渡辺幹雄『リチャード・ローティ=ポストモダンの魔術師』

リチャード・ローティの、Wikipedia の項目を見ると、以下のように書かれている。

プラグマティズムの立場から近代哲学の再検討を通じて「哲学の終焉」を論じた。

プラグマティズムの代表者ジョン・デューイや、トーマス・クーン、ルートヴィヒ・ウィトゲンシタインらの影響を受ける。

プラグマティズムだから、デューイをあげるのは、まあ、どうでもいいとして、ここで、わざわざ、クーンとウィトゲンシタインが、上げられていることは、とても、重要である。
というのは、私も、クーンとウィトゲンシタインによって、

  • 哲学は終焉した

と「本気」で思っているからである。
つまり、私は、この21世紀の前半に、「哲学を終焉させる」人が現れて、哲学が、この時期に、ある形において、実際に、終わるんじゃないか、と考えている。
そういう意味で、逆に言えば、

  • なぜ、哲学を終焉「させる」

という人が、この日本において、現れないのかが不思議なのだ。

  • なぜ、人々は、「哲学を終焉させる」と言わないのだろう?

私の言っていることは、変だろうか。
私は、この21世紀の前半で、哲学は終わることを確信している。もちろん、終わるということは、それ以前に終わって「いた」ということなのだが、つまりは、その認識が人口に膾炙する、膾炙せざるをえなくなる、ということである。
しかし、私が上記のように言ったときに、「というか、じゃあ、リチャード・ローティが、哲学を終焉させたんでしょ、じゃあ、それでいーじゃん」と思われるのではないかと思う。確かに、そうなら、もう何も言うことはあるまい。しかし、私の言いたいことは、リチャード・ローティの「哲学を終焉させる」活動は、不十分だったんじゃないのか、と言いたいわけである。彼は、哲学を終焉させようとして、終焉させきれなかった。カントが自らの理論に、「物自体」を捨てられなかったように、彼も、最後のところで、

  • 抜け道

を作ったんじゃないか。むしろ、彼にとっては、「そっち」の方が重要だったんじゃないのか、と疑っているわけである。

伝統的な認識論の哲学は、「見る」のメタファーで綴られている。我々は見る。何を。実在(reality)を、自然・本性を、そして本質(essence)----これらはすべて、我々の意志、目的、価値、記述から独立している----を。どうやって。「我々のガラスのごとき本質」(our glassy essence)、すなわち精神の眼をもって。精神とは、まさしく「自然の鏡」(mirror of nature)にほかならない。精神は写し取る。自然は現れる。現れた自然と精神は「対面」(confrontation)する。精神は記述する。何をもって。言語をもって。真理とは、写し取られた実在、語られた本質にほかならない。「見る」のメタファーは、真理を「一致」(correspondence)、「対面」として捉える。実在は現前する。精神はそれを写し取り、言語はそれを記述する。言語とは我々の精神を、ひいては我々を実在の世界に繋留する存在論的な絆なのである。
プラトンからデカルト、そしてカントに至るまで、伝統的形而上学はすべてこの「見る」のメタファーで語られてきた。後発の哲学は、常におのれの方がよりよく実在・自然・本質を「見る」ことができると主張して、先行する哲学を乗り越えてきたのだ。フッサール現象学しかり、ウィーン学団論理実証主義しかり、現代の分析哲学言語哲学しかりである。いずれにせよ我々は見るのだ。どうすればよく見えるのか。現象学的還元がいいのか。観察文と論理的演繹がいいのか。言語分析と概念の明晰化がいいのか。とにかく見なくてはいけない。我々とは独立に、あらゆるディスコースとテクストから屹立してある実在を。それを写し取る言語、それこそが哲学である。哲学とは、あらゆるディスコースを「共約可能」にするメタ言語なのだ。あらゆる言語が、このメタ言語にひれ伏す。すべての言明がメタ言語に翻訳されることを通じて、相互に透明な関係に立つ。不和は解消する。哲学という最終的判定者が、あらゆる知識、主張を調停し、それらに最終的判決を言い渡すからである。
ローティは、「見る」のメタファーで語られてきた伝統的形而上学を、それ自体非常に出来の悪い言語ゲームであると考える。実在の現前とその記述という「現前主義」のロジックは、常に懐疑主義者の攻撃に晒されてきた。現前主義者は、どうやろうとも懐疑主義者に勝てやしない。実在/精神、現象/本質という伝統的な文法が、端から懐疑主義者の問題提起に答えられないように組み上げられているのだ。逆に見れば、懐疑主義者が権勢を誇れるのも、彼らが伝統的な形而上学の枠組みに寄生しているかぎりにおいてである。

