小島毅『「歴史」を動かす』

日本で最も「遅れている」学問はなんだろう。間違いなく「日本史」だろう。
戦後、日本の教育は「自由」になった。つまり、戦前の歴史教育皇国史観であったわけだが、戦後はその軛から逃れたはずだ。ところが、どうだろう。歴史教育の内容はそれで変わったのだろうか。
ほぼ変わっていない。
そんなことがありうるだろうか?
私に言わせれば、最も「なにもやっていない」のが、人文系ということになる。どうして、そういうことになるのだろうか。言ってみれば、彼らはそういう、かなり「うさんくさい」ものを「暗記」することで、(超難関)大学という
高等教育
を受ける資格を獲得する権利を得てきたので、自分たちの「正当性」の源泉を「毀損」したくなかったのであろう。
いや。もっとこの議論は進められるのではないだろうか。高校の日本史は戦前戦中とほとんど変わっていない。ということは、その「精神」は戦前戦中にあるのだろう。つまり、むしろ戦前戦中の「精神」をビルトインすることこそが、こういった「分野」への親和性を高め、成績を好上昇させやすい傾向となっていたのかもしれない。

第一に参照されるのが、神功皇后の「新羅征伐」の神話です。神功皇后は『日本書紀』のなかでは天皇と同格の扱いをされており、明治までは天皇の代数にも数えられていました。水戸学の『大日本史』では神功皇后を外しているので、水戸学の考え方を取り入れて、明治になって神功皇后皇統譜から外していますが、『日本書紀』では神功皇后はしっかりと天皇と同じ扱いになっています。『日本書紀』の第九巻、日本にまだ元号がありませんので、干支で庚辰四月条に、
「謂群臣曰、......今有所征伐、以事付群臣」
とあります。『古事記』と『日本書紀』は、神話から始まっているので当たり前なんですが、合理的に考えると非常に不思議な書物です。神々による国造りから始まり、日本列島だけ造ったはずなのに、あるとき突然隣に土地が発見されます。つまり高天原の神々が造ったのではない土地が海の外に広がっていて、それが朝鮮半島なのです。神功皇后のときにその存在が知られるようになり、存在が知られるようになったら、さっそく征伐してしまおうというのです。なんとも自己中心的なお話です。
日本書紀』では、実際に新羅征伐を行います。日本国の神々の助けをもって、日本の軍船が波に乗って一気に新羅の都まで乗り上げるのです。波にのって陸地の奥まで入ってきた船を見た新羅の王様ま、恐れおののき、戦わずして降参したことになっています。
単に新羅だけではありません。『日本書紀』にはこういう記述があります。
「高麗・百済二国王、聞新羅収図籍降於日本国、密令伺其軍勢、則知不可勝」
つまり、新羅の他にその近くにあった高麗・百済という二つの国の王様が、新羅が自分の国の戸籍とか領土を印した地図を日本の王様に差し上げて降伏したという噂を聞いて、日本国の軍勢の様子をうかがわせてみたところ、とても勝てるはずがないということがわかった。そこで、
「......曰、従今以降、永称西蕃、不絶朝貢
今後は私どもは西のあまり文化が開けていない国(西蕃)と自称し、あなた様の国に絶やさず貢ぎ者を持ってきますと、高麗と百済の二つの国も新羅の王と同じように、神功皇后に向かって、誓ったと書かれています。
この逸話を裏付けるものとして、中国の書物の一文が『日本書紀』に引用されています。それは「中国に日本からの使いがきた」という記述で、実際に中国に使いを送っているのは三世紀前半の卑弥呼です。卑弥呼をモデルとして、三世紀前半を実際に神功皇后がいた時代としたのです。
日本書紀』の記述を仮に真実だとすると、神功皇后について書かれている『日本書紀』の第九巻、「庚辰四月条」の庚辰という年は、計算すると西暦二〇〇年ちょうどの話のはずです。
ところが、西暦二〇〇年に高麗、百済新羅という国々は朝鮮半島にはありません(ここの高麗は一〇世紀に建国された王朝ではなく、高句麗のことですが、それにしてもこの時期にはまだ存在しません)。これらの国々が競っていたのは、六世紀から七世紀です。有名な白村江の戦いが六六三年にあり、日本・百済連合軍が、唐・新羅連合軍に壊滅的な敗北を喫します。以後日本は朝鮮半島での力を失ってしまいますし、百済もその直後に滅亡する。つまり新羅朝鮮半島統一が成就します。ということは『日本書紀』の神功皇后新羅征伐のお話は、七世紀の国際情勢の反映なのです。
ではなぜ『日本書紀』に神功皇后の話を載せなくてはいけなかったのでしょうか。それは日本に住む人びとにとってというよりは、中国や朝鮮の支配者たちに向かって、「むかしから朝鮮半島は日本の属国だ」ということを、宣言するためなんですね。『日本書紀』は八世紀の初めに編纂されています。完成したのは七二〇年です。このときには、もう日本は半島に政治的な力を持っていません。だからなおのこと、むかしは日本が優位だったのだということを伝承として、お話として、神功皇后のところにつけたのです。
神功皇后の話は歴史的な事実ではありませんが、江戸から明治時代の書物や教科書では、神功皇后の「新羅征伐」、もしくは新羅、高麗、百済と三つの国があったので、「三韓征伐」とされていました。江戸時代や明治時代の日本人たちは、これを事実だと思っていたのです。もともと朝鮮は日本に貢ぎ物をもってくる約束をした国だというわけです。

