マウリツィオ・ラッツァラート「借金人間製造工場」

レピュテーション・マネジメント(評判管理)においては、その第一歩は、顧客の主体性に依存する形で、戦略(ストラテジー)を考えざるをえない、という認識から始まっていた。
つまり、相手を自分が思う通りにはできない、だから、なんらかの「相手の動きに合わせた」こちらの行動戦略を立てるしかない、という
あきらめ
から始まっていたことが、重要であった。それは、このソーシャル・ネット・メディアにおける

  • 評判

を、そう簡単にコントロールすることはできない、という、ある種、ソーシャル・ネット・メディアにあらわれた有識者たちが、最終的に深く陥らざるをえない認識で、

  • ここでは、あらゆることが叶う

と思わせる、全能感覚を、裏切る様相を示すことになり(欝の感情)、そう簡単に、他者の感情を思うようにはできない、という「あきらめ」から、始まっていると言えるだろう。
しかし、逆に言うと、本当にそうなのか、とは思うわけである。
本当に、あきらめたのだろうか。
はるか昔の、古代ギリシアから、奴隷制度というのは、自明のものであり、他者支配の基本であった。それは、つい最近の江戸時代においてさえ、日本の身分制度は、つまりは身分であって、武士による、その他の庶民を「奴隷」として扱っていた、というふうに言い代えることさえ、それほと間違ってはいなかったはずで、私たちの社会がこれだけの「うまみ」をそう簡単に手放すのか、と問うてみざるをえない。
なぜ、レピュテーション・マネジメント(評判管理)があれほどの苦痛と努力をマネージャーに強いるのかは、ひとえに、顧客が「奴隷」ではないからであろう。すべての問題はここにある。
他者を「奴隷」にする、という、あまりにも「魅力的」な、この人間の太古から行ってきた作法を、そう簡単に現代人が手放すのかは、自明ではないように思える。
たとえば、以下の本で描かれる
思考停止ビジネス
は、まさに「成熟社会」としての、無需要社会を、典型的に象徴するビジネス・スタイルであることを、よく示している。

どんな商品であっても「メリット」や利便性の提示なしには販売できない。それに、家電量販店や住宅展示場に来る人は、そもそも購買意欲がないわけではない。そういった人たちが商品にあらかじめ興味を持っていることは確かだ。
しかし、それ以外の人たち、たとえば上記のような誘い文句に興味を示したけれども、買う決心にまで至っていない人たちもいる。あるいは訪問販売などのように、そもそも買おうと思っていなかった人たちに対して、売りつけることもある。そうなると本来は「もう商品なんてほしくない」と思っているお客を相手にするのだから、手法が強引にならざるを得ない。
ここに、相手の思考を停止させる、まさに思考停止ビジネスがもっとも活躍してしまう領域がある。このとき、旧来商品を買わせる思考停止ビジネスの手法には、次の5つがある。

  1. 「権威」
  2. 「コミットメントと一貫性」
  3. 「返報性」
  4. 「希少性」
  5. 「認知的不協和」

この5つだ。
思考停止ビジネスにおいては、これらを巧妙に組み合わせるところに肝要がある。それは、心理的な仕掛けを使わないと、モノは売れなくなっていることでもある。それは「モノづくり大国」としての日本の哀しさの裏返しかもしれない。ただ、ここで私が紹介したいことは売り手の批判ではない。実は、そこから透けて見えるのは、売り手だけではなく、消費者こそが、これらの5つの心理的な販売手法を望んでいる、ということだ。

売りたかったら客に考えさせるな! 思考停止ビジネス

売りたかったら客に考えさせるな! 思考停止ビジネス

上記にあげられている「古典的」手法の特徴を一言で言えば、お客自身が

  • 自分は一つだ

と思いたい、「自分には自分というものがあるんだ」と思いたい、そのアイデンティティ願望を裏返して、商品を買わせる、裏技テクニックと言えるだろう。
もし、顧客が売り手の「これに興味ありますよね」という強引な質問に、
反応して「しまった」
なら、「自分はこれに興味がある」ことを無意識に証明していたことになる、というわけである。
ここで重要なポイントは、自分が今、どう思っているのかではない。あのとき自分がそう振る舞ったのなら、「自分というものは、そういうものなのだ」ということを、

  • 教えてくれた(気付かせてくれた)

ということになるわけである(これが、著者が、むしろ消費者がこういった「詐欺」を「望んでいる」という意味である)。
こういった、一種の「自分探し」が、このパーミッションマーケティングの特徴であることが分かるであろう。その商品に「興味がありますよね」という問いかけは、恐しく、

  • ハードルが低い

であろう。しかし、それにOKと言うか言わないかは、天と地ほどの差がある。わざわざ、相手がそう、わめいていたからといって、なんでそんな赤の他人に、

  • 反応を返さなければならない

のか、と考えれば、少しも自明ではない。どうしても、

  • なんでボクは「そうですね」って言っちゃったんだろう?

