「弁護」社会

現代社会は、お金を出せは、欲しいモノが手に入る社会だと言えるでしょう。ここで、

  • お金によって、なにもしないで欲しいモノを手に入れる

という原則に則って生きるということが、何を意味しているのか、を考えてみよう。
しかし、そうだとするなら、ある「矛盾」が噴出してくる。

  • お金を生み出すモノをお金で買えばいい

つまり、錬金術である。こんなものではない。

  • お金を生み出せる知性をお金で買えばいい

大事なことは、その人の「成長」を「あきらめる」ことである。それは「努力」を伴い、「なにもしない」という原則に反している。
つまり、ここで言っている「知性を買う」とは、別の誰かをお金で雇うことを意味している。つまり、その人に「自分になり代わって」自分が「欲しいモノ」を手に入れる手段を考えてもらうのだ。
これが、一般に「弁護」と呼ばれている行為と定義できるだろう。
なぜ、この行為が重要か。
それは、現代社会が「能力」社会である限り、
無能力者
には、場所が用意されないから。日本はそもそも、能力者認定された東大卒業生によって、能力社会化されているのであれば、東大卒業生が成功しないとすれば、それは、
社会の方が悪い
ということを意味するだろう。つまり、社会になんらかの「能力社会」化を邪魔する要因があるために、うまくいっていないことを、そのことが「証明」している、ということになる。
まず、このことを認めたとしよう。
そうであるなら、どうだろう。だとするなら、無能力者は能力者に「弁護」される必要がある、ということを意味しないだろうか。
たとえば、裁判において、私たちは、ある戸惑いに直面する。この場所において、一体、「誰」が「何」を論証することを試みなければならないのだろう?

たとえば、法廷において、検事側は、いわば仮説の提案者であり、弁護士側は、反対答弁者である。この場合、注意すべきことは、検事側に立証責任があり、弁護人側はたんに検事側の主張の矛盾をつくだけでよいという”非対称性”である。有効な反論がないかぎり、検事側の仮説は暫定的な真理とみなされる。
ポパーのいう科学的方法とは、いわば最終審のない法廷のようなものだ。それは、裁判なしに誰も処罰されてはならないというブルジョア民主主義の考えに対応している。実際そこでは、最終審といえども、あとでくつがえるされることがあるのだから、最終的ではない。こうして、ポパーの科学論は、彼の反全体主義的な政治思想と直結している。たとえば、スターリニストの裁判では、検事側にのみ立証責任があるという”非対称性”が存在しない。逆に、被告側が立証責任をもたされている。ブハーリン裁判のように、両者が共同で虚偽の罪を立証しあう例もある。

探究2 (講談社学術文庫)

