松本三和夫『構造災』

(掲題の本は、私が、3・11以降、いろいろ読んできた原発問題の本の中で、比較的、技術寄りのものでありながら、より社会全体を含んだ、

  • 統一的・俯瞰的

な視点で、この問題を検討している、良質な議論に出会えた、という印象を持っている。)
明治以降の日本の構造を考えたとき、大きく分けて、その「行動」のほとんどを、産業界と国政側(と戦前は軍隊)が決めていた、ということが、非常に大きな特徴ではないか、と思う。
これは、一言で言えば、「秘密主義」ということになる。
3・11以降の福島第一原発事故にまつわる、経緯をずっと見てきた人たちにとっても、なんとなく思い続けてきたことというのは、その
しらじらしさ
なんじゃないか。つまり、驚くべきことに、国民は、3・11以降の福島第一原発事故に関して行われてきた、政府や東電の発表が

  • 嘘つきまみれ

だったんじゃないかということに驚いただけでなく、実際に、彼ら自身が、そういった「態度」を、いつまでも、続けていたことに、あきれはてた、ということなのであって、むしろ、実際の事故の深刻さ以前の問題として、国や東電は、何回、原発事故を起こしても、

  • ああいう態度

をとるんだろうな、と「学習」したことの方が、大きな事実だったんじゃないか、と思われるわけである。
それは、言うまでもなく、戦中における、「大本営発表」が「デタラメ」であることを、国民のだれもが知っているのに続けるという

なわけであろう。国や東電のああいった「態度」は、つまりは、国民をバカにしているということなのだが、もっと言えば、

  • 国民に向かって話していない

ということである。彼らは、国民を説得しなければいけない、と考えていなかった。彼らが説得しなければならない人たちとは、別なのだから、

  • 適当

にやった、ということである。彼らは国民には「秘密」にして「いい」ことがある、という「前提」で話している。だから、国民には、彼らが話していることは「適当」というふうにしか、伝わらない。
そして、この「パターナリズム」は、おそらく、ずっと続く。終わらない。それが、結局のところ、今になっても、原発を動かそうとしている、ということが意味している、と。
実際、ぶっちゃけた話、なんで国民の全員が、何ミリシーベルトが住んじゃいけない地域か、なんてことの、「理由」を理解しなきゃなんないというのか。世界中で、平時においては、一ミリシーベルトとなっているなら、
どんなに国内だけで通用するような学者が、

  • この「非常時」なら、一ミリシーベルトを多少、越えた位は忍従せよ(実際、なぜか、今、福島県では、20ミリシーベルトになっているらしい)

みたいなことを、説教しようと、子供のいる家庭や若い女性は、できるだけ、そういう場所に住みたくないと思うのは、当たり前の話で、そのことに、複雑な説明など不要であろう。
わけのわからない、原発推進派が、放射能安全実験みたいなものを、どっかの、うさんくさい研究所から、もってきて、100ミリまで安全とか、もう、こういう話をしている時点で、うさんくさくて、まったく相手にする価値を感じないだろう。
実際に、福島県外に移住している人の多くが、若い人や、子供のいる家庭であるわけで、そういう人たちに、20ミリ以下なんだから、帰ってきやがれ、って、お前は何様だ、ってことだろう。じゃあ、帰ってこなかったら、国の政策に従わないんだから、福祉を減らしていい、とでも言うのか。そういった、一人一人の「本音」をベースに、地域政策を考えないで、なんのための、国家なのか、ということではないのか。
掲題の著者の言う「構造災」という視点で、明治以降の日本を見ていくとき、そもそもの、国家政策にとっての、「正当性」を、どのように獲得していくのか、という所から、問題含みであり、まったく、「合意」のないものであることが、ずっと続いていて、今日まで来ているのであって、別に、福島第一のことだけでなく、未来に渡って続く問題なんじゃないのか、というのを痛切に感じるわけです。