という「無意味な」問いに悩まされる「誘惑」にかられる。
(「なにものにもなれない」「透明な存在」である、私たち、成熟社会という、無需要社会の申し子たちには、どうしても、このトートロジーに立ち向かう、ピングドラムを探す「生存戦略」が必要、だということなのだろう。)
これに対する答は簡単である。

  • そんなことは、どうでもいい。

お前には関係ないのだ。自分のことだからといって、なんで自分が責任を問われなければならないのか。こう言うと、ずいぶんとエキセントリックに聞こえるだろう。しかし、一瞬昔の自分は「他人」であって、もう違うのだから、そんなことを言われたって困るのだ。事実、違うのだから(身体中の細胞をみたって、かなり入れ代わっているくらいですし)。
しかし、人はそう考えるには、あまりに「透明」すぎるようだ。自分の中を探しても、なにも見出せない。なにも見つけられない私たちは、

  • 自分は「何者」であるのか

を「教えてほしい」のだ。自分の正体を。自分がどこから生まれてきて、これから、どこに行くのかを。
こういった、人々の

  • 自分は一つ

という観念は、以下の、現代社会が「奴隷制」に代わる、一つのオールタナティブによって成り立っていることに気付かせてくれる。

負債は《労働》の《道徳》とは異なりそれを補完する、それ自体として固有の《道徳》を分泌する。労働のイデオロギーの《努力=報酬》という対偶に、”約束”(負債を支払うという)と、”責任”(契約をしたという)のモラルが重なる。ニーチェが喚起するように、《シュルト》(責任)という概念はモラルの根源的概念であり、それは《シュルデン》(負債)という非常に物質的な概念を起源としている。負債の《道徳》は失業者や、《被生活保護者》、福祉国家の利用者のみならず、すべての人々の道徳化を誘発する。

日本の毎年、3万人の自殺者の、かなりの割合は、この借金を苦にするものと言われている。そのうち、どれくらいの割合が、自分が死ぬことの保険によって、妻や子供たちに、保険金を残してやろう、妻や子供たちに「自分とは関係のない」新たな人生を歩ませてやろう、というものなのかは分からないが、それだけ、
多額
のお金を返すために生きることは、私たちをかなり精神的に追い込む。つまり、
借金が私たちを「道徳的存在」にする
のである。失業し、国からお金をもらうことに「感謝」し、生活保護をもらうことに「感謝」し、そして、自らを「道徳的に生きる」存在へと「完成」させていく...。

二〇〇八年のリーマン・ショックは金融恐慌でしたが、恐慌が完璧に完結することを阻まなければらないという名目のもと、各国はすさまじい勢いで財政出動をしましたね。そこで起こったのが、恐慌の因子の金融から財政への転嫁と伝染です。

浜矩子「財政恐慌の時代」
現代思想2012年2月号 特集=債務危機 破産する国家

大きすぎてつぶせないからと、その「リスク」を、国民の財産である、税金で補填をするということは、この「大きすぎてつぶせなかった」
恐慌
を、金融側(国家側)に、つけかえた、ということしか意味しません。つまり、大きすぎてつぶせないバケモノが作った借金を、
国民の借金
に勝手にしたわけです。ここが重要です。大事なことは、これによって別に、その「問題」がなくなったわけではない、ということです。日本のバブルによって、土地や不動産が高騰した、ある日、それらがまるで夢から覚めたかのように、以前の値段に戻ったとき、これらを担保にしていた、金融機関のビジネス・モデルは、崩壊したはずです。ところが、大きすぎてつぶせないのだから、つぶさないということ「だけ」は決まっているのだから、つまり、その
差額
は、だれかが、なんとかしなければならない。魔法のように消すことはできない。どこかに、もって行けば、「そこにある」だけのことです。
これは、サブプライム・ローンにおいても同じで、大きすぎてつぶせないのなら、つまりは、その借金を政府の借金の側にもってくる。しかし、政府の借金とは、つまりは国民の借金ということで、ということは、

  • 私たち一人一人の「借金」が勝手にそれで増えた

ということを意味する。

非常に驚くべきことに、日本の政府部門は世界最大の累積債務を抱えているにもかかわらず、国民経済全体でみれば、世界最大の債権を有しているわけです。いかに民間部門の債権が巨大かということです。政府の巨額の赤字を吸収して、なおかつ世界最大規模の黒字を出しているわけですからね。