上記の引用で、「鏡」の比喩が使われているところが、ポイントだ。私たちは、ある「混乱」をしている。つまり、私たち自身が毎日、

  • 考えて生きている

という、人間の「神経」活動と、文章が文字なり音声なりによって、物質として「刻印」される、その物質性、とを。
もし、それが後者の「物質」なら、その「同一」性を考えることができる。しかし、だからといって、それを、前者の場合に「比喩」化してはならないのだ。
例えば、私たちが、ある人から、ある「言葉」を聞いたとする。そして、しばらくした後、私たちが、その聞いた「言葉」を、思い出したとする。では、この「二つ」は

  • 同じ

だろうか? この質問は変に聞こえるだろうか。なぜなら、上記で私は、私たちが「思い出した」と言ったから。「思い出した」のなら、同じなんじゃないか、と言いたくなるのだろう。しかし、それを保証するものはなにもない。もちろん、そのお互いを「文字」にして、両方を比較することによって、確かめることはできるだろう。しかし、今度は、

  • その書いた文字と考えていたことは「同じ」なのか?

という疑問に変わる。つまり、少しも「同じ」だったのか、に答えていない。
どうして、こういうことになるのか。
それは、言うまでもない。「鏡」の比喩が悪いのだ。私たちが日々、やっていることは、たんなる「生態学」であり「進化論」でしかない。私たちが、言語活動が「成功」している、と言っているのは、たんに、

  • 人間がここまで生きてきた

ということ以上のことを意味していない。言語活動をすることによって、その「うまくいかなさ」に、極限までストレスフルになって、神経症で、人類が滅んでいない、ということしか、意味していない。つまり、私たちは、
人間の言語活動とは何か?
に「答えられない(=そんな鏡はない)」のだ。私たちは、自分がやってることが「何なのか」に答えられないが、「やっている」のである。
これを、例えば、人間の「神経組織」によって、外在的に説明しようとするなら、確かに私たちは、考える。考えて、記憶する。しかし、「それ」が、じゃあ、私たち人間の「神経組織」が、
今のように「ある」
ことを「決定」しているか、といえば、そんなことはない。しかし、じゃあ、「まったく影響していないか」といえば、そこまでは言えない。私たちが、なにかを考えれば、神経組織は、「さまざまなエネルギーを使い、多くの神経組織を動かし、増殖させる」が、じゃあ、「そのエネルギーと増殖の方向なり形はどんなものか」は、別に、

  • それぞれ考えているもの

の「内容」で、分類できるなどという「予想」など、できるわけがない。それは、「記憶」についても、同じく考えられる。覚えた「内容」と、その神経組織の「励起」関係が、なんらかの対応でマッピングされ(鏡に写せる)と考えている人がいるなら、どうかしている。
つまり、言葉が、各個人の神経組織の中で、どのように、

  • ある

のかは、完全に「進化論」的なのだ。もしかしたら、私たちが今まで、出会ったことのない、まったく違った形で、上記のようなことをしている人がいるかもしれない。また、未来において、そういう人があらわれるかもしれない。しかし、じゃあ、私たちは、「そういう人に出会った」とき、それを

  • 知れる

だろうか? たんに、頭の悪い人だとか、天才だとか、適当にレッテルを貼って終わるだけなのではないか。
しかし、まったく反対のことを言うようだが、「書かれた」文字とは、そういうものではない。書かれた文字や、話された音声の記録は、完全に、
物理学
で、「形式化」できる。つまり、子供が遊ぶ「パズル・ゲーム」に、「鏡」で「写せる」。ということは、話され記録された「物」に対して「なら」、普通に、物理学的に、