戦後の平和憲法教科書が完全に抹殺したのが、
日本の創世記
つまり、古事記日本書紀を「歴史」として教える教育である。おそらく、戦後の教科書で、神功皇后を教えるものはないのではないだろうか。ところが、戦前戦中においては、それはまったく逆であった。

この意味は、非常に重要である。なぜなら、この「神話」を
自らの「血肉」にする
ことが、日本人が日本人である理由だったからだ。なぜ、日本人は「嫌韓」なのか。それは、「教育」が教えてくれる。
神功皇后神話を
信じる
日本人にしてみれば、韓国とは、日本の歴史の最初から、「日本に貢ぎ物をもってくる約束をした国」ということになっている。じゃあ、日本は彼らをどのように扱うだろう。そうやって自分から頭を下げて保護を求めることで、「できあがった」国なのだから、それ相応に、
保護
してやるというのが、天皇親政(神聖)国家日本の「仁政」というものだろう。彼らは「純粋な日本人」ではないが、同じ
天皇の下の子
であって、同じ天皇の下に集う臣下、だということになるだろう。
そういう意味では、日本人は韓国人への「親近感」をもっている。
ところが、その彼らが「ことあるごとに、反発してくる」わけだから、言わば、「弟分」が理解できない、絶対拒絶で来るので、親近感があるだけに、よけいに、「身内」の放蕩ぶりへの怒りが倍増し過激になる。
今でも、日本は韓国に「いいこともした」ということを強調したがる人たちが後を断たない。しかし、そういう意味でなら、すでに伊藤博文からしてそうだったわけだ。

伊藤博文は先ほどもいいましたが、日韓併合については懐疑的な人でした。彼が暗殺された直後に出されている原田豊次郎著『伊藤公と韓国』(日韓書房)という本があります。刊行は明治四二(一九〇九)年一一月で、伊藤博文が、韓国とどのように関わってきたのかをまとめた本です。そのなかに明治四〇(一九〇七)年七月、韓国に駐在している日本人新聞記者たちを相手に行った伊藤の演説の要旨が載っています。

呑噬は日本の意にあらず。韓国人動もすば日本の意を誤解す、日本は決して此の如き意志を有する者にあらず、素より之を敢えてする者にあらざる也。又今回事件の起生せるを機とし、韓国を合併すべしと論ずる日本人のありと云ふ。余は合併の必要なしと考ふ。合併は却て厄介を増すに過ぎず、宜しく韓国をして自治の能力を養成せしむべき也。縦令国富み兵強くなるも、韓国の戈を倒にして我に打ちかかり来るが如き憂いはなかるべし。韓国の富国強兵は日本の希望する所なれども、唯一の制限は韓国が永く日本と親しみ、日本と提携すべき事即ち是也。かの独逸連邦ウルテンブルグの如く韓国を指導し勢力を養成し、財政経済教育を普及して、遂には連邦政治を布くに至るやう之を導くを恐らくは日本の利益なりと、余は信ずる者也。