当時の確率論的リスク評価において、多重防御のために用意された水とジルコニウム合金という異なる要素どうしのあいだに相互作用が起こり、水素爆発のような重大な事故につながる可能性は想定されていない。ところが、『ブレティン・オブ・アトミック・サイエンティスト』誌上に、そのような水とジルコニウムの反応によって発生する水素が反応温度によって深刻な問題となる可能性を懸念する「じゅうぶん安全でない」という記事が、一九七五年に登場している。
著者は、ピッツバーグ大学のE・ガルブランセン。ガルブランセンはいう。「現行の設計と材料を前提とするかぎり、原子力発電所は工学上安全ではない。原子炉の材料として用いられている金属には重大な使用限界が存在するからだ」「冷却剤喪失事故などによりジルコニウムが摂氏一一〇〇度の条件下で水と反応した場合を想定すると、反応のそれ以上の進行をくいとめること、つまり炉お配管の破損をくいとめることは困難である」(同誌第三一巻)。
これに対し、翌年の同誌上でペンシルベニア州立大学工学部のN・パラディノは、「原子炉の設計と開発をはじめとする二九年間にわたる原子力工学分野の経験」にもとづき、ガルブランセンの記事を一蹴する。ジルコニウムを用いた多数の発電用原子炉が正常に運転されている実績からすれば、ガルブランセンの危惧は問題外であるという。「この実績が、現行の原子炉の設計においてそれらの問題が事実上解決されていることをものがたっている」(同誌第三二巻)。
問題は、想定と過去の実績のあいだで争われている。事故が起こってわかったことは、過去の実績はかならずしもあてにならず、むしろ理非を尽してふだんから想定に適度に柔軟ん幅をもたせておくことの重要性だった。比較的温度が低いと想定された炉心下部の温度分布ですら、前記のガルブランセンの指摘した摂氏一一〇〇度に達した部分の存在することが、事故の一五年後に公表されているからである(図1-1参照)。

上記のスリーマイル島原発事故において、交わされた専門家のやりとりは、非常に重要な問題を示唆している。
その当時、確かに、多くの原発が平常運転をしていたし、それが何年も続いていた。しかし、だからといって、そのことから、上記の「水とジルコニウム」の相互作用の「可能性」を無視することはできない。そういった相互作用が、どれくらいの確率で起きることで、炉の損傷を甚大にするにしても、

  • 今まで起きなかった

ことが、少しも、これからも起きないことを意味しないわけである。
同じような例として、スペースシャトルのチャレンジャー号の墜落という、悲惨な事故をとりあげる。

第一に、職場集団でのやりとりにまで事実を分解すると、すくなくとも事故に先立つことおよそ九年前の一九七七年にまで問題を遡及できる。すでにその時点で、個体ロケット・ブースターのわずかな回転運動により接合部に隙間が発生する現象が観察されているからである。
第二に、それ以後のおよそ九年間にわたり、接合部をつなぐ工作法が工業基準に違反しているにもかかわらず許容範囲だとする文化が、マーシャル宇宙飛行センターならびにその契約業者であるサイオコル社というふたつの職場集団のあいだのやりとりをとおして形成される。
つまり、ポピュラーストーリーの想定よりもはるかに長期かつ構造的な「逸脱の常態化」(normalization of deviance)が宇宙開発関係者集団に存在したことにより、事故は起こるべくして起きたのだという。

この、さまざまな現場における、「逸脱の常態化」は、「たまたま」事故が起きないことが「続いている」という、過去の実績が、問題を隠蔽するが、そういった「慣習」が少しも、重大事故に至らないことを意味しない、ということである。
たまたま、日本の原発は、福島第一事故に至るまで、重大な被害を周辺にこれほどの規模で与えることはなかったとしても、そういった事故を「起こしうる」という潜在的ポテンシャリティを、かなりの確率で伏在しているのではないか、ということが、原発の運用がアメリカで始まってから、このように、何度か起きてきたことから考えても、この問題をどう考えるのかは深刻である。
掲題の著者は、こういった問題を考える場合に、以下の「カテゴリー」を導入する。

