ジェフリー・サックス『貧困の終焉』

ツイッターは、一般に公開の場で、特に、アカウントと共に「会話」ができる機能をもつことにより、日本人の間で、一気に普及した。この普及率において、世界でも群を抜いているのではないだろうか。
ツイッターの特徴については、近年も多くの人が語っているように、基本的に、書いてコミットしたら、書き直すという形ではない(訂正するなら、そういう「つぶやき」をする、というのが作法となっている)。つまり、かなり感情的なことを、つい書いてしまいがちになる。つい本音がでてしまう、というわけだ。
これが、2チャンネルだったら、こっちは基本、匿名なので、まあ、どっかのアホがとち狂ったことを言ってるな、でまだ済んでいた所があるように思う。
また、2チャンネルなどの掲示板でも、かなり、専門的な板もあって、けっこう専門家がやりあっていた場所もあって、そこでは、かなり、人格を疑いたくなるような、やりとりもあることにはあったが、そもそもそんな専門的なスレッドは、普通の人たちは見なかったので、あまり世間では注目されなかった。
ところが、ツイッターになると、そういった、ちょっと、こいつ大丈夫か、というような人が、一つのアカウントでつぶやき始めるので、そういった人たちの「分布」がかなり分かり始める。特に私たちをびっくりさせているのが、いわゆる、自分の顔を明かして、仕事の延長でつぶやいている、いわゆる、「有識者」が、ちょっと信じられないような、「いいがかり」を、かなりの頻度でつぶやいていることだろう。
もちろん、そういった専門的な人に関係する話なので、多くの人が結局は「よく分からない」内容なので、多くの人はスルーするか、なんらかの噂レベルで聞き流すのだが、そうであっても、いずれは、その当人にも伝わるわけであろうし、それなりに専門的な知識がある人もいるわけだから、さまざまな噂にはなるだろう。
つまり、なにか相手への気に入らない感情があるのなら、それは別に普通のことなのかもしれないが、有識者なら、それは、たんに悪態をつぶやいている、という、こういう「態度」が信じられないわけだ。
(例えば、学問の分野であるなら、どこの個所が、どういった文脈で批判されるべきなのかを、
論文
として書くべきであろう。そうでなかったら、相手に自分がどのようにして、そのように問題だと考えるようになったのかが伝わらない(たんに罵倒することは、名誉毀損だとするなら、ほとんど説明せずに罵倒することは、名誉毀損じゃない、というのも、おかしな話だろう)。だから、普通に考えるなら、学問的な論争はツイッターでは、相当にお互いが友好的にお互いの意図を補足し合うでもしないと、成立すらしてこないだろう。)
なぜ、そんな有識者でありながら、そういう態度になるのだろう。例えば、アメリカのプロスポーツ選手はかなり徹底してマスコミ対応をトレーニングされる、と言われる。つまり、それなりに稼いでいるなら、そういった態度をできなければ、さまざまな場所に迷惑をかけるだろう。ひいては、そのプロスポーツ興業事態を存続させていいのか、という方向にまで向かいかねない。
自分の顔を明かして、発言をしていながら、かなり人間的な人格を疑われるような発言を、何度も繰り返して、訂正もしない。そりゃあ、不買運動とかボイコットの対象でしょう。
いずれにしろ、ツイッターには、そういった日本社会の「醜い」実体を赤裸々に見せる機能を果し始めている印象を受ける。
私が昔から疑問に思っていたことは、なぜ、経済学者は、自らの「貧困撲滅プラン」を語らないのだろう、ということであった。世界中には、今も多くの貧困が存在する。ならば、それに対してどうすべきなのかを発信する必要があるのではないだろうか。
この疑問と「同相」の印象を受けるのが、311以降に、電力不足になったときに、経済学者たちがなぜ原発を止められないのか、という主張の根幹に、
使用電力が減るということへのヒステリー
を感じたことだろう。しかし、電気の使用量がいくら減ろうが、先進国の裕福な生活が、そう簡単に不便になったりしないわけである。むしろ、今までの、いくら電気を使おうが、電気料金は安いんだから平気みたいな態度の方がどうかしていたわけであろう。
つまり、経済学者は「電気の使用料を、なんとしても減らしてはならない」と考えていたのではないだろうか。そして、使用料を減らさない「ため」には、そもそも、それだけの電気を提供できなければならない、となる。
(よく、原発を止めることで、電気料金が高くなって、日本から企業が海外に行ってしまうと言うが、だったら、そういう企業には特別の料金で電気を提供すればいいだけだろう。日本企業の海外移転と、原発を秤にかける、って発想がどうかしている。)
同じようなこととして、世界中の貧困を経済学者は、なくしていかなければならない、と「考えたこともない」んじゃないか。だから、そんなことを思ってもいないのだから、口から出てくるわけがなくなる。
なぜ、そう思うのだろうか。四つあげてみよう。

