小野善康『成熟社会の経済学』

戦後の日本は、間違いなく、ある時期を境にして、変わってしまった。それは、いつからだったのかは分からない。しかし、変わったことは、確かなのだ。
しかし、こういうことを言うと、多くの人は戸惑う。「変わった」というのは、戦前から戦後への体制変化のことを言うのであって、そういう意味では、戦後は一貫して、現憲法のままの民主主義国家であった。これほど、
なにも変わっていない
という意味が分かりやすい例はないだろう、と。
しかし、そういうことではないのである。それは、ある時期から流行し始めた「成熟社会」というバズワードが象徴しているような、
ある変化
について言っているのである。
戦中日本の合言葉は「欲しがりません勝つまでは」であった。ところが、日本に「終戦」の日が訪れる。これが何を意味していたのかは分からないが、とにかく、明日から、国民には赤紙が配られることはなくなり、日本には「軍隊」がなくなり、さて、

  • 欲しがりません勝つまでは

はどうなったんですかね。よく分からないが、とにかく、なにかが変わったらしい。
しかし、そうだろうか。
そんなに簡単に人間は、変わるだろうか。こう考えてみよう。つまり、日本の戦後とは「欲しがりません勝つまでは」を、
継続
してきた社会だった、と。そもそも「勝つ」とは、一般に、どういうことを意味しているのであろう。近年、普通に「勝つ」という言葉を使うときというのは、「ゲーム」において、である。ある、規則を決めて、二つのプレーヤーがいるときに、一方の状態が他方と比較して、ある「目標」をクリアしていると判断されているとき、「勝った」と呼ばれる。
しかし、大事なことは、これがゲームであるということの意味は、これは一つの
比喩
であることを意味していることであろう。太平洋戦争において、日本とアメリカは戦争をしたのであって、そこで、「欲しがりません勝つまでは」と、政府が呼びかけて、その言葉を生きた日本人の一人一人にとって、この戦争に「勝つ」とは、なにを言っていることを意味したのであろうか。
戦後、アメリカの占領国となった日本には、その後、大量の
アメリカ情報
が入ってくる。そこに見えていたものは、アメリカン・ウェイ・オブ・ライフというもので、つまりは、庭付き一軒家に、マイカーに、掃除機、洗濯機、に冷蔵庫。朝食は、トースターで食パンをこんがりローストして、ジャムでもつけて、コーヒーや牛乳にサラダとベーコンエッグ。あとは、目の前にテレビでも置いておけば、いつもの通学前や出勤前の朝食風景だ。
そういった生活が、うらやましいと思ったかどうかは、知らないが、少なくとも、食べものもなく(なんてったって「欲しがりません」ですからね)、明日をどう飢えをしのぐかに必死だった、日本の一人一人にとって、
どうなればいいのか
は自明であった。戦後アメリカの占領下になった日本人が、アメリカに卑屈になり、ありがく喜捨を受け、あいそ笑いをしたことが、日本人が「負けた」ことを意味していたと考えるべきではない。そういった行為は一見、「負け」という状態への
恒常化(固定化=従属化)
と思われるかもしれないが、そうではない。相手にバカにされ、笑われ、嘲笑されることは、「結果」というよりも、勝負の過程において、必ず訪れる一つの現象と考えるべきだ。
「勝つ」とは、
相手と同じ
になることを意味する。相手と同じになっていないことから、「劣等感」が生まれるとするなら、相手と同じだと自分が思ったときが「勝利」なのであって、つまり、勝負とは、
相手の「土俵」に登る
ということの宣言なのであろう。ここから、じゃあ、どうなれば「相手と同じになるか」は、非常に具体的な手続きの話となる。まず、上記の例を考えてみよう。上記のアメリカン・ウェイ・オブ・ライフを、どうやったら、

  • コスプレ

できるだろう。なにをおいても、それぞれのコスプレ道具を集めなければらない。物不足の日本で、考えつくその方法は、「自分たちて作ってしまう」。これしかない。

  • 家、自動車、掃除機、洗濯機、冷蔵庫、テレビ。

まず、これらを作らないことには、あの「朝食風景」をマネできませんね。まずは、こういうものを作り、人々の家庭に送り届けなければなりませんね。
ここで、大事なポイントは、これが「国家目標」になっていた、ことではないか、と私は思っている。一般に、こういった物欲というものは、お金持ちの象徴とされ、感情的な反発が起きやすいものである。そんな、贅沢品がなくても、生きていけるんだから、と、倫理的な反発が生まれやすい。
しかし、「欲しがりません勝つまでは」は、なんてったって、「国家目標」ですからね。
誰も反対できない。
上記のような家電製品を作ることも、庭付き一戸建てを建てて住むことも、

