サイモン・ジョンソン『国家対巨大銀行』

(ジェームズ・クワックとの共著。)
私たちは、そもそも、経済学とはなんだと考えているのだろう?
この問いの意味は、経済学とは、あくまで、お金の「流れ」と「淀み」を分析し、その現象を理解することだと思うからである。
そうすることで、今度はその「流れ」に差配することで、あまねく人々にお金を
回し
行き渡らせ、社会的な所得のバランスを実現させることも可能になるだろう、と。
しかし、その「流れ」に介入するということは、どういうことであろうか。一般には、それは「政治の場における政策」と深く関係して、考察される。つまり、経済学には、著しく「政治学」として「解釈」される傾向がある。
この辺りを、「意識化」できていない、ポジション・トーカーは、結局のところ、何が言いたいのか分からないような、運命論や不可避<おどし>論を繰り返すことになり、しまいには、「自分の立場」とかいうものを、ひっぱりだしてきて、もうそういう、ポジション・トークは、この日本を日々守るためにがんばられているはずの、エリートの御方々に、おまかせすればいいんじゃないでしょうか。
その人が、一体、何を言おうとしているのか、は、その人がどういった「政治思想」をもっているかということになるのかもしれないが、それと「経済学」は、別のはずである。「政治思想」とは、つまりは、その人の人生観のようなもので、例えば、オキュパイ・ウォールストリートのような、
99%の貧困と1%のスーパーリッチ
にしても、それの何が悪い、と思っている人たちは、いるわけで、つまり、自分がスーパーリッチの恩恵にあずかれると思っている人たちにとっては、むしろ、
こうであってほしい
ということなのだろうから、変わってもらっては「困る」ということになるのだろう。こういう「立場」で、主張をされるのであれば、そりゃ、なかなか議論はかみ合わない、ということになるのだろう。
はっきり言えることは、オキュパイ・ウォールストリートのようなことがあって、それでも、まったく、今のままの金融制度でいいと考えるお気楽さんは、中の人くらいしかいない、ということになるのだろう(山形浩生さんのような人でさえ、たとえアイロニカルであるとしても、以下の感じ、というわけですから)。

本書はこのウォール街占拠の絶頂期に緊急出版された、ある意味で檄文集となる。したがって、読む人は当然、各地で同時多発的に起こったこの占拠運動がなんたるか知っているものと想定されている。そして本書の記事の多くが初めて登場した雑誌であり、本誌の編集も行っている『YES!マガジン』が左翼的な反企業エコ雑誌であるため、掲載論文の多くはいかにウォール街占拠に便乗してそうした自分たちの主張を広められるか、あるいはウォール街占拠運動を自分たちの運動にオルグできるか、といった狙いのものとなっている。
そうした主張に賛成するかどうかはもちろん、読者次第ではある。

そしてウォール街自体も、いまのところ変化の兆しはないものの、いずれ変わらざるを得ないだろう。というより、いまにして思えばウォール街や金融セクターが、サブプライム住宅ローンをもとにした論外な金融商品の編成と販売に血道を上げたという事実は、金融セクター自体の活躍の場がすでに狭まりつつあり、かなりいかがわしいものに手を出さなければならない状態にすでに陥っていた、という証拠でもある。そして金融危機をきっかけに、大手の投資銀行や証券会社は次々に吸収合併され、ウォール街そのものがすでに変質を始めている。むろん、それが一時的なことだという人もいる。ほとぼりが冷めたら、また連中は平気で次のサブプライム問題を起こすりょ、と。だが、そういう事業機会自体がひょっとしたら残されていない可能性もある。
そうした中で、金融セクターも変わらざるを得ないだろう。その方向は、本書の論者たちが挙げるような、エコだの地産地消だの、ましてお金を廃止だの金融禁止だのといったお題目とはあまり関係ないものだろうが、一方でウォール街占拠の参加者たちが本当に望んでいる、人々のためになる金融という狙いに沿ったものになるのではないか。
そうした具体的な方向性は、現時点ではわからない。だがかねてより金融部門の過熱と機能不全に警鐘を鳴らしてきたロバート・シラーは、各種の金融上の安全策と格差解消のための金融商品構築を提唱し、また近著でも金融の民主化の必要性とその具体的な方針について提言を行っている。金融の機能は活かしつつも、それをどのように一般の人々に奉仕させるか? あるいはあまり人々の利害と乖離しない形で存続させるのか? おそらくこの問題が解決されない限り、第2、第3のウォール街占拠----そのときは別の場所で別の形をとるかもしれないが----は必ず生じるだろう。

山形浩生「訳者解説」

99%の反乱?ウォール街占拠運動のとらえ方?