今回事件とあるのは、ハーグ密使事件のことです。日本人記者たちを相手にいっている演説で、伊藤博文の本音かどうかという確証はありませんが、私は本音ととっていいのではないかと思います。研究者もそのようにとっています。韓国はひとり立ちはできないという思い込みは神功皇后の「新羅討伐」伝承以来の上から目線ですが、われわれが教えて指導して、ひとり立ちできるようになったら、当時のドイツ帝国の例をあげて、連邦のようなかたちにするのがいいと、そのほうが日本にとって利益がある。併合してしまうということは、必ずしも両国にとっていいことではないんだと伊藤はいっているようです。

伊藤博文はここにあるように、かなりマジで韓国の自治を考えていた(言うまでもなく、日本の植民地政策が徹底されるのは、伊藤博文が暗殺されてからなのだから)、そりゃあそうなのだろうが。しかし、たとえそうだとしても、上記の発言にも垣間見られる、

  • 韓国は遅れている

という見立てのそのように「安易」に流れてしまう、その根っこはなんなんだ、ということでしょう。
たとえば、著者が福沢諭吉の言う、「文明」が結局は和魂洋才だというとき、福沢諭吉には「儒教」があった、というわけですね。つまり、朱子学
普遍思想
だからこそ、「中国以上の文明国」を西洋に見出したんだ、と。つまり、儒教という「魂」は、日本土着のものを捨てずに、
外ズラ
だけ、西洋にとっかえるんだ、と。和服を捨て洋服を着るように。しかし、なぜ幕末から明治の儒教教育を徹底して受けた彼らが、そのような態度をとれたのか。言うまでもなく、日本人は儒教を生きていなかったから、でしょう。日本において儒教とは、
インテリのファッション
みたいなもので、今でいう、ポストモダンみたいなものなんでしょう。全然、庶民に浸透していなかった。だって、葬式からして、儒教なんて関係ないってわけですからね。
それに対して、中国や韓国はどうだったか。

しかし朝鮮の場合にはあくまで儒教を堅持します。朝鮮や中国では、儒教が「かたち」を持っていたからで、理念としてあるだけではすまないのです。日本では、和服を着るよりも洋服を着るほうが文明的だといえば、洋服を着るほうに簡単に変わることができる。朝鮮の場合は儒教の考え方に則って服をまとっているので、簡単に切り替えることはできないのです。洋服は野蛮人の着る野蛮な服なのであって、そういう服を着ることは、想像もできないのです。朝鮮と日本は、同じ儒教朱子学を信奉していながらも、儒教の締める位置が違うので、日本の文明開花はすんなりいきましたが、朝鮮の場合には簡単に西洋のやり方に従うということはできませんでした。だから、日本が近代的な外交関係を結びましょうといって迫っていっても、それに抵抗したのです。日本も野蛮人と同じ夷狄になってしまったと、彼らは見ていたのです。

つまり、日本は「優秀」だったから、一早く近代化できたんじゃなくて、日本の改革を進めた「普遍主義者」たちの信仰する儒教が、庶民の生活と無関係だったから。それだけだと考えるべきなんですね。
しかし、不思議に思わないか。どうして、日本と中国や韓国は、こういった「差異」が生まれたのだろう。同じ東アジアにありながら。いや。そもそも、一体「いつ」から、こういった差異が始まったのか。

しかし義満は朱子学を国の中心には据えませんでした。相変わらず古くからの仏教を重んじたかたちでの国家統合をしています。彼自身、出家します。東アジアのなかで、日本だけがこの段階で特異だと考えていいと思います。
これは私の憶測ですが、日本と朝鮮半島の政治の歴史が大きく変わるのは、ここからではないかと思うのですね。ここまでは非常に近い政治体制でした。仏教国家として存在し、中国の影響を受けながら、成熟していく。韓国は明の登場に連動して、仏教国家から儒教の国家へと変わるのですが、日本はそうしなかった。少なくとも義満はその段階ではそうしなこあったのですね。