の、戦後、引き続き(精神的水面下で)行われ続けていた、総力戦の、一局面にすぎないわけで、こういった「陣地戦(局面戦)」に反対すること(こういった、一人一人が、アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ化を目指すことに反対すること)は、もはや
利敵行為(非国民)
を意味したわけで、誰も反対できるわけがなかった。つまり、国民の「だれもが」この、「アメリカのマネ」ができるところまで、裕福に「する」ことが、国家目標となりえたわけで、つまり、「再分配」の大きな動機付けになっていたわけで、むしろ、再分配に反対することが(日本人にアメリカのマネをさせないための)「売国奴」を意味していたのだろう。
もっと言えば、たとえ、ああいった、アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ化が「嫌」だと内心思ってた人がいたとしても、そういう人でさえ、そういった生活を「しなければならない」(無理矢理、福祉を受け入れなければならない)という、精神的圧迫感があったことを意味する(なぜなら、「みんな」が、アメリカのコスプレを「やっている」ようになっていない限り、「日本がアメリカに勝った」ということを「論理的に」意味しないと思われるから)。
しかし、あらゆるゲームが最後には、終わりを迎えるように、実は、この戦いも「すでに」終わっていた(つまり、成熟社会になっていた)。
しかし、それは「いつ」だろう?

日本人は欲しい物を求め続け、実際、人びとの生活に新しい物が次々と加わっていきました。こうして高度成長を続け、十分な生産力を備えた先でふと気づけば、欲しい物はすべてそろってしまった。それが、一九八〇年代です。
そのまま、人びとが欲しいと思う物の量(総需要)と、日本人全員が働いて作ることのできる量(供給能力)がバランスした状態が続けば、人びとの生活の豊かさも保たれたまま、企業も物も作れば売れるし、失業もありません。ところが、あまりに生産力を拡大したため需要不足になってしまった。それでも新しい魅力的な商品を作り出し、人びとはどんどん買ってくれればいいのですが、成熟社会になれば、いますぐ欲しい物はほとんどすべてそろっていますから、新製品の開発は非常に難しい。実際、九〇年代以降、高度成長期の家電製品や自動車に匹敵するような大ヒット商品は、ちょっと考えてもパソコンと携帯電話とiPodぐらいしか思い浮かびません。
そのようになれば、人びとは現状の生活に満足し、ほどほどに働けば十分という幸せな状態になるように思える。すでに身の回りにある物やサービスを引き続き維持できるのであれば、それ以上働いてお金をためても意味がない。それなら、余分なお金は税金などで政府に払い、社会保険制度などを通してまだ成熟社会の恩恵に十分に浴していない人びとに回し、満足な生活水準を国民全体が享受できるようにすれば、それで日本はすべて丸く収まるはずです。
しかし、そうはならない。自分自身のことを考えても、どうしてもいますぐ欲しいという物はないし、これ以上ぜいたくを考えてもきりがない。だからと言って余裕の分は人にあげようなどとは思わず、自分でためておこうと思う。そうすれば、将来何か欲しい物があったらすぐに買える。不測の自体が起こったら、すぐに対応できる。最後に頼れるのはお金だと思う。これが正直な気持ちです。

「欲しがりません、勝つまでは」ということは、この日米戦争は、日本がアメリカのコスプレをできるようになった(みんなが「やれる」ようになった)時点で、日本の
勝利
だったわけである。

  • 家、自動車、掃除機、洗濯機、冷蔵庫、テレビ。

これらを日本人のかなりの人が持って、上記に描いた、アメリカの朝食風景を「ロールプレイ」できるようになったということは、つまりは、
日本の勝利
であって、ざまーみろ、アメリカ。私たちは、がんばって、努力して、戦中のご先祖さんを汚名を晴らしたぞ、と。アメリカに占領されて、さんざん屈辱的な扱いにも耐えてきたけど、こうやって、勝てたじゃないか、と。全部報われたんだ、と。
ところが、こういったゲームというものは、おもしろいもので、勝つために努力しているときは、そこだけを見ていればいいので、純粋真っ直ぐ君で、がんばれたんだけど、いざ、勝利をしてしまうと、その後(最後=目的)って、なんだったんだろう? ってなるわけですよね。
だって、そうであろう。