99%の反乱?ウォール街占拠運動のとらえ方?

金融で、お金を儲けている人たちは、あらゆる金融システムの規制に反対なのだろう。しかしそれは、多分にポジション・トークの面があることを理解しなければならない。
藤沢数希という人のブログに、近年の金融と、ドラゴンボールのスーパーサイア人の能力の「数値」化の
ハイパーインフレーション
とのアナロジーの記事が、以前あったが、
screenshot
(これも、ポジション・トークと考えれば分かりやすい)。しかし、言うまでもないが、
ブラウン運動
は左右対称なのであって、
+1000兆円
儲ける人が現れれば、
−1000兆円
つまり、1000兆円の
借金人間
が現れなければ「なにかがおかしい」ということになる。それが、サブプライム・ローンによる、リーマン・ブラザーズの倒産だったわけだが、この1000兆円の借金人間を
なかったことにする
のが、政府による、銀行救済が意味することであろう。

三月最後の金曜日のこの日、アメリカ最大級の金融機関一三行の最高経営責任者(CEO)がホワイトハウスに顔をそろえ、オバマ大統領と会談している。「あなた方を助けるのを助けてほしい」と大統領は要求した。そして会談後に開かれた記者会見では、出席者はみごとに歩調を合わせてみせる。まずはローバト・グブス大統領報道官が、大統領からのメッセージを簡単に報告した。「全員が力を合わせなければならない。われわれはみんな一緒だ」。続いてシティグループのCEOブクラム・パンディットが「われわれはみんな一緒だと感じている」と繰り返し、ウェルズ・ファーゴのジョン・スタンプCEOが「大事なのは、われわれはみんな一緒だということである」と呪文のように唱えた(訳注:このフレーズ”We're all in this together”は、ディズニーの人気ミュージカル映画ハイスクール・ミュージカル』のフィナーレを飾る曲の一節である)。

オバマ大統領は、この「大きすぎて潰せない」アメリカトップ一三行の金融機関を
特別扱い
し、国民のお金(税金)をジャッブッジャッブッと彼らに「惜しみなく愛(恵みのお金)」をあげて、国民を「借金人間」へと製造したわけだ。

  • 「われわれ(オバマ大統領と13人のCEO)」はみんな一緒(お友達)

というわけで、「大きすぎて潰せない」彼らは特別扱いで、ジャッブッジャッブッ。好きなだけ、お金あげるよー。
ところが、他方において、小さいけど、なんとかがんばっていた所は、次々と、潰れて、いなくなっちゃったんで、彼らは、むしろ、危機前より、価格を値上げできるようになるし、お客も増えるし、儲かっちゃうわけですよね。
つまり、これって、失敗すると「褒美」がもらえる、ってことで、分かったことは、
反省
ってしちゃいけないんだな、ってことですよね。どんなに、無茶苦茶をやっても、どうせ政府がジャッブッジャッブッとお金を注ぎ込み、そのツケを国民に回して、しまいには、競争相手は、次から次といなくなるわけで、つまり、
おいしい危機
ってわけなんでしょうね。
しかしね。これって、それまで何度も繰り返されてきた、経済危機が、「たまたま」本丸のアメリカでも起こったってだけ、にしか見えないんですけど。

危機は一つひとつどれもちがうものだが、韓国の危機は多くの意味で、一九九〇年代に起きた新興市場危機の典型と言える。すなわち、有力者とコネを持つ大企業が低利の借り入れで急速に勢力を拡大した。資本主義経済で企業の無責任な行動を防ぐはずの力は働かず、株主は強い発言権を持つ創業者に対してほとんど無力だった。貸し手は、主要財閥の重要性から考えて政府が破綻を容認するはずがないとの前提で、無節操に貸した。建前上は国有銀行が資本の流れをコントロールしていたが、民間部門と政府は癒着しており、財閥に恐れるものは何もなかった----このように、経済危機とは言っても、政治的な要因が重要な役割を果たしていたことがわかる。