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カール・ポパー反証可能性が、ブルジョア裁判と同型である、という主張は重要である。これは、立証責任が、検事側にあるのか、弁護人側にあるのか、の、ちょっとした違いであるが、非常に大きな差異である。
ある人が殺人をしたとして、警察に逮捕され、その本人は無実を訴えている、とする。検事は、あるストーリーを描く。被告は、このようなストーリーによって、殺人を行った、と。
もし、弁護人側に立証責任があるとすると、まず、自分がその人を殺していないという
証拠
を、「自分」で見付けてこなければならない。つまり、その日のその時間に自分がその人を殺せるわけがない、ということが自明となるなにかが「存在」しなければならない、ということになる。
もちろん、たまたまそんなものがあれば、助かるわけだが(複数の監視カメラに写っているなど)、普通なそんなものはない。しかし、なければ、
有罪
で「自分は殺人をやった」ということになる、というわけだ。
例えば、ツイッターにおける、お互いの罵詈雑言の応酬において、その主張の「立証」を、どちらがやらなければならないか、と考えてみよう。
最初に、からんだ方か、からまれた方か。
私たちは、そもそも「真理」があるのだから、なぜこのような「立証」プロセスが必要なのかを理解できない。「真理」とは自明なのであって、有無を言わせず、正しいにきまっているのだから、「立証」過程というのが、一体なにを意味しているのか分からないわけである。
ツイッターの罵詈雑言でいえば、これを、例えば、5年後に、その時点から、罵詈雑言が始まった地点までの、全つぶやきを分析すると、ある「傾向」があらわれているかもしれない。つまり、それが
淘汰圧
である。どっちの主張がどうであろうと、その罵詈雑言の応酬以降に、お互いがどういった振る舞いを(長期的に)しているかが、その答である側面はある。
原発にしても、これから、まだまだ、原発建設ラッシュとなるなら、原発推進の「淘汰圧」は強力なままだったことを意味するだろうし、現状維持なら、原発推進はともかく、国民は「もったいない」と考え、「いまさらやめられない」という考えが強かったということになるし、原発がどんどん廃炉になっていれば(これから、ほとんど動かされることがなければ)、国民は反原発を選択していった、ということになるだろう。
しかし、裁判にしても、科学にしても、ツイッターにしても、その「真実」に対して、
立証
という過程が「存在」することは、なにか私たちに「無駄」で「不要」な過程のように思える。
原発が危険でなかったことを、体感している人たちにとっては、そんなことは言うまでもないことなのであって、危険だと騒いでいる連中は、デマ野郎であり社会のガンに決まっているのだから、「正義の味方」の自分がこういった連中に天誅を下す活動をすることの社会的需要は自明なわけだ(せいぜい必要なのは、そういったことを同じように感じている人たち同士での共感くらい、ということなのだろう)。
しかし、ここで言う「立証」が、なにを意味しているかは、少しも自明ではない。
たとえば、それを、この
プロセス
に関わってこない人(他者)が存在する、ことに気付いたとき、大きな違和感となる。

ブルジョア裁判など認めない者は退廷させられるし、精神病者はそもそも起訴されない。それは、彼らが法律的な言語ゲームにコミットしない(できない)からである。つまり、合理性を対話の形式におくことは、対話に参加しない者を排除することを意味する。ポパーのいう「科学性」、レッシャーのいう「合理性」が、問いなおされねばならないのは、それが対話の中での他者を前提しているにもかかわらず、対話の外部の《他者》を排除するところにのみ成立していることである。
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どんなにツイッターが普及しようと、ツイッターを使おうとしない人はい続けるであろう。同じように、裁判のプロセスにコミットしようとしない人は存在し続けるであろうし、科学コミュニティに関わろうとしない人もい続けるであろう。
そういった人たちを「無能力者」と言うことは簡単である。そして、そういった「自動律」に入ってこない人たちを「排除」した、タコ壷型のコミュニティ空間が、今までも次々と作られてきたし、これからも作られ続け、それぞれが自らの「普遍性」(パブリック)を自称し続ける。しかし、少なくとも、そこには、
一般意志
はない(彼らがコミットしていないのだから)。だとするなら、一般意志2.0 は、ルソーではなく、フロイト民主主義であることを目指されなければならないのだろう。そこにおいて、大事なことは、意志の「一般」化ではなく、
可視化(現前化)
ということになる。(意識的であれ、無意識的であれ、無能力者ゆえであれ)上記のブルジョア立証プロセスに、関わろうとしない人たちにも、
意志
があるなら、一般意志は、それすらも体現しなければらない(内包化)。彼らは、このブルジョア立証プロセスに関わらなくても、日々の日常において、ある
意志表示
をしていないわけがない。それぞれの「反応」において、それは内包される。そうであるなら、あらゆる意志は、
言語
である必要もない。その人の振る舞い、行動、こういった「あらゆる表現活動」の、
重ね合わせ(平均)
となる(つまり、一般意志2.0 は言論活動に限定される必要もない、ということになるのだろう...)。今、目の前にあることだから、その物質性において、簡単に無視できないわけである。
なぜ「弁護」が重要か。
それは、これが人々に「インターフェース」を与える、ことを意味しているから、である。
無能力者であることは、たんに、能力者に「弁護」されていない状態を意味しているにすぎない。マネジメントにおいて、最も重要な課題が、人材を集めることであったように(マネージャーの仕事はこれに尽きている)、専門家集団に自分を弁護させたとき、自分は無能力者であるが能力を「持っている」という反語的状態が成立する。
オタクや引きこもりが、社会的能力に欠けていることは、
無能力者
を意味しているとしても、それは一つの「専門家」インターフェースに「弁護」されていない、ということを意味しているにすぎず、それ以上でもそれ以下でもない。
なぜ、原発問題は、ネット上で、あのように、ヒステリックな反応を、この一年続けることになったのか。それは、「専門家」集団が、利益相反の関係にありながら、自らの専門性を理由に、あらゆる決定過程を
囲い込み
してきたことを意味する。専門家の中で、反対の意志を一貫していたのは、小出さんくらいしかいない現状において、ネット上の「理系」連中の議論が、原発礼賛一辺倒になることは、自明であろう。そもそも、小出さんはツイッターをやらないのだろうし、じゃあ、専門家集団で誰が、ネット上で反対の論陣をはるというのだろう。そもそも、言論活動には、動機が必要である。なんで、ネットでつぶやくのか。原発礼賛を「普及」させたい人たちのプロパガンダ活動の場となることは、必然だったのだろう。
しかし、専門のことをもし、専門家しか決められないとするなら、日本の原発行政は、利益相反により、これからも原発が作られ続けることになるだろう。つまり、決定の段階において、むしろ
専門家が決めてはならない
のである。これは、裁判の形式を見れば分かる。どんなに意見発表を原発の専門家にさせたとしても、方針の決定は、
決定の専門家
にさせるわけである(そうでなければ、絶対に利益相反の問題を回避できない)。