  • 家、自動車、掃除機、洗濯機、冷蔵庫、テレビ。

たしかに便利ですよ。でも、別に、こういうものがなくたって、生きられるわけでしょう。事実、それまでの日本人はこういったものがなかったって、それなりに、みんなでワイワイやって、楽しい生活をしていたのでしょう。
つまり、なぜ、こういうことをやるのか、なぜ、アメリカ式朝食を、あそこまでしてマネ(コスプレ)しようとしたのか、って考えると、あんまり意味のあることではなかったのかもしれない、ということになるのでしょう。
つまり、そもそもの目的が、この勝負に「勝つ」ことだったとするなら、ようするに、勝てばいい、ということになるんで、もうなぜマネするのかを考えないで、かたっぱしから購入するわけですよね。
つまり、戦争とは一つの「夢」と考えられるでしょう。じゃあ、その夢から覚めた後は、どうなるのでしょう?
まず起きることは、これが、この勝負の「勝利」だとするなら、まず最初に来るのは、「戦利品」をくれ、ということになるでしょう。事実、日露戦争において、実質的には、なんらかの「休戦」にすぎないはずの、ロシアの撤退を「勝利」と凱旋したがために、国内的には、国民の「なんかよこせ」の大合唱になってしまった。戦争に勝ったんだから、相手の国の土地を、おれのイエに分けろ。もともと、うちの先祖は土地を持ってなかったから苦労したんだから、それをよこせ。負けた奴らから奪って俺に恵め、と。
「欲しがりません勝つまでは」でやってきた戦後日本もそうで、バブル直前まで、高度経済成長期を経ることで、事実、ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われて、じゃーどうするのか、って。戦利品はなんだよ、って。
普通に考えれば、それは「欲しがらせてもらいます」ってことですよね。つまり、今までは「我慢」してきたんだ、と。
つまり、戦後の、焼け野原において、なによりも優先されたことというのは、「復興」であった。つまり、みんなが一緒になって、「この戦争」に勝とうと、
みんながアメリカン・ウェイ・オブ・ライフを過ごせるように、みんなを引き上げていこう
というのが、戦後の「倫理」であった。これこそが、「戦争」であって、戦争に勝つということが、日本人がアメリカのマネをすることなら、
全員
をそういうところにまで導かれなければ「勝利」じゃない、ということですからね。みんな、自分の「欲望」を我慢して、全員を引き上げるわけです。
ところが、「勝ってしまった」後は、もう「我慢」はいらない、ということになります。もう「がんばらなくていい」ということになりますから、つまりは、

  • 他人のことなんてどうでもよく、自分の好きなようにしていいってことね

となるだろう。

ここ数十年の日本経済における大きな出来事を振り返ると、一九八〇年代のバブル景気と九〇年代初頭のバブル崩壊後に起こった長期不況が思い浮かびます。この二つは好況と不況を現しているので、正反対のように見えます。しかし、お金への欲望に注目すると、いずれもお金への欲望が生み出す現象で、根は同じであることがわかります。お金と言ってもいろいろあり、現金だけでなく土地や株式も、蓄財への欲望を満たすという点ではお金と同じ役割を持っています。欲望が土地や株式に向かえばバブルが起こり、お金そのものに向かえばデフレと不況が起こるのです。
もう物はいらないがお金は欲しい、でも現金で持っていたら収益がないから、何かもうかる資産を持っておこうと思って、人びとの欲望が土地や株式に向かう。その結果、地価や株価が上昇する。これがお金をもっと持ちたいという欲望をかなえていくから、そのこと自体が価値となって価格付けされ、地価や株価がどんどん上がっていく。つまり、企業や土地が生産活動やサービス提供をすることによって生まれる価値ではなく、お金を持ちたいという欲望を満足させることの価値が地価や株価に反映されて、自己増殖的に広がっていくのです。これがバブルです。