そういった不要な混乱を避けるため、前記の意味でのアクターと独立に、それらのアクターが属す業界を、何を「生産」しているかという観点から類型化しておきたい。すなわち、官、産、学、軍、民の五つにアクターが属す業界を類型化し、アクターと別の次元をもつ社会の互いに異質な部分という意味で、それらをセクターと呼ぶことにする。
官セクターは、法律の生産に直接、間接に関与する議会と行政機構をさす。産セクターは、人工物の生産に直接、間接に関与するメーカーを中心とする企業をさす。学セクターは、学術知の生産に直接、間接に関与する大学、専門職業化した学会、研究機関などをさす。軍セクターは、兵器の生産と運用に直接、間接に関与する陸、海、空軍をさす。民セクターは、NPO、NGO、マスメディアの一部、市井の人びとなどをさす。
各セクターには、それぞれ特有のふるまい方が想定できる。とくに、科学技術と社会の境界で発生する争点に含まれる不確実性をどうみるかは、端的に見本例となる。
たとえば、官セクターなら、不確実性を先例踏襲によって処理すべき事項、あるいは踏襲すべき先例が存在しなければさきおくりすべき事項とみる傾向をもつであろう。産セクターなら、不確実性を目前に利潤を極大化するために考慮すべき、あるいは回避すべき条件のひとつとみる傾向をもつであろう。
学セクターなら、不確実性を研究費の獲得につながるかどうかを見極めるために考慮すべき要因とみる傾向をもつであろう。新兵器の性能を追及する軍セクターなら、不確実性をハイリスク・ハイリターンの戦略にともなう思いがけない好機、あるいはやむをえざる要因とみる傾向をもつであろう。民セクターなら、不確実性をさしずめ他のセクターの言説や行動によって余儀なくされる社会的受忍の問題を訴える材料とみる傾向をもつであろう。

私は、上記の「セクター」という考えが少し「意外」であった。なぜなら、ここには「マスコミ」というカテゴリーが用意されていないからだ。
しかし、よく考えてみれば、このことは、大変重要な点を指摘されているように思われる。マスコミとは「誰」か? 同じことは、ジャーナリスト、作家、評論家、全てに通用する問題である。

  • マスコミは、官セクターか?
  • マスコミは、産セクターか?
  • マスコミは、軍セクターか?
  • マスコミは、学セクターか?
  • マスコミは、民セクターか?

言うまでもなく、日本人一人一人は、一市民であるという意味では、民セクターであろうが、じゃあ、彼らマスコミは、「どこからお金をもらって」商売をしているのか、と考えたとき、別に、民セクターだけが、相手とは限らない。官セクターの「大本営発表」をたれ流すだけのところもあれば、実質、自らが学者として、学セクターに所属しながら、文筆活動をしている人もいる。つまり、マスコミを
セクター
として扱うのは正しくない。それは、一人一人なのだ。私たちは、御用マスコミと、そうでない人を、ちゃんと、一つ一つの記事に対応して、
判断
していかなければならない。
では、このようなカテゴリーから見ていくとき、明治以降の日本の「構造」において、どのような特徴が指摘できるのか。

科学技術立国論を錦の御旗として用いる手法は、表3-5の極秘資料の最初のものとなる一九四〇年六月二五日付極秘「技術研究機関の拡充案」にすでにはっきりと見て取ることができる。
いわく、「東亜新秩序建設の民族的使命を完遂し......急激なる国際政局の変革に対処するの方途は一に国防力の強化と生産力の充実にあり。......之が為には我国の技術の独立、その水準の向上と、技術動員体制を整ふるを以て先決問題とす。(中略)技術の国際的独立を企図し、我国工業の欧米の植民地的地位を脱却せしめて日本技術の世界的水準を向上せしめると共に......来るべき国家総力戦の飛躍的段階に備へんがため政府機関及研究機関の整備を図らんとす」。
そして、この錦の御旗のもと、日本の研究機関を再点検し、その「欠陥」を是正するという対症療法が説かれる。同文書は、「欠陥」を一〇項目にまとめる。たとえば、こうである。
「会社の研究機関は利益本位の研究に堕し、政府の研究機関は無責任なる研究論文の作成に堕し、むしろ之を尚う風ありて工業化研究に至らず」。
「現在の研究所の研究方法に重点主義なし。個人の好みと好奇心によりて研究は行はれつつあり」。
「研究者は国家及実際産業界の要求する問題を知らず。研究者と実際方面との間の連絡なし」。
「研究者の待遇著しく悪く、優秀なる研究者を得られず」。
「研究所の人的管理に関し所謂閥の存在のみありて実力主義的原理なし」。
現在の日本で、研究環境やイノベーションが説かれる際に指摘される問題点を先取りするような論点だ。その論点に関するかぎり、日本の学セクターの近代化を促す効果が想定される。ところが、じっさいに出現したのは、あらかじめ定められた国策に協力するよう科学技術に対症療法をもとめ、対症療法を生みだすさまを国家が管理するしくみであった。

