顧客の「支配」を欲望する「グローバリズム」

(ダイアモンド社のサイトにある以下の記事は、私が考える日本社会の未来のヴィジョンを、より経済的裏付けをもって、描いてくれたように思う。
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私たちは、貨幣を「超えた」交換が今後、非常に増えていくのではないか、と予想している。それは、ネットが基本的に「フリー」が普通になってきている現状が、そのことを予想しているように思う。

  • さまざまな交換が、貨幣を介すことなく、行われる

というイメージは、強烈な「眩暈」のようなものを私たちに感じさせる。こういった世界が徹底した後に現れる世界とは、どういったものなのだろうか。
城南信用金庫が、いち早く、脱原発を宣言したことは、私たちに、そういった地域的な(共同組合的な)金融の「かなめ」の可能性を感じさせる。
おそらく、上記のような、

  • 「貨幣」を介さない交換の「王国」

は、まず、そういった城南信用金庫のような、地域の意識の高い金融センターを「入口」として始まるのではないだろうか。現在の資本主義社会で、どうしても「貨幣」を介した交換を「強いられる」のであれば、その
緩衝材
はこういった金融センターが「まずは」担うことは、当然考えられるのではないか。)
私たちは、安ければ安い方がいいので、みんな安いものを買う、と思っている。しかし、言うまでもないことだが、安いものとは、
一つ
しかないわけで、ということは、みんなが「同じ」安いものを買う、ということになってしまう。「合理的」にそうなる、というわけだ。しかし、もしそうなったら、ある一社だけしか、生き残れない、ということを意味するだろう。だって、そこの商品しか売れない、ということなのだから。ということは、他の企業は、儲からないということになって、店をたたむ。すると困ったことに、その商品を売るのは、その企業だけになってしまうわけで、すると、その企業は、業界の相場を無視して、自分の言い値で売れるようになり、いくらでもその商品は高くなってしまう。
これが、独占禁止法で禁止される状況というわけだが、ところが困ったことに、みんなが「普通」に振舞うと独占になる、というのだからさて、どうしたものかね。
グローバリズムは、これを、地球上全てで行う、というところにある。たとえば、みんなが、iphone を買っているという姿を想像できるだろうか。
地球上
のケータイやスマホをもっている人は「全員」が iphone を使っている、と。どうせ他社の製品は、iphone に「劣る」んだから、と、みんな iphone しかもっていない(私は断定まではしないが、あそこまで売れるんだから、「ある方向から見るなら」それはある真理の一面を説明しているのだろう)。他社も、iphone 以上の商品が作れないのだったら、この競争から撤退する、と。
しかし、一般にそうならない。それは、独占禁止法が禁じるから、というより、いつでも天邪鬼な人がいる、ということより、たんに
地元の「信頼」できる人が進めてくれたから
というケースが多いのじゃないだろうか。私たちはそういった人々との個人的な繋がりの中を生きているのであって、別の機種を買った方が、あなたの場合はいいんじゃないか、と勧めてくれた人がいたから、その人を「信頼」して、買うのだろう。
ここで、顧客という存在について、あらためて考えたい。
言うまでもないことだが、商品売買の現場は「実名」である。しかし、だからといって、「ソーシャル・コミュニティ」が、実名主義者になることを「強制」することは、そもそもの
顧客
の定義に反するであろう。ドラッカーの組織論において、組織にとって「顧客」は、組織が「強制」したり「支配」したり「マインドコントロール」を目指す相手ではない。
逆である。
組織「が」顧客によって、そうされる、のである。組織とは「顧客」によって、始めて、
定義
される、というのがドラッカーの組織論であった。顧客の存在しない組織とは、そもそも定義矛盾だということなのだ。
たとえば、近年、「匿名論争」が、いつまでも収まらない。そういった中で、前の記事で紹介した著者の態度ははっきりしている。そもそも、組織が顧客の「匿名」を「拒否」する権利があるだろうか。少なくともそれは、ドラッカー的な組織論から生まれるようには思えないだろう。なぜなら、それでは、
組織が「顧客」によって定義されない
からで、顧客を組織がいくらでも定義できることになってしまうから、である。