  • 真理ゲームができる

ということになる。なんだ、言っていることが違うじゃないか、と思われるかもしれない。しかし、そう考えてはならない。
例えば、法創造という考えがある。ある裁判官が、ある判決を下す。その理由説明は、どう見ても、以前の判例を今回にも適用した、まったくの、「形式的」なものに見えるだろう。しかし、物事は、そんなに簡単じゃない。今回の「新しい」事例が、どうして、過去の事件と、

  • 同じ

と言えるのか。どうして、そんな「鏡」があって、重ね合わさると言えるのか。むしろ、話は逆なのだ。裁判官は、この新しい事態が、過去と違うのに、「あえて」過去のある判例を今回にも適用しようとすることで、

  • その判例(=ゲーム)の「新しい」意味を「創造」した

わけである。つまり、その判事の判決によって、「新しいゲーム」が始まったのである。

「201.われわれのパラドクスはある規則がいかなる行動の仕方も決定できないということ、なぜなら、どのような行動の仕方もその規則と一致させることができるから、ということであった。そしてまた、どのような行動の仕方も規則と矛盾させることができるということでもあった。だから、ここには一致も矛盾も存在しないであろうと考えられる。」(「哲学探究」)
screenshot

この有名な、クリプキの「クワス quus」算のポイントは、ある人が、「やっている」ことを、「それは、プラス plus 算である」と、「事後的でない形では」決定する手段がない、ということなのだ。
人は、ただ始めるし、ただ続ける。しかし、それが「なにである」を、やっている途中で、「決定」させることはできない。
この事態は、なにを意味しているのだろうか?
つまり、言語とは、「そもそも」、なにかを指示する以上の「意味」を担うものではなく、つまりは、「固有名詞」以外の言語は、「ありえない」ということになるだろう。
じゃあ、上記で問題にした、記述された文章の、パズル・ゲーム的な「形式」化はなんなのか、になるが、それは、

  • 全体

によって、機械に乗せられる、「物質的ななにか」を意味している以上のものではない。しかし、もし、その文章の「ある一部分」を、どこかの誰かが読んで、その意味について考え始めたとしよう。そうした場合、
また、
上記の、「法創造」が始まるのである。つまり、その「読んだ」部分は、「新しい意味」に「なった」。こうやって、リチャード・ドーキンスの言う
ミーム
は、次々に「進化」していく...。

ローティにとっての自然主義とは、単に「ダーウィニズム」、すなわち「進化論」をまじめに考えろ、という申し立てに過ぎない。信心深い宗教者には大変失礼だが、ローティは猿と人間の間に何ら存在論的----さらには認識論的----な差異はない、と強弁する。もっと言えば、ゾウリムシと我々の間には、哲学的に特筆すべき違いなどない、ということだ。ゾウリムシと同じく、人は環境----すなわち存在X----からプレッシャーを受ける。このプレッシャーに「対処」(coping)すべく、ゾウリムシと人は様々な行動をもって応じる。ただ、進化の過程において、みずから発する音と綴られた記号の効用を悟った人間は、ゾウリムシとは異なる行動形態、すなわち、音と記号を操ってXに対処すること----言語的な行為----を覚えたのである。ゾウリムシの非言語的な行動と、我々人間の言語的な行為の間に、何か高尚な存在論的=認識論的差異があるわけではない。いずれも存在Xからのプレッシャーに対処すべく編み出された行動形態である。進化の過程のどこかの段階で、我々人間に対して、人とオラウータン存在論的ないし認識論的に区別する決定的な「本質」が与えられた、と考えることは確かに神話的であろう。「理性」が、鏡のごとき「精神」が、我々を写し取る「言語」が、進化論的プロセスのどこかにおいて突如として現れ、我々と他の存在を存在論的=認識論的に切断したというのなら、そのどこかを教えていただきたいものだ(PPv3, 20)。他の存在と我々を区別する「人間本性」なるもの、言うなれば存在論的なメルクマールは、単に存在しないのである。