なお新興市場危機には、長引かないという共通の特徴もある。外から見ていると企業統治もマクロ経済運営もクローニー資本主義(縁故資本主義)も一向に改まっていないのだが、経済成長は持ち直す。一九九九年には、韓国経済は一一・一%成長した。ロシアは韓国より少し時間がかかり、一九九九年の時点では四・五%止まりだったが、二〇〇〇年には一一%を記録している。自国通貨が下落して輸出が拡大し、失業が蔓延して労働コストが押し上げられる中、債務の繰り延べをしてもらった企業や借金のない新興企業は、売り上げを伸ばしつつコストを抑えることができる。生き残った企業は拡大したシェアにモノを言わせ、政治家との旧交を温めて、前よりも強大になる。こうした企業を所有する寡頭勢力は、ますます富裕になる、という具合である。
このように、抜本的な改革をしなくとも経済成長は復活しうる。するとどうしても外国の貸し手は、危機からまちがった教訓を学んでしまう。つまり、いよいよとなったらIMFがやって来て、不適切な投資の結果から守ってくれることを学ぶ。また、強い政治的影響力を持ち、危機の際の救済がほぼ約束されている企業に投資しておけばまちがいないことも学ぶので、クローニー資本主義の構図は温存されることになる。その結果、外国資本が再び流入してきたとき、新興市場国はまたしてもバブルと崩壊のサイクルを繰り返す。おそらくは、これが際限なく続くのだろう。

財閥が、もし「特権階級」、つまり、身分であるなら、国は彼らを「優遇」しなければならない。つまり、彼らがお金を貸してくれと要請してきたら、断れない、ということになる(つまり、上の身分なのだから、下の身分の大衆の税金を上げてでも、彼らに貢がなければならない、ということになる)。
これは、日本の経団連についても言えるだろう。経団連は、そもそも、加入するには、申請が認められなければならないが、それなりの「大きすぎる」会社でないと認められない。つまり、
ギルド
のようになっていて、身分的だと言える。そうなると、当然、経団連内の「序列」も生まれる。つまり、この「序列」の「身分化」も始まる。東電はそのトップであるだけに、経団連に所属する会社が、みんなで、東電を守ろうとする。忠誠を誓うわけである。もし、東電が簡単に国家によって国有化されれば、トップが、お取り壊しなのだから、同じことは、下々にもあまねく広がるということなのだから、みんなで親分を必死になって守ろうとする。
しかし、そうやって、たんに「大きすぎて潰せない」ということでは、モラリティは崩壊する。大事なことは、例外なき「規律」であるわけで、企業を国民のコントロールできる「透明」な存在に、押しとどめるのは、国家による法である。

韓国は、剛腕の改革者を擁していた点で、つまり金大中が危機発生から一ヶ月後に大統領に就任した点で、有利だったと言える。金はすでに数年前から前政権やその後援者と戦っており、財閥にも、また財閥には特別扱いが必要だという主張にも、きわめて懐疑的だった。金の指示基盤は多様で、たとえば著名な参与連帯(PSPD)は、財閥を牽制し経済基盤を強化し民主政治を守る手段として、企業統治改革を訴えている。政府はサムスン電子やSKテレコムといった大企業に対し、会計の透明性を高め、少数株主を略奪から守るよう指導した。財閥の力を制限する改革も推進し、グループ内での債務の相互保証の禁止、財閥内の企業間投資の縮小、系列会社数の制限、財務内容の開示の強化、財閥によるノンバンク経営の制限を定めたほか、大企業には社外取締役の設置を義務づけている。加えて、債務比率の圧縮も要求した。
こうした改革で、経済支配力の集中の問題がすべて解決したわけではないが、それでも自律的な景気回復が実現している。危機後の企業改革や政治改革が十分だったかどうかについては、韓国内でも議論は多い。たしかに、サムスン、LG、SK、ヒュンダイといった巨大財閥は、いまなお経済シーンで圧倒的な存在感を誇る。だが危機を誘発した根本的ん問題は、経済支配力の集中が政治に影響をおよぼしたことであり、この問題に正面から取り組んだという点で、改革は正しい方向への第一歩だったと言えよう。