ここで言っていることは重要で、つまり、なぜ「バブル」になったのかは、なぜ今は「デフレ」なのかと、同型だということですね。バブルもデフレも、私たちに欲しいものがなくなった(生きる目的がなくなった)、ということと同値であることを示します。つまり、この二つの現象が起きたということは、それ以前に「既に」、成熟社会となっていた、という、事実を示します。
アメリカに勝利し、ゲームに勝利し、もうなにかを目指す目的を失った(欲しい物のなくなった)後、つまり、
成熟社会
となった後、そもそも自分が集めることに執着してきた「お金」が、一体、なんのためにあるのか、分からなくなってくるわけです。
自分は目的を失い、働く理由を失い、今なぜ自分がここにいるのかを分からなくなったとき、さて、お金を持っているとはなにを意味しているのでしょうか?
そもそも、なにも欲しいものなどなかったのだから、なにもやりたいことなどなかったのだから、その場合の行動とは二つしかないでしょう。

  • 「なにもしない」ことを毎日「必死になって」やらない(ニートになる。本当になにもしない。仕事もしないで、毎日ブラブラしている)
  • 「なにもしない」ことを毎日「必死になって」やる(つまり、働くなりなんなり、とにかく「かんばる」んだけど、その集めたお金を使う「のではなく」、とにかく、貯金するなり投資するなりして、増やす「という」、「なにもしない」ことを「がんばる」)

二番目の方がおもしろい、ですよね。どうして、二番目のロジックが成り立つかというと、つまり、お金というのは、ある種の
共同幻想
と考えられるからでしょう。戦中から戦後にかけてのお金とは、「欲しがりません勝つまでは」や「アメリカのコスプレ」のことを意味していた。つまり、この二つの
指標
を意味していた。みんなが、この二つを「がんばっている」と思えている限り、お金が増えるということが何を意味しているのかが自明だったのだ。ところが、こういった梯子が外されたとき、そのお金が結局、何を意味しているのかが分からなくなるわけでしょう。自分が今欲しいものがないのに、なぜ自分がお金を集めているのかは、つまりは、
将来
になにかがあるんじゃないか、と自分を説得するしかない。もし将来になって、自分が欲しいものがあらわれたら、どうするんだ、と。
しかし、この考えが間違っているとするなら、

  • みんなが「将来のため」にお金を使わないと、みんなが「今」仕事を失い、みんなが「今」お金を集められなくなる

つまり、不況になる。最初に言ったように、お金とは、共同幻想なのですから、その「夢」が覚めてはいけないわけです。覚めないように、少なくとも、一定の割合の人には、これが価値があると思い続けてもらわなくてはならない。
つまり、実際に商行為に使われ続けることで、その価値を「実践」し続けなければならない。そうやって、交換に使われている限り、「このお金はこれだけの価値がある」という「夢」から覚めないでいてもらえるわけです。
ところが、みんなが将来のためにお金を持っているだけで使わなくなるという事態が起きたとき、商品は売れなくなるのですから、必然的に、商品の値段を下げざるをえない。しかし、値段を下げたら、労働者に払う給料が稼げなくなるので、給料を下げるか、レイオフをするしかなくなる。失業者は、巷にあふれ、働けるのに働く場所がない、生活保護で生きる人が増えるようになる。

  • 「将来のため」と言った時点で、それは「(今は)なにも欲しいものはない」ということを意味してしまい、つまり、今でさえ「なにも欲しいものはない」のだから、将来、急に欲しいものが生まれるはずもなく(どうして、今死のうとしている人が、なにかを欲しがるだろう)、つまりは、「お金にはなんの価値もなかった」ことが過去形で「証明」されてしまう。

大事なことは、これが「共同幻想」だということでしょう。お金は本来、人々の「欲望」を実現するためにあるはずなのに、人々に欲望(マネしたい、勝利したい、夢をかなえたい)がなくなると、物が流動しなくなり、その交換手段である、お金が流動しなくなります。つまり、社会は完全に以下の二つに分かれます。

  • やたらお金ばっかり増やしてるんだけど、死んでも、それを使おうとしない人たち。
  • やたらお金をもってないし仕事もなく稼げてないんだけど、生活保護をもらうなりして、そのまま死んでいく人たち。