私が、最初になぜ、クーンとウィトゲンシタインを「特別視」したのか。それは、二人が、それぞれ、マクロとミクロの

を、「指示」した、と考えるからである。
例えば、クーンの科学論は、『コペルニクス革命』における、天動説と地動説の差異を、たんに、「適用される計算体系」によって、「指示」する。私たちは、現代の常識から、天動説を「トンデモ」と考える。しかし、問題は、どっちが「ダメ」と、なんの関係もない。そこには、ある「計算体系」が、併置されているだけで、天動説側だって、それを使って計算をする。むしろ、「ある場合において」は、こっちの計算の方が、人々には「自然」に思われていたって、別に、不思議でもなんともない。
じゃあ、なぜ、地動説の側が後世において、採用され始めたかは、単純に、

  • 地動説の方が、簡単に、より正確に計算が「できた」

という事実によって、にすぎない。つまり、天動説の側の人だって、「こっちの方が便利だ」と、地動説側の計算を使った、というだけのことだし、そして、だれもそれを不思議に思わなかった、というだけのことなわけだ。
クーンは、『近代科学の構造』において、上記の「科学」の発展を、さらに、科学者集団内における、

  • 練習問題

に見い出すが、いずれにしろ、クーンは、上記のような、

  • 科学の具体例

を「指示」した、ということなのだ。彼が、体系化しようとした、科学論は、むしろ、ローティの言う「哲学の鏡」なわけで、そこに、彼の可能性の中心はない。
同じことは、ウィトゲンシュタインにも言える。初期の体系化された、論理実証主義的な形式化は、ローティの言う「哲学の鏡」なわけで、むしろ、彼の可能性は、後期の、ほぼ、アフォリズムによって構成される、暗示的な一連の言葉の断片の方にある。
クーンが(科学という人間活動における)マクロの、ミームを、具体例によって「指示」したとするなら、ウィトゲンシュタインは、ミクロの、人間の生態学を、徹底的に、
例示
していった、と言えるのではないだろうか。
しかし、人によっては、上記の説明を不思議に思う人もいるだろう。つまり、生物学とは、物理学によって基礎付けられ、物理学は数学によって基礎付けられて、数学は哲学によって基礎付けられるのに、どうして、哲学を生物学によって、「説明」するんだ、と。
しかし、こういったことを言う人は、つまりは、私がここまで述べてきたことを、まったく分かっていない、ということである。そもそも、なぜ「説明」を、そのように、「純潔主義」で、自分を縛ろうとするのか。なにかを説明するのに、「あれを使っちゃダメ」とか、そんなものが、あるはずがない。
もちろん、だからといって、その説明が「成功」するか、とかを言っているわけではない。どっちにしろ、満足のいくものでないかもしれないが、少なくとも、どんな手段も「禁止」などされていない、という当たり前のこと、である。

で、結論だ。「普遍的合理性」でもない、相対主義でもない、と来れば、後は「エスノセントリズム」しか残るまい(CP, 173-174; PPv1, 2, 23-30; PPv3, 51-53)。しかし、これが何か大仰なことを宣っているなどと考えてはいけない。「自民族中心主義」とか、「自文化中心主義」とか、グロテスクな邦訳をあてがうのが適当なほど、それはご立派ではない。ましてや文化的帝国主義の勧めなどではない。その手の玄人好みの解釈は、職業哲学者の手に委ねればいい。ローティの言うエスノセントリズムとは、単に「今いるところからスタートせよ」の別称に過ぎない。何のことはない。ずっと前からポパーのごとい漸進的社会工学者が言っていたことだ。すでに見たように、我々の信念システムの大方は正しい。そして、我々はそれを----おそらくは国境や文化を越えて----共有している。そのコミュニティの合理性から始めればいい。それ以外、我々がスタートできる地点などないのだ。ポパーと同様ローティは、我々のコミュニティの合理性を、リベラルな合理性であると信じている。リベラルな合理性とは、暴力によらず、言葉によって説得しようとする態度、コミュニティの内外を問わず、異質さや差異に対してオーバーなリアクションをしなこと、一言で言えば「寛容」として特徴づけられる。ポパーのごとき良質の合理主義者は、寛容が、そして彼の説く合理主義が、我々のコミュニティの伝統であることを自覚している。我々はその伝統を携えてゆけばよい。