浜矩子「財政恐慌の時代」
現代思想2012年2月号 特集=債務危機 破産する国家

こういった事態に直面し、国家は、ある種の「分裂」を進めることになります。一方で、巨大な借金を抱え、日々その償還(借りた金額と利子の返済)に追われながら、他方で、大量のストックとフローを内部に抱える。常識的には、この二つが両立していることは、奇妙に感じる。なぜなら、膨大な資産を借金返済に回せば、それだけのことに思えるから。しかし、国家はそれをやらない。なぜなら、大量の株や国債(もちろん、アメリカ国債)を市場に流すことは、あまりにインパクトが大きく、アメリカ国家すらその信用を大きく傾かせかねない。つまり、国家は膨大な

  • 自分への借金
  • 自分からの借金

を内部に抱える、赤と黒の斑模様のキメラの様相を示しながら、そのまま、どんどんと「巨大化」していく...。
なぜ、金融システムが、ある種の、「奴隷制」に似てくるのかは、ここからも分かるであろう。つまり、借金は、なくならない。つまり、なくしてはならない。なぜなら、借金があることで、ある秩序が生まれているので、
返してはならない
からである。金融のポイントは時間差を「利子」としていることである。つまり、借りた側は、利子なしなら、それを金庫に眠らせておけばいい。ところが、利子があるとするなら、人々は、
行動
を強いられていることを意味する。お金を増やして返すために、なにか行動をしなければならないわけである。
このように、人々になにかの行動を強いるような認識を「道徳」と定義できるだろう。
国家が膨大な借金を抱えるのは、これによって、国民が「道徳的」になるからであって、それ以上でもそれ以下でもない。つまり、動物としての国民は借金によって
人間
になる(つまり、借金人間の誕生)。
国家とは私たちと「グローバル化」を繋ぐインターフェイスだと考えられる。私たちは国家の一員でありながら、その国家の意志決定に関わっているとされる。ということは、国家が(比喩的な意味で)借りた借金は、国民一人一人の借金だということになる。つまりここに、

  • 借金=奴隷

弁証法が始まれる...。

この観点からすると、すべての政府が採用しヨーロッパのさまざまな条約のなかに書き込まれているもっとも重要な法律は、中央銀行を通して社会的負債を現金化することの禁止である。地方自治体は福祉国家のあらゆる社会サービスと同様に、中央銀行から融資を受けることはできない。だから《金融市場》に頼らざるをえないのである。

この法律ができる前までは、国家は利息なしで中央銀行から融資を受けることができた。そして収入のテンポに合わせて返済すればよかった。

借金は私たちの道徳的な感情(負債感)に火をつける。しかし、これはおかしい。なぜなら、借金は「贈与」ではないからだ。贈与なら、応報感情が続くことには理解できる。しかし、ちゃんと「利子」なり、担保なりがあるわけで、払えないことは、結果にすぎない。これは、
ゲーム
なのであって、嫌なら、このゲームを始めなければいい。
しかし、もしこの二つを「どうしても」混同せずにいられないと、人々が思わざるをえないとするなら、それこそ

  • 思考停止ビジネス

であることを意味している、と言えるだろう。つまり、金融システムには、どこかしら、思考停止「詐欺」的な側面が、かならず、つきまとわざるをえない...。

先進国において国内総生産の大部分を占める消費(アメリカ合衆国では七〇パーセント)は、債権者にとってもうひとつの非常に重要な《金利収入》の源泉である。アメリカでは、家族のもっとも重要な支出(家の購入、車の購入と維持、教育支出)はクレジットで行なわれる。そのうえ一般消費財の購入も、たいていクレジット・カードによる支払い、つまり借金で機能する。

われわれは消費を通してそれと知らずに負債の経済と日常的な関係を取り結んでいる。われわれはわれわれのポケットや財布のなかに、クレジット・カードのチップの回路に刻み込まれた債権者 - 債務者の関係を持ち運んでいる。この小さな四角いプラスティックは、一見無害の----しかし注目に値する結果を招く----二つの働きを隠し持っている。すなわち、それは”永遠の”債務を打ち立てる信用取引関係の”自動的な”開始を告げるものなのである。クレジット・カードはその持ち主を永遠の債務者----終生の《借金人間》----に変えるもっとも簡単な方法にほかならない。

クレジット・カードの仕組みは、私たちを否応なく、(金融的な意味での)借金的存在へと「コミットメント」させる。しかし、上記でも繰り返しているように、グローバル化した金融とは、