つまり、格差社会です。この二つに共通していることは、とにかく、「どっちにしてもお金を使わない」ということです。
人々は欲しいものがない、実現したい「未来」がないのだから、なにもやる気が起きない。お金を使わない。たまたま、仕事につけて、毎日汗水たらして働いて稼いでも、そのお金を使わない。
だれもお金を使わないのですから、物は売れないということで、どんどん店が倒産します。街には、なにも売っていません。しかし、だれもそれを気にしない。自分の内側から、なにかを買いたい、という欲望が沸き上がってこないのですから。
今「そのまま」でいい。
なぜ、こんなことになってしまったのでしょう。それは、アメリカとの戦争に「勝ってしまった」からです。アメリカン・ウェイ・オブ・ライフを手に入れた日本人は、もう勝ったんだから、「欲しがります、勝ったので」と、なってみると、なにもかも、自分たちの過去の慣習から、なにからを捨てて、アメリカン・ウェイ・オブ・ライフを掴み取ることに必死になってしまったので、自分の内面から、沸き上がってくる、

  • これが欲しい

が自分の中に「もうすでに」ないことに気付くのです。あらゆるものを投げ捨てて、アメリカのコスプレだけを目指して日々を精進してしまったために、そもそも、自分には他に欲しいものがあったのかさえ、思い出せない。
(前の総理である管さんの政策ブレーンであった)掲題の著者の持論については、いろいろと、当時も議論があった。

政府が雇用を作る場合、どのような分野を選んだらいいのでしょうか。
本章の第1節で示したように、何の役にも立たない穴を掘って埋めるような事業なら、ばらまきと同じで論外です。そうかと言って、普通の必需品を配るような政策もだめです。一例として、増税資金でパンを配ることを考えてみましょう。その場合、人びとは政府から配給される分、自分のお金で買うパンを減らすだけで、パンの消費量が増えるわけではありません。つまり、直接パン屋さんに代金を払うか政府経由で払うかの違いだけで、実際的には何の効果もありません。
政府が支援すべきは、経営的には独り立ちできないけれど、あった方が国民生活の質が上がるような分野です。環境、介護、保育、観光などを挙げるのは、これらがこのような特徴を満たす分野だからです。高齢者でも健康な人たちはたくさんいます。その人たちが快適な時間を過ごせるような歴史的町並みの整備、自転車道や遊歩道の建設なども考えられます。

一般に、もしその事業がマネタイズできるなら、とっくの昔に、民間から出資され、私企業が生まれ、ビジネス・モデル化されているであろう。そう考えるなら、国家による公共事業は、たんに無駄なだけ、と思われるかもしれない。
しかし、先ほどから言っているように、そもそも「成熟社会」は、無需要社会であって、だれもなにも欲しくない社会である。つまり、どんな企業も儲からない社会であって、企業は労働者を雇わないのである。
大量の失業者は生まれるのが、「成熟社会」の必然だとするなら、むしろ考えるべきは、これだけ能力もあり、有益な失業者を、どう社会に活用しようか、ということになる。
そもそも、民間がこれらの労働者を活用しているなら、公共機関が、雇う必要はない、ということになる。しかし、民間は無需要社会において、商品を作ったら売れないで負けるのだから、労働者を雇わないわけである。だったら、その余っている労働者をなんとか、この
社会
の役に立たせたい、と思うことは、人情ではないか。そもそも、労働者に仕事がなければ、国はその労働者に生活保護を与えなければならなくなる。ということは、無職の労働者に対しては、

  • なにか(公共事業)をやってもらって「給料」をあげる
  • ただ生活保護をあげる
  • なかなか事業を拡大できていない「公共的な色彩をもつ」企業に「補助金」を、「それによって雇用が増えるなら」という条件で、投入する

の三つしかない。つまり、問題は「働きたいのに働く場所のない人たちに、どうやって働く場所を与えられるのか」ということにある。
ここでの大事なポイントは「なんとしても仕事を増やす」という決意だと言えるでしょう。つまり、日本社会に少しでも「進歩」を増やしたい、と。つまり、私たちは、なんとか自分たちが「あるとうれしい」公共サービスを考えなければいけない、ことを意味する。なんとしても、自分の中から、こういった働きたい人に仕事を与えられるような、「欲求」を見出さなければならない。
しかし、こういった「分野」とはどこだろう? 言うまでもなく、地方自治体であろう。その地域の実情から、見出されるものであって、こういった問題は、これからの高齢化社会において、さらに重要となる。
現在の高齢化社会の問題とは、高齢者社会福祉制度の問題だと言える。現在の年金制度が、若者から老人への「お金の移転」でしかない限り、この制度を今後も続けることには無理がある。
なぜ人々がお金を使わないのかは、将来への不安であった。ところが、先ほどから何度も言っているように、彼らは「どっちみち」お金を使わないのです。