  • この世は、弱肉強食のダーウィン進化論的な世界なのだから、強い奴が生き残り、弱い奴が死ぬのは、ものの理なのだから、こんな当然のことに抗うことが無駄で、余計なお世話。
  • そういう貧困の国に住んでいる人が「悪い」。そんな生活環境が悪いなら、移住すればいい。いつまでもそんなところにいて、しかも、たくさん子供をつくっていること自体が「自業自得」なのだから、そんな頭の悪いアホに関わったら、自分までアホになる。
  • 自らの「経済的」功利主義の立場からして、貧困層を「差別」するのは、当たり前。貧しい人間に施しをしたら、今度は、こっちが貧しくなってしまう。自分が儲かるということは、他人がアホであってもらう方が有利なわけで、貧困層が「不利」な状況でいつまでもいてもらえる方が「富裕」層の自分は、いつまでも、勝ち組でいられる。
  • 結果を「能力」において正当化する(つまり、学問の保守化)。なぜ、彼らの国は貧乏で自分たちは裕福なのか。それは、彼らが「無能力者」だから、と考える。彼らに才能がないのだから、彼らが生き残れないのは「しょうがないこと」とされる。

ヘーゲルではないが、「現実とは理性的である」、だと。このように現実があるのは、「そうなるしかない」から、そうなっているのであって、私たちはその「奥の深い」神秘を覗き見ることしかできない。科学が研究をすればするほど、そうなる「原因」は無限大に見出され、もはや、「そうある以外にはありえない」ようにさえ、見えてくる。これが「保守派」的な視点であろう。こういったロジックは、勉強に熱心な人であるほど、主張しがちになり、こういった状況を改善しようと努力している
無知な人々
を嘲笑し始める。彼らは何も知らない。だからあんなに野蛮なんだ、と。
しかしもし、現実がそうあることが「必然」だとするなら、あらゆるイノベーションは生まれえないことになるわけで、人間は今も、狩猟採集民族として、生きていたんじゃないか、とすら言いたくなる。
つまり、「改革派」とは、そもそもの最初に「こうしたい」という欲望があって、行動するわけで、こっちの立場からすれば、「保守派」は単に、その「こうしたい」という欲望を「あきらめた」と表明しているようにしか見えない、となる。
人間は何かを実現したいから行動するのだとするなら、そもそも、上記の「保守派」と「改革派」の態度は、
次元
が違う話なんじゃないか、ということが分かってくるだろう(カントで言えば、実践理性、ということになる。つまり、ヘーゲル的には、こういったカント的二分法が嘲笑の対象なのだろう)。

毎朝の新聞にはこんな記事が載ることもありうる。「昨日、二万人以上が極度の貧困により死亡」。記事には厳然たる数字が並んでいる----およそ八千人の子供がマラリアで死亡、五千人の父母が肺結核で死亡、七千五百人の若者がエイズで死亡、さらに千人以上が下痢、呼吸器の感染症など、長年の飢えで衰弱した体には致命的となる病で死亡。貧しい人びとは薬剤不足の病院で死に、マラリア予防の蚊帳がない村で死に、安全な飲料水のない家で死んでゆく。彼らは無名のまま、世間に向けて何の言葉も発することなく死んでゆく。だが、悲しいかな、そのような記事が書かれることはまずない。ほとんどの人は、生きるためだけに日々闘っている人びとがいること、そして世界中の貧しい人びとの多くがその闘いに敗れていることに気づいていない。

