土井隆義『友だち地獄』

この本を読みながら、私は昔読んだ、

心と体の「痛み学」―現代疼痛医学はここまで治す

心と体の「痛み学」―現代疼痛医学はここまで治す

という本のことを考えていた。人は他人がどんなことに苦しんでいるのかを、「外」から理解することはできない。しかし、中の人にはなれないのだから、つまりは、基本的には、理解することはできない、ということになる。
(もちろん、私たちには、
観察
という科学的態度が存在して、その人を絶えず観察していれば、ある特徴的な行動を行うところを頻繁に見ることになり、それを「その人の痛み」の反応と
現象学
的に解釈することになるのだろう。しかし、こういった態度は一種の「背理」である。つまり、その人が最後の最後の死の間際まで、そういった素振りを一度も見せなかったら、または、そういった一瞬を「観察」することを見逃し続けたなら、その現象はなかったということになり、その人のその「痛み」は、だれにも見出されることがないということになり、つまりは、
その人はその痛みに苦しんでなどいなかった
ということになるわけである。)
もちろん、そうだから「意志」の表明をずっと問題にしてきたわけだが、しかし、意志とは結局なんのことなのだ、と考えてみると、いろいろ難しく思ったりするわけである。
意志とはなんだろう。意志とは「アイデンティティ」に関わる。例えば、ある人が、ある
キャラ属性
をもっていると、人々に認知されているとき、その人がそのキャラに反する「意志」を表明したとき、彼らは、

  • これは、その人の「意志」でない

と「判断」するわけである。つまり、この人自身が表明していながら、本当はまったく反対のことを言おういているのだと「解釈」されてしまう、ということである。
つまり、これは何を意味しているのか。
人の意志「以前」に、人のアイデンティティが「了解」されていることが、コミュニケーションの前提になっていることを意味する。アイデンティティとは、他人が相手を「識別」するためのなにか、である。
つまり、人は他人をアイデンティファイしないと、コミュニケーションできない、ということを意味している。
この認識は、著しく、ヘーゲル的と言えるだろう。精神現象学において、文学作品が検討されているが、文学こそ、アイデンティティ
物語=哲学
を意味するものはないだろう。
近年のアニメ作品は、そのほとんど全てが、見る子供たちを

にする、なにかを包含している、という印象を受ける。(そういう意味で、ほぼ全て、くだらない通俗的な駄作だと言わざるをえない。)
典型的な、英雄奇譚であり、主人公は成功しようが失敗しようが、
彼らを中心に世界は回る。
どうしようもなく、彼らは、「ヒーロー」であり「ヒロイン」であり、この作品に登場する、「あらゆる」登場人物が、そのヒーローやヒロインが遭遇する一瞬一瞬に、一喜一憂し、彼らと共に、現れては消えていく。つまり、
ヒーローやヒロイン
とは、社会学的な意味で、すべての登場人物によって、「承認」され続ける存在だと言えるだろう。
しかし、一般社会においては、私たちは、ある役割において存在するなにかでしかない。ある仕事をたとえ任されたとしても、その仕事を完結するとともに、自らの役割は終わり、なんのコミットメントも無くなる。
人々に感謝をされることはあっても、それは、一期一会の感謝であり、別に、今際の際において、どうしても思い出さずにいられないような、「特別」ななにかではない。つまり、
それだけ
の存在でしかない。
この前、子供向けアニメ「ミルキー・ホームズ 第2章」を見ていたら、最初の第3話まで、主人公の4人の女の子たちは、夜更かしをし、(探偵を学ぶ)学校のある、昼間は、ずっと、部屋で寝ていて、授業に行こうとせず、農業やバイトをやりながら、自堕落に暮らしている。
もちろん、第4話以降、彼女らは自らが「探偵」であることに目覚め、そういった自堕落から「卒業」する。つまり、「大人」になるわけだ。
第3話までの彼女らの特徴は、この4人を、その「発言」と「行動」において、まったく、
区別
ができないことである。それは、4匹の生まれたばかりの子犬や子豚を、私たちが、区別できないことに似ている。もちろん、見た目や声は違う。しかし、その
反応

