インターネットはなぜ「不快」か

ネット言論なる言い方があるが、多くの人が思うことは、とにかく、ネットは人の怒りのスイッチを入れるところがある、ということだろうか。
なぜなのか、と考えると、そもそも、「人の怒りのスイッチを入れない」と考える方がどうかしてるんじゃないかな、と思えてくる。
多くの人は、毎日をギリギリの判断の中で生きている。このまま、いつまでも、こういった仕事をやるべきなのか、どうなのか。みんな悩んでいる。そして、毎日の現場は、次々と言われる仕事をこなすだけで、手一杯だったりもする。毎日ギリギリを求められているわけで、そんなときに、のほほんとした
その人に責任があるわけでもない
問題への「見るからに、その人にとってどうでもいい」意見をネットで見かけるだけで、どんな内容だって「怒り」がわいてくるだろう。
自分で読んでいるのに、「なんでこんな意見を聞かなきゃなんないんだ」という感情がわいてくる。
なにが悪いんだろう。
自分の怒りのコントロールをちゃんとできないそいつ自身が悪いのだろうか。
でも、読んだら勝手にわいてくるんだからな。
では、この問題をこういった「形式」ではなく、内容において考えてみよう。
ネットにさまざまに散在する、文章の数々は、一体

に向けて、つぶやかれているのだろう。例えば、ある商業雑誌があるとする。そして、その雑誌には、ある有識者の論文が載っていたとしよう。こうした場合、その記事は、
この雑誌を買った人
に向けて書かれている、と考えられる。つまり、この雑誌を、わざわざこの値段で買う人にとって、「それだけの値打ちがある」と思われることを目標として書かれている、と考えられるだろう。
もちろん、そういった意図と別に書かれたものが載ることもある。そういった場合は、今度はその雑誌の「編集者」が、なぜその文章を載せたのか、に「意図」がある、と想定できるので、基本的には、その意図に差異はない、と考えられるだろう。
例えば、科学学会の論文なら、その学会の会員に読まれることを前提に書くだろう。
では、手紙ならどうだろう。もちろん、その送り先の人が読まれることを前提に書くだろう。
雑誌が作られるとき、その雑誌を買う人は、その雑誌が書くものを読みたいから買うのだろう。読みたくなければ買わなければいいのだから。そう考えると、ネット上の無料の情報とは、

  • 広告

なんじゃないか、と言いたくなる衝動にかられる。広告はポストモダン的な消費社会の進展とともに、広く認知されるようになったものだが、ある大量生産商品を売るには、その商品について、多くの人にまず知られる必要がある。つまり、知らなければ、買えないのだから。しかし、たんに知られるというのは、正しくない。その商品が「欲しい」と思ってもらえるように、知ってもらわなければならない。
この命題から、「広告」の定義が生まれる。ところがどうだろう。広告とはなにか。なんでもいいんじゃないか? 欲しいと思ってもらえればいいんだから、そう思ってもらえる結果が生起したものは、広告と考えていいんじゃないか(私たちは、その人の「意図」を尊重すれば、その人が、これは広告のつもりでやったことではない、と言う発言を重要視することになるだろう。しかし、それでは、本人は意識してやったのか、無意識でやったのか、を勘案しなければならなくなる。つまり、どっちみち、他人には分からないということなのだから、そういった基準は「定義」としては使えない、ということになる)。
人間はだれでも、なにかを売る商業的存在だとするなら、すべての人間のあらゆる行為は「広告」と定義されることになる。
だとするなら、「これは広告じゃない」ということを証明するとは、その「効果」の結果において示される必要があるだろう。たとえば、そもそも匿名の2ちゃんねるの書きこみは、他人はそれを書いた人が誰なのかを知らないのだから、少なくとも、特定の人向けに、なにかを売ろうとしたメッセージではない、となるだろう。しかし、だからといって広告じゃない、ということにはならない。その書き込みが噂となって、人々に、その人が商売上関係する分野の景気が良くなるかもしれないし、ある奇特な人が、なんとかその書き込みをした人を突き止めて、なにか商売をもちかけてくるかもしれない。
ある特定の人が、ある行動をしているとき、その人はどんな意図をもっていたのかを指し示すのが「動機」という言葉になる。しかし問題は、結局のところ「動機」を、その特定の人の「意図」を汲んだものにしようとすると、定義できなくなる、ことだ。なぜなら、その意図は、その人による「解釈」をまぬがれないから。だとするなら、「動機」を考えることは無意味ということになるのだろうか。
ネット上で、ある人が、あることを言っているとする。そうすると、その発言は、ある特定の対象に向けて語られたのかどうかが、問われる。しかし、ここで思うのである。特定の相手に向けて語られ「ない」とは、どういうことだろうか。
それはなんなのか?
ある発言が、その人から飛び出したとする。それを読んだ、日本中のある人は、「不快」に思う。別のある人は、「快」に思う。すると、発言者は、不快に思った人に対して、「嫌なら読むな」と言う。他方で、快に思った人に対して「分かってくれてありがとう」と言う。しかし、これは矛盾じゃないのか? つまり、最初にそれを発言した自分は、だれに分かってもらいたかったのか。もし分かってもらいたかった人がいるなら、その人に向かって発言すべきだろう。そうでないから、こんな人には分かってもらいたくない人に「も」つぶやいておいて、怒られて逆ギレしてるって、なんなんだ、ということなんでしょうね。
つまり、こういった「ブロードキャスト」が、どこまで「まとも」なコミュニケーションなんだろう、と思うわけである。
もし、ある種の「ブロードキャスト」的な宣伝が、「コミュニケーション」となるためには、その伝達には、どういった特徴が備わっている必要があるだろうか。
私は、それは、たった一つのこと、だと思う。
誤解されない
ということである。しかし、それはどうやったら可能なのだろう。なぜ誤解が生じるのか。普通に考えれば、それは「言葉が足りない」からだろう。数学の分野でも、ある程度慣れてくると、そのゼミでは、さまざまな「省略」表現を始める。今議論している問題では、基本的には、こういった省略でいきましょうと決めてあれば、どんなに言葉が足りなくても、通じたりする。しかし、その作法を一般世界にもって行くと、さまざまな誤解にあうことが絶えなくなる。そういった誤解をした人の分野の世界では、そういった省略はもっと違った意味で使われていたりするから、と。
私は上記で、意図的にある可能性を無視した。あらゆる表現は「広告」だと言ったが、それを、まったく違うもの、と解釈することもできる。あらゆる表現は、独り言だと考えるのだ。あらゆる、その人のパフォーマンスは、全てその人の
日記
の一コマであると考えたとき、上記の問題はさらに極端になる。自分には自分の常に考えてきた「学会」があり「ゼミ」があり、自分は常に自分に向かって「研究発表」をし続けている。その中では、一体、どれほどのジャーゴンであふれているだろう。
だとするなら、どういうことになるだろうか。
もし分かってもらいたいのなら、「できるだけ多くを語る」ことしかないだろう。たくさん語り続けることで、そのオブラートに包まれていた、

  • その人の中の独り言
  • その人の外の広告

は、全体像をあらわし、形を表し始める。ちょろっと一言書いてそれで、(オレを)分かれ、ってorz(これゾンの、天才少女はるなちゃん、じゃないんだろってわけで)。