どう思われるだろうか。「こういう人たちがいることを、そのまま放っておけるだろうか」。人間なら、なんとか、こういった状況を改善できないかと、手をさしのべたくなるんじゃないですかね。

まず貧困の定義だが、貧困は三つに分けられる----極度の貧困(絶対的貧困)、中程度の貧困、相対的貧困である。極度の貧困とは生存するのに最低必要なものを得られない状態をいう。長期にわたって飢えに苦しみ、必要な医療が受けられず、安全な飲料水や衛生設備をもたず、子供たちは十分な教育が受けられず、住む場所も最低限の条件を満たしておらず----雨漏りのする小屋、料理の煙を家に充満させる煙突など----靴や服のような生活必需品さえない。中程度の貧困や相対的貧困とちがって、極度の貧困は開発途上国にしか存在しない。中程度の貧困とは一般に、基本的な要求は満たされているものの、少しの余裕もないぎりぎりの状態をさす。相対的貧困は、一家の収入がその国の平均よりも低い場合をいう。高所得の国において相対的貧困とみなされる人びとは、文化的な商品、娯楽、レクリエーション、質のよい医療と教育など、社会的に上位にある人びとが享受している特権から排除されている。

先の引用にあるように、少なくとも、この「絶対的貧困」を本当に人間は甘受しなければいけないのか、と問うことは非常に重要なのではないか。だって、彼らは
救おうと思えば救える
わけだから、である。

マラウイはじっさいのところ、死にかけていた国民の治療をほどこすため、ごく早くから有効な戦略を実行するために一丸となった国の一つだった。さらに、医療の訓練に加えて、薬品お分配、患者のカウンセリングおよび教育、コミュニティの活動、資金の流れといった面で新しいシステムを築きあげるべく、きわめて思慮深い態度をとった。それを基盤にして、ラウイは五年以内に、現在のHIV感染者の三分の一(およそ三十万人)に抗エイズ薬を与えられるよう、援助してほしいと国際社会に訴えた。
だが、国際社会の対応は冷淡だった。ドナー国(資金提供国)の政府----アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国を含む----はマラウイに要求を縮小するよう求めた。最初の要求は「あまりにも大きすぎ、コストがかかりすぎる」というのだ。次に出された草案は五年以内に十万人というところまで削減されていた。それでさえ多すぎた。緊張の五日が過ぎたあと、ドナー国はさらに六〇パーセントのカット----四万人まで----をマラウイに突きつけた。こうして切り詰められた案が、世界エイズ結核マラリア対策基金(GFATM)に提出された。信じがたいことに、基金を運営するドナー国はさらに削減を求めた。こうして、長い苦闘の末に、マラウイはようやく五年以内に二万五千人を救う基金を受けとれることになった----つまり、国際社会がマラウイ国民に差しだした死刑執行状である。

こうやって、世界中の人びとの「無関心」が、「絶対的貧困」をこの21世紀に入っても撲滅できないでいるという現実の、なんとも、利己的な「大人たち」への倫理的反発が、近年の若い人たちホワイトバンドのような運動にもつながっているのであろう。
(このことは、原発問題とも似ているのかもしれない。ドイツがなぜ、脱原発に方針転換したのかは、ドイツ内のチェルノブイリ以来の昔からの、議論の蓄積がある、と言われている。特に、若い世代が、選挙権をもつようになると、おしなべて、反原発となる。それは当然で、原発のエネルギーで儲けてきたのは、若者も上の世代なのだから、つまりは、上の世代は若者の「犠牲」の上にお金儲けをしてきたわけで、そういった大人たちの「欺瞞」の中で成長してきた子供たちが、反原発となるのは、当然のことと思われるだろう(特に子供の学校を中心とした社会は「平等」社会なのだから、特に、そういった連帯意識が育成されるはずである)。これは日本も同じ道をたどるはずで、今、上の世代がいくら原発の維持を目指そうと、早晩、若者が選挙権を獲得していけばいくほど、原発推進政党は自らの勢力を維持できなくなっていく...。)
では、具体的には世界中の人びとは、どのように絶対的貧困を撲滅していけばいいのだろうか。掲題の著者の視点は、基本的にはグローバリズム経済学の延長での解決を目指す、という形をとるが、その見つくろいのアイデアは、じつにシンプルだ。