行動
において、まったく、「個性」がないわけである。
(変な言い方をするなら、第3話まで、主人公の4人の女の子たちは、恐しいまでに、「不気味」である。なにか、私たちの理解を拒否するような、そんな「動物」を感じるわけである。)
その個性とは、強いて言えば、「子供」の個性ということになるだろう。私たちは、この4人が、「本来的に」探偵であることを知っている。つまり、彼女たちが、遅かれ早かれ、自らが探偵であることを自覚し、自らに対して、そう自称することになることを知っている。しかし、逆に考えてみよう。私たちが子供の頃、自分が、どういった大人になるかは決定していない。だから、私たちは、「その時」、恐しいまでに、自堕落に生きていたはずである。
しかし、大人になった今、その頃の自分を想像するとき、今の自分をどうしても、オーバーラップせずにはいられない。今、プログラマーをやっているなら、その頃の子供の自分の行動の中には、どこか、今のプログラマー
彷彿
とさせる、なんらかの「萌芽」があったのではないか、そういった「才能」がそこにあったのではないか、と読み取りがちである(これが、天才論である)。こういった態度は、非常に哲学的だと言えるだろう。もっと言えば、ヘーゲル的ということになるだろうか。
ある対象が、今そうあることは、過去において、そうあるべくしてそうあった、
本質
があり、私たちは、その本質から「一直線」に今に向かって、「なんの無駄もなく」成長してきた、と考えがちである。
しかし、そういったアイデンティティ幻想は、「遠近法的倒錯」と言わざるをえない。子供は、大人を包含しない。子供は、ある、さまざまな方向に開かれている
可能性
にすぎない。そこから、どういった方向に向かうのかは、まさに、
ブラウン運動
としてしか、指し示すことはできない。

一九八〇年代に活躍し、九二年に夭折したロック・シンガー、尾崎豊が歌った「十五の夜」には、「校舎の裏 煙草をふかして 見つかれば 逃げ場もない」という一節がある。これを聴いた現在のある高校生は、「わざわざ学校で吸わなければ問題にならないのに」と感想をもらしたという。煙草をふかすことは、学校や教師に体現された社会的な価値観への反抗の試みであり、したがって学校で吸ってみせることにこそ意味があったのだという当時の事情は、現在の若者には理解しがたいのだろう。

非常に興味深いのは、そもそも、今の子供たちが、「賢く」なることで、こういった「幼稚」な感性を「乗り越えた」と考えてはいけない、ということである。いつの時代も、子供は「段階」を経て成長していくのであって、最初から大人の子供など存在しない。もし、そんなものがあると思えるような反応があるなら、なにかが間違っていると考えなければならない。つまり、むしろ、今の子供たちが、
なぜ
こういった感性を理解
できない
のか。それはむしろ今の子供たちの「欠陥」と考えるべきなのではないか。

わが国の学校で、今日的な形態のいじめが問題化しはじめたのは、先ほど述べたように一九八〇年代からである。これは、それぞれの個性を伸ばして主体的に生きる力を育むべきだという新しい教育理念が、学校現場に導入された時期とほぼ重なっている。

性教育と、今日的形態の「いじめ」が、ほぼ同時期に始まっているという指摘は、強調しすぎてもし過ぎることはないだろう。それは、

  • 個性

が「ある」ということが、

を呼び出し、子供を

  • キャラ化

し、大人による子供の「精神」の

  • 囲い込み

が始まるのである。

教育政策の転換を受けて、わが国の学校現場はこの時期から個性主義へと大きく梶を切った。これは、「すべての子どもの学力を一律に伸ばす」政策から、「できる子どもとできない子どもの能力の違いを認める」政策への転換を意味していた。子ども全体の平均点を上げることをあきらめ、それぞれの能力に応じた教育を模索しはじめたのである。

この指摘も非常に重要である。つまり、

ということである。一度、個性なるモンスターを教育の現場に呼び入れた瞬間から、あらゆる、「能力差」は、個性の名の下に、
正当化
される。つまり、この時点で、一切の「平等教育」は否定される。

個性化教育は、まだ白紙の存在である子どもを社会化する「教育」というよりも、すでに存在する素質の開化を手助けする「支援」という発想に近い。

ハイデガーの意味で)子供には「本来的な」なにかを、アプリオリに想定され、あとは、それが、ヘーゲルのように、自己展開し、
自分に「なる」。
そうだろうか。
本当にそうだろうか。
教育とは、本来、もっと「形式的」なものではなかったのか。教師には教師の「役割」があり、教師の本分とは、その役割を全うすることであり、生徒も同じくその「役割」をこなすことにより、生徒が本来、身に付けるべき、
慣習
を、血肉とする、そういった「形式的な儀礼的行為」こそが、その本質だったのではないか。

従来、教師と生徒の関係は、裸の人間どうしの関係というよりも、教師と生徒という役割を通じた形式的な関係の側面が強かった。だからこそ、学校は公的空間として機能しえてきた。しかし、学校が生徒に「自分さがし」を期待し、ストレートな自己表現を奨励するようになると、もはやそこは私的空間の延長と化してしまう。