  • 自分に関係のない他人の尻ぬぐい

を「させる」ための、システムの様相をもっている。
例えば、国連の運営費において、世界中の困っている国を助けなければならないなら、国連は、世界中のお金を持っているお金持ちから「借金」をして、貧乏人を助けなければならないんだ、ということになる。ところが、世界中の金持ちは、ただでお金を貸すほど、能天気でもお人好しでもない。国連の足元を見て、ふっかけてくる。しかし、国連は、背に腹は変えられない。サラ金から、高利で借りまくって、そのお金で世界中の困っている人の財布を救った、としよう。さて、この借金は、
だれの借金なのか?
もちろん、世界中の人の借金だということになる。国連に所属している国の人々は、これによって、一人一人は、所属しているというだけで、重い債務の返済の義務が存在していることに直面する。
グローバル化とは、世界中の一人一人を「借金人間」としてより深いコミットメントを完成していくことだと言えるだろう(グローバル化を礼賛する人たちが、他方において、一人一人の義務や責任を、
道徳的
に、強調するのは、ここにある)。
現代社会は「連帯責任」社会であり、他人の失敗は、「みんな」で尻ぬぐいをさせられる。他人の負債は、上記のような、グローバル化の回路を通って、
みんなの負債
に化ける。私たちは、いつのまにか、

  • あなたには「罪」がある

ということにされている。それは、個人においても、変わらない。個人は、別に、クレジット・カードを使わなくても生きられるのに、わざわざ、
金融的(信用)手続き
のリスクに、巻き込まれることを、選ぶ(それは、実際に便利な面が、多くあるからではあるのだろうが...)。
しかし、さっきから言っているように、この
信用の体系
は、「恐しく」私たちの「直観」から離れている。あまりにも、巨大な信用に、なぜ私たちはコミットメントを強いられるのか。こういったものに、ふりまわされなければ、現代人が生きられないとするなら、それは一つの現代の「不幸」を意味している面はないのだろうか...。

危機に対して、私たちが直接的に介入していくことは難しいかもしれません。しかし脱落というか、ボイコットをすることはできる。このような堪らない状況に陥った時に多くの人が考えるのは移住でしょう。しかしグローバル時代においては、どこへ移住したとしても地球経済からん逃れることはできません。似たような問題はどの国でもあるわけです。そのような逃げ道がない中で、人々はどのように自己防衛として行動しうるのでしょうか。
一つには、「内なる脱出」というか、地域社会による市民的反乱がありうるのかもしれません。イタリアの北部同盟やイギリスのスコットランドが独立を目指す動きは間欠的にありますが、そういった動きが一般化していくかもしれませんね。こんな状況には耐えられないということで、独自の通貨圏を作ってしまう。その地域通貨の中だけで完結する経済を目指すわけです。

浜矩子「財政恐慌の時代」
現代思想2012年2月号 特集=債務危機 破産する国家

あらゆる動きに対しては、必ず、二方面の動きがないときは、なにかがおかしい、と思った方がいい。グローバル化の動きがあるなら、当然、別の側面においては、
ローカル化
の動きがなければならない(それを言わない人は、つまりは、思考停止ビジネスをやっているのである)。
自分たちがもし、今の金融システムに問題を感じているなら、そこと完全に分かれた、独立した通貨圏を構想することは必然であろう。もちろん、これと、グローバルな金融システムは、
平行して存在
すればいいだけのことではないか。グローバルな世界線と、ローカルな世界線は、共存しながら、互いに交わることがない形で、私たちの日常の世界線を覆う(これが、多様性である)。私たちの生活を守るために、地産地消の、エネルギー、農業、サブカルチャー、を中心とした
文化共同体
を作り保護しながら、他方において、グローバルな倫理的「世界共和国」を、
構想することは、矛盾しないと思うのだが...。
現代社会は、あらゆる人々の行動を、金融的手続きによって、行われるように、システム化することによって、その「リスク」を、一つの
キメラ
にして、操作しようとする「一般意志2.0」の世界だといえるだろう。この巨大なキメラは、一見すると、私たちに、「世界平和を実現する」手段を与えているように思える。なぜなら、「これ」をなんとか変えられさえすれば、実際に、「世界平和になった」ということと、1対1に対応しているように思えるから。
しかし、その「全体」とは、結局は、一人一人の一つ一つのリスクの「集合体」であって、人類は、その
さまざまな「リスク」を平均化されたリスク
を、(なぜか)常に背負っていることを強いられる、「無条件義務」的存在へと、変えられていることを意味する(ハイデガーの「不安」に近いですね)。
つまり、21世紀とは「借金人間」の世紀だということか...。
(今までの話とはなんの関係もない、余談ではあるが、ブログ「Life is beautiful」で紹介されていた、
screenshot
初音ミクのライブ・パフォーマンスをみていて、自分が以前にブログに書いた、

を思い出した。あの、くねくねとした動きの
完成度
を見ていて、つまりは、21世紀の「日本」とは、
初音ミク=借金人間
の世紀なんだなー、と変に納得してしまったのだが、すみません、ちゃんと考えをまとめて書かないで orz。)

現代思想2012年2月号 特集=債務危機 破産する国家

現代思想2012年2月号 特集=債務危機 破産する国家