  • 19世紀から現在に至る、世界中のGDPの増大は、その大きさの違いはあるが、少なくとも、どの地域であっても、増大している。つまり、経済とは「Win-Win」なのだから、どこかが儲かったから、どこかが貧しくなる、と考えなければならないいわれはない。
  • どうして、19世紀と比べて、これほどまでに人びとは豊かになったのか。言うまでもなく、「科学技術」にある。そうであるなら、ある程度、この地球上の人間が増えたとしても、この科学技術の発展が、補っていくと予想はできないか。
  • 貧困農村地域の特徴は、子供が非常に多いことである。ところが、ある程度、裕福になると途端に子供の数が減ることが言われている。そう考えるなら、人類の極端な人口増加はこの貧困への対策の方向によってこそ、未来が開けるのではないか。

こうやって見てみると、この方向での取り組みには、ある程度の効果が期待できそうには思えてくる。少なくとも、現状をもう少しなんとかするぐらいには、前に進めるだろう。
しかし、ここで一点、注意がいる。それは、人はみな「同じ」ではない、ということである。その住んでいる場所が違えば、考えることも違うし、生き方も違う。つまり、経済は常に、最後は「ミクロ」の問題だということである。一律にひとしなべて、「こうやればいい」なんと言えるわけがない。

貧困の罠という解釈が適切な診断だとしても、貧しい国のなかで貧困の罠に陥る国とそうでない国ができるのはなぜかという疑問が残る。その答えは、ふだん見逃されがちな自然地理学の分野にヒントがある。たとえば、アメリカ人は自分の力だけで裕福になったと思っている。彼らが失念しているのは、彼らが受け継いだアメリカという土地の条件である。天然資源に恵まれた広大な土地。肥沃な土壌と豊かな降雨、航行可能な河川、何千キロにもおよぶ海岸線には天然の良港がいくつもあり、海上貿易にはうってつけの基地となっている。
世界はこんな好条件に恵まれた国ばかりではない。貧しい国々の多くは、運搬コストの高さという深刻な障害を抱えている。内陸にあったり、高い山に阻まれていたり、航行可能な河川や長い海岸線や天然の良港がなかったりという国は多いのだ。ボリビアエチオピアキルギスタンチベットの長びく貧困の理由は文化だけでは説明できない。むしろ地理的条件を見るべきだ。険しい岩がちの地域では輸送コストという大問題に直面せざるをえないし、経済的に孤立した場所ではほとんどあらゆる形の近代的な経済活動が不可能である。

地理的に厄介な条件はほかにもある。農産物が生育しにくい乾燥した気候や、不安定な気候、長引く旱魃などに悩まされる国は多い。熱帯の国々では致死性の病気----マラリ、住血吸虫病、デング熱など----を招きやすい環境が悩みのたねだ。とくにサハラ以南のアフリカは、降雨と気温と病気を媒介する蚊のせいで、マラリア発生の国際基地のようになっている。アフリカの経済発展を遅らせる最大の要因といっていいだろう。

しかし、こういったことが、そもそも彼らの絶対的貧困を「あきらめなければならない」という考えになると考えるべきでない、と著者は、以下のような、見立てによって主張する。

地理上の不利ばかりいいたてるのは、地理的な条件だけが国家の経済的な帰結を決定するという主張と同じくらい見当違いである。ここで肝心なのは、逆境にある国々はその不利を克服するために運のよい国々より多くの投資が必要だということである。内陸の国からよその国の港まで道路を建設することができる。熱帯に特有の病気は対策が講じられる。乾燥地帯では灌漑水路を築けばよい。地理的な不利からくる問題のほとんどは物理的な投資と適切な保護管理によって解決可能なのだ。しかし、不利な地理条件のもとでは、農業や輸送や保険にまつわる問題を解決するためのコストが高くつき、そのような環境にある国は貧困の罠に陥りやすくなるのである。