たとえば、子どもの写真やよく行く公園を紹介しただけでも、誰かが子どもに名前を呼びかけて接触することはたやすくなる。今後、このような個人の情報開示にともなう事件が多発するだろう。そのようなリスクを負ってまで、なぜ情報発信をするのか? その動機が問われるようになる。ほとんどの個人はそのような動機を持ち合わせていない。そのリスクを承知で舞台に立てるのは、先にような一部の有名人のように、名前を売ることが自分の利益につながるような立場の人である。実際、実名性を擁護している人を見てみれば、地位も名声もお金もある人が多い。しかし、それができない人たちの声こそ大切なのではないだろうか。むしろ現代の評論家、専門家、政治家、経営者、マーケターといった論客には、その声なき声に耳を傾ける姿勢こそ求められているのではないか。

ソーシャルメディア進化論

ソーシャルメディア進化論

著者にとって、大事なことは顧客の「本音」であって、それこそが組織を組織たらしめる生命線なのだから、そのためなら、多少の「炎上」でさえ、むしろ、求めるべきもの、となる。

さて、コミュニティの「荒れ」は、いざというときのための対処と、常連がつくる空気による牽制をもって抑えられる。しかし、より詳細に企業コミュニティの現場を観察していると、少しは荒れたほうが活性を見せるというようなケースにも遭遇する。異分子が出現することで、場の結束力が高まることもあった。あまりガチガチに対処や空気で縛るよりも、多少の荒れを覚悟で自由度を許したほうが場は活性する。クリアにしすぎてもダメだと学んだ。
ソーシャルメディア進化論

もし顧客を組織がいくらでも定義できるとするなら、それこそ「錬金術」であって、まさに東電のようなキメラ的存在になってしまうだろう。福島原発のような、あれほどの事故を起こし、それでもなにも起きていないかのように
存在
し続ける。そして今までの原発推進方針を変更しようという素振りもみせない。つっぱしり続ける暴走トラック...。
さて。
ソーシャル・メディアは、例えば、フェースブックにしても、非常に近しい、社会的な階級の近い人たち同士の付き合いを形にしているように思える。日本のような、学歴や家柄などによる身分的な色彩を残した、歴史の長い、伝統社会では、少なからず、個人は身分を帯びて存在するのだから、ということは、パブリックな場での、実名には
本音
はないと考えるべきだろう。だとするなら、企業はそんな意見をいくらもらっても、なんの役にも立たないだろう。だとするなら、匿名論争というのは、どこか、
優等生
の(先生へに好印象を目的とした)「おべっか」の印象を受ける。そんなことを強制されなければならない根拠は、この個人主義社会には存在しない。あるとするなら、民主主義プロセスをへての「強制」だろう。そんなに実名がいいなら、法律化を目指せばいいではないか。それが「社会正義」だと言うなら。
たしかに、そういう意見はありうるだろう。今の2ちゃんねるの、あまりの下品さは、お上品な生き方をしてきた人には、心臓に悪いだろう(実際、そこでは、細かく言えば、さまざまな人の権利を侵害していることは間違いないわけだろうし...)。
しかし、社会になんらかの強制を求めることは、それ相応の個人主義的な負担を覚悟しなければならない。2ちゃんねるの下品さは、私たちの実社会の下品さを反映しているのであって、みんな酒場などのパブリックなところでは、ああいった罵詈雑言であふれているわけなのだろう(それを文字におこそうとは、だれも思わないだけで)。
社会を国家の力で強制すれば、「良い」社会になると思う人は、国家主義者と言えるだろう。そういう人は、あらゆる場面に国家が介入することによって、むしろ「安心できる」と思っている。それにたいして、一つだけ言えるとするなら、
あなたの考える「国家」は非常に小さな数人
を指しているにすぎない、ということである。そんな数人が、日本中の人を「監視」しているわけで、その中のたった一人、にすぎない、あなたのために、どれほどの時間をそういった人たちはさけられるだろうか、と想像してみたらいい(こういう認識に「恐怖」したとき、人は自分を「特別」な存在と思わずにいられなくなる...)。そういう意味でなら、
国家など存在しない
のだ(存在しないのと変わらないのだ)。あるのは、どこまでも広がる国民のそれぞれの行動であって、結局は国民を自分が信用できるような社会を実現できるように、それぞれでそれぞれにとりくむしかないのだろう...。