IMFが主導したということだとしても、この韓国での改革は、かなりの腕力が必要だったことは確かだろう。つまり、財閥のような
特権階級
に、煮え湯を飲ますことは、著しく困難なわけである。特権階級は権力と癒着し、権力が必然的に腐敗するように、特権階級も、そう簡単に、自分たちが不利になる条件を飲むことはない。
では、なぜ韓国はここまでのことができたか。ひるがえって考えれば、韓国は「ここまで」しかやらなかった。つまり、IMFの「たてまえ」を全て飲んでも、結果として、韓国内の「独占財閥体制」を維持できる限り、あとは、
いつか、なんとかなる。
その間は、国民から、税金をしぼりとって、財閥に恵み続ければいいのだから。
つまり、韓国財閥は最後の最後の一線である、「大きすぎて潰せない」を、なによりも優先したから、ああいった「透明化」を忍従できた、わけであろう。
では、もし、その存在が「大きすぎて潰せない」を認めることができないなら、どのような態度が、想定できる態度であろう?

だが最も驚くべき離反を起こしたのは、誰あろう、アラン・グリーンスパンだった。メガバンク時代の到来に、おそらくグリーンスパン以上に力を貸した人間はいない。そのグリーンスパンが一〇月の講演で「現在私たちがぜひとも解決しなければならない重大な課題は、大きすぎてつぶせないという問題である」と述べ、どう解決するのかという質問に対して次のように答えた。

「大きすぎてつぶせないなら、それは大きすぎるのだ。私はそう考えるようになった。なぜなら、もはや信頼できる政策対応を講じられなくなっているからだ。したがって今後は、いかなる金融機関も、大きすぎてつぶせないからという理由で支援されるべきではない。
すくなくとも私たちは、隠れた補助金が巨大銀行に競争優位を与えていることに注意すべきである。この見えない補助金のおかげで、大手は中小を競争で打ち負かすこと1ができる。この状況を是正しない限り、時代から取り残された瀕死の金融機関を抱え込み、アメリカ社会の貯蓄を無駄に垂れ流すことになるだろう。
大手金融機関の手数料や資本比率を引き上げるとか、課税を強化するといった措置だけで十分だとは思わない。大手金融機関はそうした負担増は吸収し、しのいでいけるだろう。そうなったら、銀行は結局非効率のままだ。そしていつまでも預金を利用し続けるだろう。
だから私はもっと大胆な提案をしたい。それは、銀行の分割である。一九一一年にスタンダード石油を分割したら、何が起こったか。分割後の各事業は、分割前より価値が高まった。おそらく私たちがいま必要としているのは、これである」

巨大銀行を分割する理由は、ごく単純である。大きすぎてつぶせない金融機関がなくなれば、ある銀行を有利に、残りを不利にするような隠れた補助金なくなる。債権者と取引相手は、むやみにリスクをとる銀行との取引を断ることで、監視役を果たすようになる。銀行自身も、金融危機につながりかねない過剰なリスクテークは控えるだろう。さらに前提からして、銀行が破綻しても税金で救う必要はない。

まあ、普通に考えれば、こういうことになるだろう。そもそも、「大きすぎて潰せない」など、なにかの矛盾にすぎない。あらゆる前提は、
ルール
のはずで、そのルールが、液状化を起こすなら、それはもうルールではない。ルールとは、一切の例外を認めないことで始めて、その意味が通る。
つまり、「大きすぎて潰せない」のなら、「大きすぎてはならない」という、前提を認めている、ということではないか。
たしかに、サブプライム・ローン・バブルがはじけたことで、もし、クレジットカード会社が倒産でもしようものなら、ものすごい、国民の財産に被害が及ぶであろう。しかしそうなら、なんらかの、
保険
システムが必要ということであって、別に、なにがなんでも、今の図体を維持させなければならない、という話ではないだろう。つまり、
解体
が最初なわけだ。

最もシンプルな解決策は、規模に厳格な上限を設けることである。すなわち、いかなる金融機関も、アメリカのGDPに対して一定比率(%)以上の価値の資産を管理運営または所有してはならない。性格なパーセンテージ決めるのは技術的な問題であり、私たちにはまだ解決できていない。が、めざすところははっきりしている。このパーセンテージは十分に低く、これを下回る銀行が破綻しても金融システムに重大なリスクをおよぼさない水準でなければならない。議論の出発点として、この上限を対GDP比四%以下としてはどうか。