最初に、帝国の原理を与えたのは、法家です。法家は法による支配を説くのですが、それは根本的に、家族や氏族・部族による支配を斥けるものです。いいかえれば、交換様式Aを斥けて交換様式Bを徹底するものです。帝国を築くためには法治主義が不可欠なのです。秦は西の辺境にあったのですが、宰相の商鞅(しょうおう)による、厳格な法治主義の徹底によって強国となり、やがて秦の始皇帝によって、全国を統合するにいたったわけです。しかし、厳格な法治主義だけでやっていけない。皇帝が死ぬと、帝国は簡単に滅んでしまった。
帝国を再建した漢王朝では、そのことの反省から、中央集権性をゆるめました。そのとき、老子の説いた「無為」の思想が活用されたのです。老子の考えは本来、専制国家、というより、国家一般にまったく対立するアナーキズムですが、この時期には、帝国の政治理論に変えられたわけです。つまり、それは民間に任せよという考えになります。たとえば、秦の始皇帝は国家強健によって貨幣の統一をはかったのですが、それをどうしても果たせなかった。一方、漢王朝は膨大な金を保有していましたが、自ら通貨を作るかわりに、それを準備金として、民間に通貨を自由鋳造させたのです。それによって、一挙に雑多な貨幣を駆逐したといわれます。
しかし、このようなレッセフェール政策がとられた竇大后(とうたいこう)の時代に、経済が急激に発展したものの、各地の諸侯が勢威をふるうようになりました。それに対して、武帝は再び中央集権化をはかった。しかし、法家ではなく、儒家の教えを帝国の原理としてとりいれたのです。儒学も本来、老子に劣らず、集権的な国家に対立する思想であり、だからこそ、秦の始皇帝によって焚書坑儒の目にあったのですが、この時期には、董仲舒(とうちゅうじょ)のような儒者によって、帝国の宗教、つまり、儒学というよりも「儒学」として再編されたわけです。それは、同時期のローマ帝国で、それまで弾圧されてきたキリスト教が国教とされたのと平行しています。
柄谷行人「<世界史の構造>のなかの中国」)