ローティは、上記のように、アイロニストとして思考しながら、なぜか、「苦痛」を「例外」とする。しかし、それは、どういう意味なのか。
なぜ、「苦痛」は例外なのか。なにが、その他の感情と彼は、区別するのか。正直、私には、よく分からない。
なぜ、「苦痛」だけなのかは、なぜ「苦痛」を含むのか、と同じような問題である。もし、そのように苦痛を「例外」とするなら、なぜ、その他の感情を「苦痛」と同列に並べないのかの、問題に必然的に、現れざるをえない。
そこから、ローティの「政治的」立場が、著しく、右翼的、保守的な論者に
共感的
である理由が分かるであろう。彼の理屈で言えば、別に、保守主義でいいのだ。いいのだが、彼は、「苦痛」だけを「別格」にしたのだ。それは、一種の「純潔」であり、クールジャパン的な「その他への冷めた態度」であるが、別に、そのことに、なんの、正当性もない。

伝統的な見解では、「自我」は様々な信念や欲求を「所有する」主体であり、「中心」である(CIS, 10; PPv1, 118)しかるに、ローティはこの手の自我論はもう捨てていい、と言う。この手の自我論が、「我思う」だの、意識だの精神だの、「超越論的統覚」だのを生み落とし、件の三〇〇〇年論争を継続させてきたからだ。ローティはこう考える。存在論や認識論の一角として自我論を見るなら、我々は「人」と「コンピュータ」を区別する必要はない。人は、コンピュータと同じく物理的メカニズム(ハードウェア)を具えて誕生する。プログラムはコンピュータに最初に付与される信念(ソフトウェア)である。コンピュータは、人と同じくその基本的な信念を基礎に、様々な信念や判断を紡ぎ出す。ハードウェアは物理的で非合理的(non-rational)だが、ソフトウェアは志向的で合理的だ。コンピュータが信頼に足るパートナーであるなら、不整合な判断の出力は困る。出力される判断は、信念と同様チャリティの原理に従う。コンピュータに「中心」がないのと同様、人にも「中心」はない。かくして、「自我」の概念は消え失せる。我々が「自我」と称しているものは、実は信念や欲求の「所有主体」ではなく、信念や欲求それ事態の「ネットワーク」(web)である(ヒュームと同じ)(PPv1, 93, 123)。外界からの0様々な刺激や圧力(入力)に応じて、様々な信念や判断(出力)を紡ぎ出す。かくして、人とコンピュータを存在論的=認識論的に区別するメルクマール----自我であれ、意識であれ、統覚であれ----はなくなる(PMN, 220, 255 fn.38; PPv3, 141-142)。

人間とコンピュータには、なんの「区別」もない。私だって、別に、そのことを否定したいとは思わない。しかし、それは、別に、コアラの方が、ブタより人間は、「共感」を抱くと思っているからではない。人間がコンピュータに「共感」を抱かないと思っているからでもない。そうではなく、人間だって、コアラだろうが、ブタだろうが、コンピュータだろうが、共感することだってありうるだろう、と思っている、ということにすぎない。
しかし、そういった「共感」が起きることが、少しも、コンピュータやコアラやブタが、人間になったことを意味しない。つまり、別に、人間がこういったものを、「人間と同等」に、守りたいと思うことを少しも不思議だと思わない、ということである。