著者の見立ては、はっきりしている。そもそも、目指していることが違う、ということである。ここでの問題は、絶対的貧困なのだから、それをなくせるように「投資」をするのであって、その額が大きい小さいを、ここで問題にしているのではない、ということであろう(なにが可能かと考えれば、現代のグローバリズムにおける、科学テクノロジーの発展は、ほとんどの問題は問題と考えずにすむレベルで解決する、と)。
そうはいっても、じゃあ、具体的には、どのようにやっていけばいいのだろう。著者はそれを「臨床医療」の現場との
アナロジー
によって説明する。

ある点で、今日の開発経済学は十八世紀の医療に似ている。医師は患者にヒルを吸いつかせて血を抜き、それで患者を死なせることもあった。過去四半世紀、貧しい国が豊かな国々に助けを求めると、豊かな国は世界の金融ドクターたるIMFを送りこんだ。IMFが出すおもな処方箋は、貧しさというベルトで息が詰まりそうな患者を予算緊縮というベルトでさらに締めつけるものだった。IMFが押しつける禁欲主義は往々にして、暴動やクーデター、公共サービスの崩壊につながった。これまで、IMFのプログラムが社会の今来と経済不況のただなかで息き詰まったとき、IMFはその責任を政府の弱腰と無能のせいにしてきた。ようやく、このような態度も変わりつつある。IMFが貧しい国の実情に合わせて、より効果的なアプローチえお探るようになったのは喜ばしいことだ。

私は開発経済学のための新しい手法を提唱する。開発経済学臨床医学の共通点から、これを臨床経済学と名づけた。この二十年間、私は経済学上の患者----危機的な経済----を治療するための処方箋を書いてほしいとたびたび要請された。その間、私の仕事が小児科医である妻ソニアの臨床治療ととてもよく似ていることに何度も驚かされた。私はソニアが----真夜中のことも多かったが----急患や複雑な症例をてきぱきと処理し、うまく解決するさまを尊敬の念とともに見守ったものだ。今日の開発経済学は近代医学にはとてもおよばないが、少なくともそれに近づこうと努力すべきである。

以前、柄谷さんがカントの純粋理性批判のなかの、建築や裁判所の比喩を重要視していたが、私たちの「理性」には、どこか、裁判所に似たようなところがないだろうか(そういえば、ソクラテスの弁明も裁判でしたね)。
臨床医学も、どこか裁判の「構造」に似ている。私たちは、どこか「人類普遍の真理」のようなものが、この世のどこかに存在して、あらゆる問題はそれを適用すれば、解決するんじゃないか、という
普遍主義
の誘惑にかられる。もしその「人類普遍の真理」が今はなくても、きっといつか、だれかが見つけると(キリスト教の終末思想みたいですね)。
でも、もしそうなら、私たちの先代、つまり、過去の人たちは不完全だった、ということになるだろう。そうだろうか。むしろ、あらゆる「真理」は、その
対話
の中にしかない、と考えるべきではないだろうか。裁判において、なぜ、弁護士がいるのか。どうして、ああいった「対立」的な形になっているのか。それには、そういった形の「理性」があるから、であろう。
上記の引用についても同じで、その国の現状に合わせた、「診断書」が求められている。それは、そういった、それぞれの地域との「対話」からしか生まれない...。

私たちの時代に達成できるであろう経済発展の可能性を以下にあげておく。

  • 二〇一五年までにミレニアム開発目標を達成する。
  • 二〇二五年までに極度の貧困を根絶する。
  • 二〇二五年までに、世界の貧しい国のすべてが経済開発の梯子にしっかりと足をかけられるようにする。
  • これを達成するために、豊かな国々の資金援助をなるべく最小限にとどめる。現在の援助額よりは多くなるだろうが、ずっと前から約束していた当初の援助額の範囲内には収まるはずである。

これらの目標を達成するために、私たちがまず最初になすべきことは、現状を正しく理解することだ。現在を理解して初めて、将来進むべき道も見つかるはずだからである。

私たちは、つい最近まで、あのようなBRICsの発展を想像できなかった。そう考えると、「これくらい」のことは容易に思えるのだが、どうなのだろう? そのためには、ここにあるような、「理解」と関心をもち続ける、人びとの実践的な姿勢が必須の条件であるのだろうが...。

貧困の終焉―2025年までに世界を変える

貧困の終焉―2025年までに世界を変える