atプラス 11

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グローバル化とは、人々を必然的に「性善説」にする。なぜなら、性悪説とは「外(敵)」と関係するから。しかし、グローバル化とは、もはや外がないことを意味する。だとするなら、ポジションとしての「敵戦略」は、もはや、ありえないことを意味する。どんなに、鬼畜の所業を面前にしても、それを「悪」と判断することはできない。なにかの行き過ぎ(間違いが幾重にも重なった誤謬)と、受け取らねばならない。それは、孟子性善説と対応する。
儒教」は、法家や道家を否定したのだろうか? そうではない。儒教は、法家や道家の必要を認め、それらを内包しながら、その欠点を糊塗するために、選ばれた「なにか」と考えられる。
例えば、中国においては、同姓の人々が多い。ということは、同族が多いことを意味する。自由経済とは、優勝劣敗の、一人勝ちの世界である。両雄相並び立たず、となり、世界中の冨は、一人に集中する。しかし、もしその一人が、自分の
同族(同姓)
であるなら、そいつに自分の身の回りの世話をさせればいい。自分の「親戚」なのだから、自分の世話をするのは、当然なわけだ(そうでなければ、同族軽視の、祖先軽視の親不幸ものということになるのだろう)。
社会が安定するかどうかは、その社会の瑕疵が、なんらかの形で、担保されることによってでしかない。つまり、そういったさまざまな重層的な慣習の積み重ねが、ある秩序を導出するレベルに達しない限り、その社会の瑕疵から、さまざまな矛盾が漏洩し、内戦を引き起こす。つまり、社会秩序とは、そのレベルまで、自然法をぶ厚くする方向しか、ありえない。
日本のインテリが、一つ勘違いしているのは、専門知識は、大衆には関係ない、ということだろう。彼らが、必死になって、熱くその「専門」を語ろうとも、大衆は、そういったものを聞く耳をもたない。しかし、それでいいわけである。それは、
弁護士
が、彼ら大衆のために考えてくれるのだから。
だからといって、大衆はなにも聞いていないわけではない。彼らは、むしろ、あることについては、本気で(マジで)聞こうとしている。

『日本の大転換』にも書きましたが、「無意識のイノヴェーションを引き起こすには、適度な休暇が必要だ」というのはグーグルの社是みたいなもので、このことは、現代資本主義こそが、「贈与」の原理よりも誰よりも必要としているということを示していると思います。ハイデッガーは「贈与」というものは待ち受けるものであると言っています。この「待ち受け」というのは適度な休暇と自由な環境がなければできません。しかし、いまは待ち受けている間に「他のもうかる仕事をしろ」と言われてしまいますからね。
最近僕はこういう普通のことを言わなくてはいけないんだと感じています。大震災の後に芸能人やミュージシャンがチャリティ・コンサートをよく開いていますが、被災地で一番の熱狂を得たのは実は長渕剛でした。大人も子供も、みんな泣きながら彼の歌を聴いているんだけど、彼はものすごく単純なことしか言っていない(笑)。僕もこういうものから学ばないといけないなと思っています(笑)。僕はある部分では、これからものすごく平易になるのかもしれません。
中沢新一「グリーンアクティブと新たなエコロジー運動」)
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つまり、重要なことは、その「単純」さなのだろう。難しい話はいらないわけで、そういった難しいことは、専門家が勝手にその専門を「弁護」して考えればいい。大衆に語りかけるポピュリストが心がけることは、徹頭徹尾、単純なことである。その単純であるということは、
だれも
が感心をもち、そのことを考え、日々を生きていることを意味するわけで、それは、恋愛であったり、子育てであったり、だからこそ、
全員
が共感するわけであろう。こういった大衆のシンプルな「性善説」感情や、その態度を軽視することは、その人の道を誤ることになるだろう...。