では、どうしたらいいかと言えば、お金を使おうとしない高齢者には直接、物やサービスを渡し、働きたいしお金を使いたい現役世代には、仕事とお金が回るようにすればいいのです。それは、高齢者に物やサービスの現物給付をすれば実現できます。
もちろん、高齢者のなかにも、貧困で基本的な生活環境を維持するための蓄えさえ不足している人もいるでしょう。そういう高齢者には、生活維持のための現金支給が必要えす。それに、そういう人たちにお金を渡せば必需品に使うので、必需品の現物給付と同じで需要創出になります。しかし、生活が維持できる程度以上の蓄えがある高齢者には、年金の現金支給の一部を現物に切り替え、生活を楽しく豊かにしたり、安心安全な環境を作ったりする設備や物やサービスを提供すれば、高齢者はその分をお金でもらえなくても、安心で快適な老後を過ごすことができます。さらに、その費用は設備や物がサービスの代金として、現役世代の所得や収入になります。物やサービスを提供するためには人出が必要ですから雇用も増え、雇用不安やデフレを緩和して消費一般への刺激効果も生まれ、経済も拡大します。
これは、社会的な隠居制度のようなものです。

なぜ、著者がそのように考えるのかは、誤解があるように、お金を使うということはお年寄りには「難しい」から、です。これくらいの年齢になると、どこから何かを「選ぶ」ということは、著しく困難になります。たとえば、私は老人向けの iPad のようなツールは必須だと思いますが、彼らが、そういったことに気付けるでしょうか。また、私たちが老人になったとき、今流行しているものの中から、選ぼうと思うでしょうか。
例えば、私たちが老人になったとき、隣に介護ロボットがいてくれたら、もしかしたら、助かるかもしれない。しかし、もしかしたら、自分がそういう年齢になったときには、少しは認知症の症状も気になりだして、自分で「選ぶ」ことに自信を失くしているかもしれない。
こういった不況の時こそ、自分たちの未来のことを考え、それを「今」実現しようとしてみるべきなのかもしれません。
掲題の著者は、もう一点、ぶっちゃけている。

雇用確保が重要なことは、広く認識されるようになってきていますが、それを実現するには内需拡大しかありません。内需を増やさずに企業の生産力だけを増強しても、かえって失業が拡大するだけですし、外需頼みでは円高を呼んで国際競争力を失い、不況が悪化してしまいます。ところがこのことが忘れられ、日本で雇用を作って輸出で外貨を稼ぐような企業は大切だから、減税や補助金などの直接的な金銭支援を行って、海外に移転せずに日本で生産を続けてもらうようにしようという意見が多数を占めています。しかし、これでは円高が続いて新しい産業も育ちません。

このように、企業の海外移転とは、その産業が日本で発展途上国で拡大していくことの一形態にすぎません。そういう企業を無理に引きとどめるのは、衰退産業を存続させるのと同じです。そんなことはせず、自由に海外に生産拠点を移してもらって、日本への輸出を増やしてもらえばいいのです。そうすれば、経常収支の黒字幅が減って円安になり、日本の内需に応える新たな産業への支援になります。

先ほどから何度も言っているように、日本はアメリカ・コスプレ幻想を生きてきて、成熟社会とは、その幻想が破れた後のことを意味します。
そうすると、日本の工業製品輸出国幻想も、このアメリカ・コスプレ幻想の一部だと言いたくなるわけです。

  • 家、自動車、掃除機、洗濯機、冷蔵庫、テレビ。

こういったものを作れることが、日本人のアメリカ・コスプレ・コンプレックスの克服に繋がったため、どうしても、こういったものを国内で作ることと、私たちのアイデンティティが密接に関係してしまいます。しかし、何度も言っているように、私たちは、こういったものを
欲望
しなくなったのです。なぜなら、これらは「アメリカに勝つ」ことを意味する幻想だったので、その夢から覚めたところで、「本当にどうしても欲しかったものなのか」が疑問に変わったからです。
確かにこういったものを作れることは、それなりの現場の「奥義」もあるのだろうし、貴重なことかもしれませんが、実際に、「世界中の国々」の中で、こういったものを作り出す国々が次々と出てくるようになってしまったわけで、いつまでも、こういった
(電子機械)物
に自分たちのアイデンティティを関連させ続けるのは、違うのかもしれません。