総資産規模の制限は、金融の安定にとって必要条件ではあるが、十分条件ではない。最近の危機を急激に加速させたのは、巨大な商業銀行や貯蓄銀行ではなかった(危機になってから、そのうちのいくつかが破綻あるいは破綻同然になったが)。引き金となったのは、規模はやや小さいがリスク選好の強い投資銀行ベアー・スターンズである。ベアー・スターンズの資産総額は、二〇〇七年末の時点で四〇〇〇億ドルに過ぎない。金融機関が五七〇〇億ドルの上限ぎりぎりまでリスクの大きい資産を抱え込むこともあり得るので、大きいリスクをとる銀行については、上限を下げる必要がある。このとき、デリバティブ・オフバランスのポジションなど、破綻の際に他の金融機関に多大な損害がおよびかねない要因を考慮しなければならない。このように考えると、リスクの大きい取引に携わる金融機関には、破綻に伴う波及的なダメージを食い止めるために、安全資産の比率が高い金融機関よりも低い上限を設定すべきだろう。これもまた技術的な問題であり、本書の手には余る。金融システムの安定性を脅かさない程度に規模を制限しなければならない。出発点として、投資銀行ゴールドマン・サックスなど)の規模の上限は、対GDP比二%以下としてはどうだろう。これだと、現時点ではおよそ二八五〇億ドルになる(将来、リスク資産の比率が高まるようなら、それに応じて上限を引き下げる)。

「大きすぎてはならない」の具体的な数値の例としては、こういった感じなのだろう。
いくら「成長」は素晴しいことだとしても、スーパーサイア人がカメハメ波で地球を丸ごと壊せるとか、やめてくれ、って感じでしょうか。
こうやって考えてくると、どうしても、「貨幣」とはなんなのか。どういう役割がここには与えられているのか、どうして、今のような形態になっているのか、といった考察が不可欠のように思えてくる。
例えば、今後ここ何年かで、急激に拡大するのではないかと予想できるのが、ネット上での小口の「献金」のような、非常にマイクロなお金のネット内での
喜捨行為
であろう。無名のコンテンツ・クリエーターに人々が、彼らの活動を支援「したい」という意味で、寄付を行うことは、例えば、フリーのアプリ開発などでは、あったと思うが、銀行振込作業など煩雑であったり、少額の場合になじまなかった。しかし、もし、超小口の寄付を
(ネットの)ボタン一つ
で、ポチッとやれるなら、相当状況は変わるのかもしれない。こういった慣習の普及が、まったく今までとは違った(岡田斗司夫さんの言う)「評価」社会を実現していくのかもしれない。しかし、それと「徴税」行為とが、あまり相性がよくなければ、こういった行為を制限したい国家の側の圧力も考えられるだろう。
例えば、もし貨幣が、「価値」の表象であるなら、最低限必要な機能は、

  • 分割可能性

となる。リンゴ一個が100円であれば、半分に割ることで、それぞれを50円で売れなければならない。しかし、一般に、これは成立しない。
つまり、1円のリンゴ一個を半分にしても、0.5円では、売れない。
しかし、日本の人口が1億5千万人だとして、その一人一人に、0.5円恵んでもらえれば、7千5百万円集まり、難病に苦しむ子供に手術をさせられる金額を用意できるわけで、このロングテールのネット時代に、これができない、というのは、なにか変な感じがしないでもない。
一円アルミ硬貨が、原材料として、一円より高ければ、(違法行為だとしても)それを溶かして、アルミ商品を作れば、もうかるということになるので、一般に、貨幣や紙幣は、その表示値より、安い値段で製造できることが、条件となっていることが分かるであろう。
同じように、電子通貨は、ネットの通信料よりは、安い単位では、流通できない、という条件があるということなのだろうか。
一般に消費税計算は、四捨五入だったか、切り捨てだったか、切り上げだったか、まあ、どうでもいいんだけど、いずれにしろ、単価0.5円では、たとえ、1億5千万人で、7千5百万円の売上げても、消費税は、一円にもならない、ということなのかな。
超超デフレ日本の、ネット社会日本なんだから、一円を割る商品が、もっと普及してもいいように思うのだが、どうなんですかね。
例えば、近年の、ユーロ危機にしても、ユニバーサルな「単一」貨幣の「幻想」が、あまりに大きいような印象も受ける。この辺りについて、以下の論文を参照してみよう。

