にある村は、毎年、膨大な補助金をもらえるから、裕福な生活をしていた。それが、ある日から、原発廃止と言われて、一円も入ってこなくなると分かったら、どうして抵抗しないなどということができるだろう。
まだ使える。
まだ動く。
もう一基作れ。
しかし、もうその技術は過去のものとなったのなら、一線を退いてもらうしかない(たとえば、CD以前のレコードを近頃はめっきり見かけなくなったように...)。
(経済学は、こういった、技術革新、層転移をどのように「ソフトランディング」させるのかを、理論化してきたのだろうか。非常に有望な企業が、ある日を境に、役割を終える。そうした場合に、そういった企業で働いてきた人たちをどのように扱うべきなのか。こういった部分に、それなりの答を用意してなければ、国家の新陳代謝は生まれないのではないか...。)
そうした場合に、こういった変化の方向を一つ見極めるものがあるとしたら、なにか。

それに、やはり変化したほうが、確実にエネルギー効率がいいわけですからね。

しょせん、地球とは、一つの熱循環システムであって、私たち人間の活動もその中で位置付けられるものでしかない。こういったシステムのエントロピーこそが、私たちの行動の規範になることは、必然である(まるで、ヘーゲル弁証法のようだが、たとえば、

エコノミーとエコロジー

エコノミーとエコロジー

などは、けっこう昔から、マルクスが分析した「経済学」を、さらに俯瞰するような形で、そういった地球熱循環システムの位相において位置付けるシステムを示唆している...)。
それにしてもなぜ、掲題の著者は、こういった方向を脱「ひとり勝ち」と呼ぶのか。

太陽電池の効果は、「地球の地表面積の一・五パーセント」に、太陽電池パネルを貼れば、世界中の七十憶人が「アメリカ人と同じくらいの裕福なエネルギーを使えるようになる」というものです。

エネルギーこそ、地球という熱循環システムに組込まれ生きる、人間の永遠のテーマだとするなら、上記のような方向には、人類社会の恐しいまでの野望が秘められている、ということだろうか...。

脱「ひとり勝ち」文明論

脱「ひとり勝ち」文明論