ミルキー・ホームズの第3話までの主人公たちこそ、
本当の子供(生徒)
である。なんの色もついていない、あちこち、自分の関心の赴く方向に、ふらふらふらふら、と頼りなく流れていき、決して、一カ所に固まることはない。彼らはまだ確固とした「欲望」をもっていない。彼らの感情の動きは、どこか「反射」に似ている。それが、子供の本質であり、むしろ、
キャラ化(固定化)
とは、「大人」の特徴と言うべきである。「いじめ」とは、子供が大人のマネをすることなのであって、実際に、「いじめ」の一つ一つは、著しく、
儀礼
であり、大人社会のカリカチュアとなっている。
ブラウン運動、つまり、ランダムウォークは、完全な、左右対象を示す。つまり、確率的に対称である。そこから、左右の極限を取ることによって、
二元論
を説明できるだろう。プラスの側に振れたとき、
躁状態
と言える。社会学的に言うなら、このとき、その人のアイデンティティは、豊穣な「承認」を与えられていると言える。しかし、アイデンティティ・コミュニケーションは相手の「役割」が消費されるとともに、その相手は「用済み」となる。経済的な雇用関係は、仕事の終焉と同時に、縁の切れ目となり、そこで完全に「関係」は終焉する。つまり、
無視
ということで、これは、前近代における、殿様とその人に使える侍の関係が、終生に渡る、奉公の関係であることと、著しく対称的であることが分かるだろう。こういった、完全なデタッチメントは、つまりは、ランダムウォークがマイナスの側に振れたことを意味し、
鬱状態
となる。こうして、現代人は、躁と鬱を、絶えず繰り返す、精神的に不安定な状態が
常態
となる。
現代のソーシャルネット社会は、こういったヘーゲル的悟性社会を、さらに加速させるツールであると言えるだろう(ネットいじめ、という言葉が使われるように、むしろ、ネットが社会の「いじめ」をより深刻化していることを、だれもが知っていながら、このソーシャルネット社会を、
礼賛
する言説が絶えることがないことは、つまり、若者たちが、まさに、個性教育の「申し子」であり、そのマインドコントロールを「生きている」ことのなによりの証左だということなのだろう。
子供たちは、なぜ、自分が苦しいのかが分からない。
なぜ、こんなにも生きづらいのか。
どんなに自分の振り返り、自分に問いかけても、このボロネオの環から、外に出ることができない。
いや。
違う。
それが「罠」なのだ。
自分に「問う」てはいけないのだ。まず、自分が「ある」と考えてはいけないのだ。なぜなら、それこそが、個人教育という、差別教育を、拡大再生産していることを意味しているのだから。
私は一切の「個性」、「キャラ」、特徴、アイデンティティ
拒否
する。そういった「囲い込み」は、発話者のストーリーの中に、他者を閉じ込める
暴力
なのであって、私たちはそういった権力者たちの強制から「自由」になることを要求するのだ。
こういった文脈において、私は、ヘーゲルに批判的に自らの言説を展開した、キルケゴールを最大限に評価する。キルケゴールの言う、
平準化の時代
とは、ヘーゲル的な「個性」社会によって、人々が「パターン」化され、デカルト的分割の対象とされ、つまり、平均化される時代において、逆に、
一切の個性を認めない。
いや。正確に言うと、キルケゴールにとって、イエス・キリスト「その人」だけが、個性をもつ。これは、一見すると、一切の個性を認めない、非多様性の哲学のように思えるかもしれないが、そうではない。彼が言いたいのは、
イエス・キリスト以外どうでもいい
と言っているのであって、つまりは、そのイエス・キリスト「その人」を究極的に「個性」化しているとも言えるわけである。つまり、ある
次元
が違う認識を、彼は示唆していると考えることができる。
近年のアニメのなかで、こういった「キルケゴール」的な認識を示唆する作品として、ほとんど唯一にして最大の賛辞をもって評価したいのが、アニメ「輪るピングドラム」であろう。
双子の兄弟の高倉冠葉(たかくらかんば)と高倉晶馬(たかくらしょうま)とその妹の陽毬(ひまり)の関係は、一方において、ミルキー・ホームズの第3話までの主人公たちのように、日常をバカばっかりやりながらも、そもそも、彼らには、自分が
なにものでもない
という強烈な「不安」から逃れられることはない。彼ら3人は、だからこそ過剰なまでの共同体を演じるのでありながら、そう演じることによって、
その演技によって、
お互いの関係を、その「事実性」において、唯一無二の関係として、大切に思うことを強めていく。兄弟とはアプリオリに存在しない。それは、おのおのがその
役割
を「演じる」のであって、それは、教師と生徒が、「白紙」の状態から、それぞれが「教師」を演じ、「生徒」を演じることを
自覚
するところからしか始まらないことと同型である。この三人の関係が、いわゆる、

  • 性教育 = 今日的形態の「いじめ」 = クールジャパン

以前のなにかを示唆しようとしていることを理解しなければならない。彼ら3人の関係がどこか、カリカチュア的に見えるのは、そういうことで、むしろ、そのアナクロニズムが、
真剣に生きるとはどういうことなのか
を思い出させてくれるのだろう...。

友だち地獄 (ちくま新書)

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