黒田によれば、秦帝国以降の中華帝国の統合の手法の特徴は、「同じモノを使って下さいね。だけど使い方は勝手に決めて下さって結構です。」であるという。これは通貨だけのことではないのである。
たとえば漢字を考えて欲しい。中華圏であればどこでも同じ漢字を使うのであるが、読み方は地域ごとに大きく異なる。現代でも北京語、上海語、広東語、びん南語、四川語などは、ヨーロッパなら他言語とされるほに互いに異なっているが、同じ漢字を使うことで同じ「中国語」であることを共に明らかにしている。

しかも、同じ地域であっても、一種類の通貨だけが流通しているわけではない。商品の種類によって使われる通貨が違うケースがある。たとえば紹興酒を買おうと思ったら、手持ちの銅銭を、紹興で広く使われている通貨に兌換して、それを持っていないと酒屋で紹興酒を買えなかったり、あるいは、生糸を買おうと思ったら、広州で流通している通貨を入手しないといけない、という具合である。
つまり、地域ごとのみならず、品目ごとにも通貨が分かれている。どんな小さな市場にも両替商がいて、多種多様な通貨間の兌換業務を担い、時々刻々と相場が変動する。
また、これは黒田明伸が明らかにしたことだが、通貨には明確な階層性があった。清代であれば、ある銅銭の流通する範囲が一つの「通貨の回路」を成しており、その回路を越えて、別の回路とを接続する場合には、銀貨が使われていたのである。
このような階層性が生じる理由は、第一に、通貨が回路を還流する性質を持ちながら、実際には相当部分が還流せず、途中で漏れ出してしまうからである。たとえば王朝財政が銭を発行すると、それは王朝財政を含むような上位の回路に留まっておらず、銭を必要とする下位の回路へと漏出する。それは下へ下へと漏出し、最終的には郷村レベルの回路へと降りていく。しかもそこからさえも銭は漏れていって、家のタンスや土蔵、あるいは壁や地面に埋められたりして、そのまま忘れられる。あるいは溶かして銅として使われたりさえする。それゆえ、銭の流通を維持するには、次から次へと投入せねばならない。それでも足りないので、上位の回路は、銭ではなく銀のような高額通貨を使って、下位への流出を阻止せねばならなくなる。

経済というものは、多種多様でしかも時々刻々と変化する複雑な回路から形成されている。そしてそれは均質なネットワークではなく、多様でかつ階層化されている。通貨は、その回路を支えると同時に、その回路に支えられてそこを流れている。そしてしかも、通貨は回路から漏れていくので、常に追加供給を受けないと回路は維持できない。
黒田はそれを、大きく、

  • 現地通貨
  • 地域間決済通貨
  • 国際通貨

というように分類した。

(安富歩「ユーロ危機と通貨の階層性」)

