否定

論理学で、「否定」というプレフィックスがある。つまり、「なになにではない」という言い方であるが、よく考えてみると。否定というのは不思議だ。なぜなら、なぜ否定というプレフィックスを使うのかが不思議なのだ。
もし、ある人が、なにかを伝えたいなら、別に、否定のプレフィックスなんて使わないで、肯定文だけを連ねていけばいいではないか。自分が言いたいことは、これとこれとこれとこれです、というように。
そう考えると、あらゆる言明は、否定を必要としていないはずなのだ。
また、否定を使う欠点は、どうしても、そこに「解釈」が混入してしまうことだ。つまり、どうしても論理的なレトリックの「妥当性」を考えなければならなくなり、「論理学の正しさ」みたいな話にさえ、なりかねない。
実際、否定が「正しい」なら、なぜ、二つの主張は、「別の言葉」で一般に使われているのか、ということになり、そう単純じゃないんじゃないのか、ということになるだろう。
よくよく、「否定」を使うときは、自覚的になった方がいい。つまり、その「効果」を考えて使わないと、自らが、その「否定の魔術」に酔ってしまう。
最近、元外務省の孫崎享さんの『戦後史の正体』という本を、新聞記者の佐々木さんがレビューを朝日新聞に書いて、本人から、ツイッターで抗議を受けている。
そして、これを受けてのニコニコでの孫崎さんの話は、個人的には、興味深かった。

ロッキード事件から郵政民営化、TPPまで、すべては米国の陰謀だったという本。米が気に入らなかった指導者はすべて検察によって摘発され、失脚してきたのだという。

一般に陰謀論とは、証拠もない嘘で、誰かが誰かを陰で操っていると言っている「デマ」のことを指す。そして、このデマの特徴は、アメリカと日本の間のような、誰にも確かめられようのない外交の世界のことのため、そう簡単に証拠が現れないから、なかなか否定しきれないように語られやすい、水掛け論になりやすい、と。
つまり、このように読むなら、問題は、この記者が、この本が言っている、具体的な一つ一つのアメリカの「圧力」に対して、「これが陰謀である」と証明しなけれならない、と思われるだろう。
ところが、その説明がされることはない。というのは、記者の論点が、どんどんずれていくのだ。

しかし本書は典型的な謀略史観でしかない。

記者は、最初は、一個一個のデマの真偽を問題にしていたように読める語り方をしていたのに、いつのまにか、「そういう」史観という、この本全体による
メタ
の話に、すりかわっている(しかし、「史観」とかいう言葉の使い方が、左翼的だな)。論点が、日本の戦後史は、アメリカが日本をずっと陰で操っていた、という史観の方に変わるわけである。
そして、ここで、自分がなぜ、この「陰謀史観」を否定するのか、の理由が書かれる。

日本の戦後史が、米国との関係の中で培われてきたのは事実だろう。しかしそれは陰謀ではなく、米国の一挙手一投足に日本の政官界が縛られ、その顔色をつねにうかがいながら政策遂行してきたからに他ならない。

整理すると、こうだ。

  • この本は、日本のさまざまな事件を、アメリカの「陰謀」だと主張していると思う。
  • 私は、この本は、陰謀史観だと思う。
  • 日本の戦後史は、アメリカによる陰謀(史観)ではなく、アメリカの強制の強度の大きさに対して、もがいてきた歴史なんだ。

しかし、最後の「否定」は変だろ? だって、どっちにしろ、アメリカの「圧力」はお互い認めているわけだから。実際、孫崎さんが基本的に使っている言葉は、最初から、アメリカの「圧力」である。
じゃあ、この記者は、他人の本に「因縁」をつけて、なにに、ぶーたれているのだろうか。
つまり、あくまで、この本を離れて、この記者さんの持論を整理すると、以下になるんじゃないか。

  • 戦後の日本はいつも、アメリカの陰謀によってダメにされていると、「アメリカのせい」にばかりしていて、日本自身が自分のことを自主的に決定する意識を欠いてきたが、これからはそれでは生き残れない。

そして、この「アメリ陰謀論」を錦の御旗にして、反体制運動をしてるのが、日本の左翼だ、と。
そして、その左翼の理論的支柱としての、この本を論破することが、日本の「自主独立」の第一歩だ、と。
そのためには、この本は、どうしても「陰謀論本」でなければならなかったのだ。そうでなければ、自分の持論が展開できない。
しかし、そういった「日本の自主性」以前に、事実関係が重要なのではないんですかね。「日本の自主性」さえあれば、「米が気に入らなかった指導者はすべて検察によって摘発され」てもいいんですかね。おかしなことは、おかしいと主張することの方が、「日本の自主性」ではないんですかね。
そこを、「陰謀論」本だとレッテルをはったのだから、当人には、説明責任があるんじゃないんですかね。
だって、陰謀論だってレッテルをはられた側にとっては、大きなイメージダウンでしょう。他人に被害をおわせて、だんまりはないでしょう orz。
一番の問題は、記者がまず、この「陰謀」という言葉を使った「意図」を、もっと、分かりやすく徹底的に説明することではないだろうか。そして、自分がこの「陰謀」という言葉で、どういうことをイメージしているのかを、つまびらかにしなければ、なにも始まらない。とにかく、一個一個の言葉を、正確に、なるべく多くの人に、その意図が伝わるように使うことを心がける。それが、言論人の使命なのでないだろうか...。