人は古ぼけたコンピュータを廃棄処分できる。しかし、人は年老いた親を処分できない。要するに、人とコンピュータ、ひいてはマシンを区別するのは我々は人に対して道徳的責任を感じるが、マシンにはそれを感じない、という事実である。変だ。そう感じる読者もおられよう。ローティの言っていることは論点先取だ。なぜって、人が人に道徳的責任を感じ、コンピュータに感じないのは、人は「自我」や「精神」を持っており、我々がそれを尊重しているからだ、と反論できよう。「哲学的」「道徳的」をつなげたい伝統主義者はそう言うだろう。いい点を衝いている。しかし、「自我」や「精神」を具えていることが、道徳的配慮を請求するための条件だとすれば、こういう例はどうなのか。コアラの顔が苦痛で歪んでいるとき、人はそれを和らげてやるべきだという道徳的な義務感を覚える。コアラに「自我」があるのか。すると多分こう来るだろう。コアラには「生命」があり、我々はそれを尊重するのだ、と。でも豚はどうなるのか。彼らがどんなにもがこうが、我々は彼らを殺して食べているが。我々はコアラに道徳的責任を感じるが、豚には感じない。コアラには「自我」があるが、豚にはないのか。ローティはこう答える。我々がコアラに道徳的責任を感じるのは、それが我々に「似ている」からである。その目鼻立ちは人に近い。コアラが顔を歪めるとき、我々は我々と同じ----我々が苦痛を感じているときの----感情をコアラに帰するのだ。残念ながら、豚は人に似ていない。豚は感情表現が下手なのだ(PPv1, 190-191)。結局、対象に対して道徳的責任を感じるか否おかは、単に社会的なプラクティスの問題なのである。

ブタを食べることは、ローティに言わせれば、「残酷」ということになるのだろう。そうであれば、人間が人間を食べるなどということは、「ありえない」ということになるのだろう。しかし、問題は、その「残酷」という感情が、そう簡単に、言えるのか(他人に伝わるのか)、という疑問なのだ。
人によっては、ある場合には、そういった行為を「残酷」だと思わないかもしれない。しかし、似たような場合においては、それを「残酷」だと思い、悲嘆に暮れるかもしれない。問題は、そういった「恣意性」が普通に起きる、ということではないのか。

本分中で述べたとおり、ローティの唱える理屈の中で、最も論争的なのは「公/私の区別」である。これをもう少しもっともらしく見せるために、いささか想像力を逞しくしてみよう。それは、公/私の区別を「政教分離」の応用ヴァージョンと見ることである。周知のとおり、ローティは、ロールズが言った「哲学それ自身に対して寛容の原理を適用する」(PL, 10, 154)を拍手喝采で迎え入れている。ここでの「哲学」は世界観、倫理、人間理解等を表しているが、近代以前、この手の包括的ドクトリンを提供していたのは宗教であった。従って、「哲学を個人化せよ」、すなわち「哲学を個人的ヴォキャビュラリーと見なせ」というローティの呼びかけは、実に、哲学を宗教のように扱え、ということなのだ。

ローティがやっていることは、後期ロールズと同じく、哲学を「仮定」として、「競争」させることなのだろう。その行為は、結局は「そのどれかが正しい」という「安定系」に辿り着かない。というのは、「どれも正しい(否定する側の理由もない)」からだ。
確かに、ローティは、最小の原理として、「苦痛」を提示する。しかし、よく考えてみれば、なぜ「苦痛」なのかは、少しも自明ではない。なぜ、その他の観念を無視して、「苦痛」を特権化するのか。もちろん、ローティ自身には、その理由があるのろう。彼に言わせれば、リベラリズムから成立しているところに、「苦痛」を避けようという原理がないとは考えられない。しかし、私に言わせれば、その「選択」が合っているか以前に、恣意的なのだ。つまり他人に伝わらない。これが、私が、結局のところ、ローティは哲学を捨てていない、という理由である。
しかし、言ってみれば、それは(後期ロールズと同様に)メタの立場の「選択」の話であって、つまりは、どうでもいいのだ。
しかし、なぜローティは、「最小」にこだわるのか。それは、著しく、後期ロールズの、性格を反映している。ここにおいて、「なにが優れているか」という客観的な基準はない。あるのは、幾つかの主張が並列され、
競争
している姿であれ、それは、たんに「唯物論」的に、自然淘汰される。
つまり、そういった、さまざまな、ローティ自身の哲学的残滓をとり除いていけば、結局のところ、ローティがやっていることは、政治であり、ということは、宗教であった、ということになるのだろう。
それは、結局のところ、政治や宗教においては、私的な発言を、それらと「区別」して存在させることはできない(分けられない)、という認識だった、ということになるのだろうか...。

リチャード・ローティ=ポストモダンの魔術師 (講談社学術文庫)

リチャード・ローティ=ポストモダンの魔術師 (講談社学術文庫)