atプラス 11

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中華帝国において、漢字は中央政権が「認めた」文字であり、貨幣も中央政権が「認めた(公式の)」発行物である。つまり、政権側としては、「価値」を自分たちが「認めた」ものによって、ユニバーサルに行うことが、重要ということなのだろう。
しかし、これは逆に言えば、「その他はどうでもいい」と言っているに等しい。帝国の支配とはそういうもので、意味というより「形式」ということなのだろう。
(日本という島に住んでいた人たちも、朝鮮半島と同じように、中華帝国の「周縁」に位置した存在であったわけだが、たとえ周辺であっても、中華帝国の「支配」の影響が、まったくない、ということを意味しない。それは、室町時代に、中国の貨幣が輸入され使われていたり、漢字をずっと公式の文字として使い続けてきたりとしていうわけで、そう考えれば、日本も中華帝国の「影響範囲」に含めて、中華帝国側が考えていただろうと想定することは、上記とも整合的に思える。
ただ、その支配の「しばりつける強度」は、かなり弱いことは「周縁」的な存在であることからも、分かるだろう。むしろ、中華帝国から見れば、日本とは、現在のタックスヘイブンのような「海賊地域」の印象が強いのではないだろうか。より「周縁」に行けばいくほど、中央政権の直接暴力の影響は小さい。しかしそれは、たとえ「海賊」地域だとしても、上記の漢字と貨幣という
ユニバーサル
なルールが緩く広がっていることと矛盾しないわけである。)
こうした、ユニバーサルな貨幣が、上記の三つの基本的な階層を包含しているというのは、興味深い。今でも、小さな店がサービス「クーポン」のように、購入ごとにスタンプを押し、それが集まると、店内商品のサービスと「交換」できるというのは、一種の
貨幣
に近いだろう。近年の電子マネーの普及も、そもそも、貨幣は「ローカル」化の「回路」が必然的に生まれることの証左に思える。そうやって、無数の小さな「回路」を、貨幣「そのもの」によって分断することは、一つの
大きすぎる
ことの回避となっているわけだ(回路の切断が比較的、容易に生まれる)。上記の論文では、ユーロとは別に、ユーロ圏内の地域の銀行が、独自の「貨幣」を発行することが、一つの今のソブリン危機の本質的回避方法ではないか、と提言している。
貨幣はなんのためにあるのか。そもそも、作られたルールの意図を問うことは、実際にそのルールの中を生きる私たちにとって、その意図を問うことの意図がよく分からないということなのかもしれない。しかし、最初に書いたように、貨幣を一つの福祉を実現する手段だと考えると、分かりやすいと思われる。貨幣を持っているということは、それとの交換によって、さまざまなサービス(福祉)を市場から受けることができる。だとするなら、問題は二つで、

  • どうやって、この貨幣の価値を維持するか
  • どうやって、この貨幣を「福祉」を受ける必要のある「すべて」の人に「あまねく」行き渡らせるか

となるだろう。
しかし、上記で考察してきたように、経済は著しく「政治」的な側面を持つ。オバマがなぜ抜本的なウォール街のルールの厳格化をできなかったのか。言うまでもなく、それに反対する勢力を無視できない構造があるからだろう。

それでもウォール街はあらゆる手段を使って規制案を葬り去ろうとし、政府による救済で整えられた快適な環境、すなわち競争の縮小、政府保証の強化、利益追求の容認の死守を試みた。二〇〇九年一〇月の時点で、金融機関や業界団体を代表する一五三七人がロビイストとして議会に登録されている。規制強化を求める消費者団体や労働組合の二五倍という圧倒的な人数だ。資本の三四%を政府に握られているシティグループでさえ、四六人を雇っている。二〇〇九年一〜九月に金融業界がロビー活動に投じた資金は、三億四四〇〇万ドルに上る。

現在、この地球上のさまざまな力を代表するアメリカは、IMFを通して、アメリカ以外の国には、抜本的な体制変革を要求しておきながら、自国の「大きすぎて潰せない」には、「罪には褒美」のダブルスタンダードで対応したわけで、このモラリティの欠如が今後の世界秩序(アメリカの発言権)に、どのような影響を与えていくのか、なのだろう。
アメリカの巨大銀行は、そのアメリカの世界に並ぶもののない栄華を前にして、無理筋が通ると考えた。というか、通らなければ、無理だろうがなんだろうが通せばいい、と考えた。アメリカ経済界を支配する彼らには、アメリカを支配しているのだから世界を支配しているのと違わないのだから、それが可能だと考えた。
もちろん、オバマもなにもしないでいいと考えていたわけではない。事実、十分な大きさではなかったがそれなりの規制を目指したわけだが、それなら、議会を脅せばいいわけで、彼らにしてみれば、
政治ちょろいな
なのだろう。これは、日本の経団連にも、韓国の財閥にも言える。政治の中枢を、
ありあまるお金
で、ちょっと脅せば、どんな無理筋も通る。
しかし、それで本当に「筋が通っているのか」は、まったく別の話であろう。それが、上記の山形浩生さんが、アイロニカルに評価せざるをえない、オキュパイ・ウォールストリートであったわけで、日本の反原発デモも本当の論点はそこにあるはずなのだろう。
貨幣がなんのためにあるのかは、マクロ経済が結局は政治と区別して考えられない現状があるように、政治を考えることと分けることはできないのだろう。
未来に向けて、ガバナンスはどのように実現されるべきなのか。そのガバナンスが目指す経済秩序はどういった原則があまねく支配するセカイなのか...。

国家対巨大銀行―金融の肥大化による新たな危機

国家対巨大銀行―金融の肥大化による新たな危機