たとえば、企業が中国に移転するとき、いきなり国内工場を全面閉鎖し、海外生産をフル稼働するわけではありません。国内の生産設備を償却しながら徐々に生産を縮小し、同時に中国での生産を拡大していきます。つまり、移転には時間がかかります。この過程で経常収支の黒字圧力が徐々に下がり円安が進行しますから、それに呼応して、これまで規模を抑えたり、参入できなかったりしていた産業の活動が広がっていきます。新産業の参入や発展は、移転した企業がもとあった場所で起こる必然性などまったくありませんから、因果関係が一見わかりにくい。そのため、気づいたら円安の進行で日本全体の雇用が増えていた、ということになるのです。

ここで、まったくの発想の転換をしてみましょう。私たちの、
(電子機械)物・幻想
が、アメリカ・コスプレ幻想なら、早晩、私たちはこの幻想に気付き、欝になります。つまり、別にこういったものを大量に生産する、
工場
が、国内に「どうしても」必要な理由はないのです。むしろ、私たちが子供の頃から、こういった機械部品による、「ガンプラ的」工作実習に親しみ、大学などでも、当たり前のように、世の中で売り出されている、工業製品の内部構造の知見を学ぶなら、こういった
コンプレックス
は、もっと低減しているでしょう。余った人材を、徹底した「イノベーション」、設計書の「発明」に投資して、優れたアイデアのパーツや、組み立てを、海外の工場で行ってもらう、ような「シンクタンク」的ビジネスを、(たとえ難しかろうと)普及させてみせればいいんじゃないですかね。こういったものが好きな人には、

  • アキバ特区

のようなものを作って、どんどん「試作品」を作れるような「場所」を提供すればいい。そうすれば、部屋で、なにもやることがなく、モンモンと過ごしているニートも、お金はなくても、おもしろそうだと、外に出てくるかもしれない。
では、農業はどうだろう。一つだけ、間違いなく言えるのは、農業を完全に市場化すれば、海外の大規模農業に負け、国内の農家は、韓国のように、ほとんど生き残れないことだろう。掲題の著者は、「生産補助金」の重要性を強調するわけだが、完全市場主義者たちは、国内の農業に競争力がないなら、滅んでむしろ、せいせいする、くらいに思っているのだろう。
しかし、本当にそうだろうか。私には、これも一つのアメリカ・コスプレ・コンプレックスにしか思えない。

都会と地方では、地方を切り離すことはできませんから、格差放置か支援するしかありません。そのとき、地方はいくら荒れ果てても都会に移住すればいい、というのが国民の総意なら、もちろんそれも仕方がないでしょう。しかし、地方にいけば豊かな田園が広がり、きれいな里山や皮が広がって、のんびりトレッキングができる。そういう国にしたいなら、そのために税金を負担するのは当然だし、それによって生み出される内需が雇用の安定化を生むので、景気もよくなります。

先ほど少し言いかけたことですが、私は、個人的には、農本主義というか、昔の農本主義的な本などを読むのがけっこう好きで、それは、自分のルーツではないが、自分たち日本人が過去に何を考えていたのか、なにを夢見ていたのか、どんな未来を後の世代に託そうとしていたのかを、気付かせてくれるような気がするからである。
私たちは、いい加減、アメリカ・コスプレ・コンプレックスから脱却して、次の時代を夢見なければならない。しかし、それは、どこにあるのか? それは、
自分の内面
にしか、ありえないはずだ。つまり、自分の内なるところから、沸き上がってくる「なにか」。つまり、それとは、

  • 自分の今生きている過去において、自分の上の世代が夢見た「なにか」

のはずなのだ...(少なくとも、そういったものと関係していると思うのだが...)。
(例えば、農業は難しいと思っている都会っ子は、初心者向けということで、「さつまいも」なんかを育ててみることから始めてみるのはどうだろう。この野菜は、かなり「勝手に育つ」ので、比較的失敗が少ない方だから、早いうちに「成功体験」をつめて、モチベーションも高まるかもしれない...)。

成熟社会の経済学――長期不況をどう克服するか (岩波新書)

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