それに対して足利義満は、禅宗を核に据えた五山体制を築き上げます。京都と鎌倉にあった五山を整備し、相国寺鹿苑院を寺院の監督行政の拠点にして、宗教的にも政治的にも力を持たせました。
ただ、義満が顕密体制を一切否定していたかというとそうではなこうて、彼は真言密教とも晩年まで関係を結びます。むしろ晩年になると真言密教の方に帰っていくという動きもあって、直線的にはいかないのです。でも少なくとも禅を日本の仏教の中心に据えようとしたのは確かだと思います。
このことは朝貢している相手でもある明も認証済みでして、明と日本の使節のやりとりは禅宗のお坊さんが務めるということになっています。隣の朝鮮国の場合には朱子学を信仰するふつうの官僚が使節として中国に行きます。中国から官僚が使節として朝鮮に派遣されるのですが、日本と明との関係は禅宗のお坊さんが使節団長をする。明は日本のことを仏教国家だと考えているのです。それは東南アジアでは当たり前で、タイとかカンボジア、マラッカ(いまではイスラム圏)が、当時は仏教国家です。たぶん、明の皇帝の目から見ると、韓国は自分のところと同じ宗教である朱子学を宗派にしているが、日本はタイやカンボジアと同じ仏教国だというふうに見えていたのではないかと思います。

ここが著者の特徴と言えるだろう。著者は日本の歴史の中でも、足利義満を重要視する。彼は明から「日本国王」の称号をもらうわけだが、こういった態度をずいぶんとへりくだっている、と考えるべきではないだろう。それなりの力があったから、
韓国や中国とは違って、仏教国家を貫けた
のではないだろうか。そして、その力の源泉こそ、中国との貿易だっただろう。義満から、その後の世代の、織田信長に至って、石見銀山などで、ポルトガルなどにも、銀を輸出するようになる。こうなってくると、当時の日本が、今の
サウジアラビアの石油
のような位置にあったことがわかるだろう。つまり、彼らは圧倒的な権力があったのではないか。それは、中国や朝鮮に対しても同じで、あえて仏教国をやめて、朱子学体制をやる必要を強いられる感じもなかったんじゃないか(今のサウジアラビアが、イスラム作法を捨てるわけがない、というにも似てますかね)。
このように、足利義満から織田信長あたりまでの、日本の
産金銀銅国
ぶりは、圧倒的な輸出力として、一つの頂点にあったのかもしれない。実際、日本文化と言われるようなもののほとんどが、この時期に生まれているんじゃないだろうか。
そう考えてくると、著者の視点は正しいように思えてくる。もっと、この時代を日本の歴史の
中心
に考えていいんじゃないか、と思えてくるのだが、これが評判が悪い。つまり、水戸学を中心とした、日本の朱子学者たちは、その「正統性」論の延長に、日本の歴史を再構成する(当然それは、中国の伝統であるわけだが)。

龍馬伝』では、岩崎弥太郎が、坂本龍馬に次ぐ重要人物として、とても魅力的に描かれています。ドラマのなかで、岩崎弥太郎が鳥籠を売り歩きながら、ふところに本を忍ばせて、勉強しているシーンがあります。何を読んでいるのだろうと思っていたら、頼山陽の『日本外史』でした。
NHKはここのところ、大河ドラマで、この『日本外史』を使いまわしているんですね。いちばん最初が『篤姫』のとき。主人公が篤姫が若い頃『日本外史』を読むという場面がありました。

じゃあ、聞こう。日本外史は「歴史」なのか? これは
史実
か? 違うだろう。これは、水戸学の「正当性」を証明する「ため」の本であって、むしろ、皇国史観から逃れた戦後において、そういった視点で読まなければならない。そういうことなんじゃないか。
ところがどうだろう。今の日本史の、どこがどう日本外史と違うのかな。むしろ、精神は同じなんじゃないかな。網野善彦さんの一連の仕事もそうだけど、もっと、日本列島に
生きていた人たち
をダイナミックにとらえる、そして、そういう人たちが、自分たちと「繋がっている」と感じられる。そういった、「本当の日本」。そういったものが求められているように思うのだが、歴史ドラマ(時代劇)も史実をオブラートに包んで、痛い所を避けて、でも「楽しめる」
ホームドラマ
しかなくなってしまった(日本の歴史がホームドラマなわけないだろ)。これじゃあ、韓流時代劇をいくら毛嫌いしても、向こうの自国の歴史への「熱さ」には負けるんじゃないですかね...。

「歴史」を動かす―東アジアのなかの日本史

「歴史」を動かす―東アジアのなかの日本史