このように見てきたとき、明治以降の日本の国家「構造」において、最も問題含みなのは、ほとんど、

  • 学セクター

が機能していないことにある、ことが分からないだろうか。

たとえば、前記の原子力発電の早期導入方針を決定する原子力委員会の一九五七年三月七日付答申に関して、日本学術会議は総会で議論し、同年五月六日付で日本学術会議会長茅誠司より科学技術庁長官宇田耕一宛「発電用原子炉の輸入について」という勧告を行う。そして、拙速な技術導入路線に反対する。
結果は、前記のとおり、コールダーホール改良型炉の早期導入主体として日本原子力発電株式会社が同年一一月一日に設立されている。勧告が実効性のある影響力をもたなかったのは、誰の眼にも明らかであろう。
それどころか、こんどはおよそ同勧告の内容と矛盾するコールダーホール改良炉の早期導入を前提とする安全性論議が起こり、日本学術会議事務長竹下俊雄より科学技術庁原子力局長佐々木義武宛「原子炉の安全性について」なるきわめて一般的な要望を一九五九年一二月四日付で提出する。
ところが、要望提出の半年以上も前の三月一〇日に、コールダーホール改良型炉の導入主体である日本原子力発電株式会社東海発電所は、東京電力と電力購入予約に関する仮契約をすでに締結している。活発な論議の参加者の熱意を認めるのにやぶさかではないが、事実に即してみるかぎり、実効性ある影響力の欠如、論議の活発さ、系統性の欠如が同居するという、まことに特異な状態があらわれている。

考えてみると、日本学術会議は戦前の学術体制刷新のため、連合軍総司令部の肝入りで設立された当初、学者の国会を期待された。けれども、原子力開発、利用体制がつくられる過程に関するかぎり、前記のように、実質的な影響力をもつことはなかった。
むろん、一九五四年五月一日付で日本学術会議会長茅誠司より内閣総理大臣宛「原子力問題についての申し入れ」によって原子力予算の計上に「遺憾」の意を表明して以来、日本学術会議内部で活発な議論が行われたのは事実である。
問題は、活発な議論が、前記のとおり系統性と対外的な実効性ある影響力にほとんどつながらなかった点にある。そして、一九八五年より日本学術会議の会員選出は直接選挙制ではなく、内閣総理大臣による任命制に変化してこんにちにいたる。

上記の引用から分かるように、完全に、学セクターは、日本の政策決定において、

  • 無視

されてきた。つまり、ここにも、福沢諭吉の「技術偏重」の悪弊が、見られる。
明治以降、日本のあらゆる政策は、産セクターと官セクター・軍セクターによって、進められてきた。完全に、学セクターと民セクターは、

  • 蚊帳の外

に置かれ続けてきた。日本の学者は、日本において、こと「政策決定」において、まったく、無視されシカトされ、相手にされてこなかった。
私は、ここにこそ、あらゆる問題の最大の欠点を感じている。
日本における、近代科学による、「進歩」とは、嘘なのだ。学セクターは、あくまで、産セクターが、商売道具の開発「のみ」の需要のために、技術開発に

  • 使える

場合だけ、相手にされるのであって、基本的に、日本において、学セクターは、馬鹿にされ、相手にされていない。よくマスコミに学者がコメンテイターとしてでてくるが、基本的に彼らは、政策決定において、相手にされていないのだ。産業界の「ガキの使い」として、いいように「使われてきた」だけなのだ。
この問題を最も、決定的に意味してしまったのが、政府事故調による報告書の「作文」性である。

つまり、誰にどのような仕方で聞いた結果、どのような情報が得られたかが一体として明示されないかぎり、結果の判断をさしひかえるというのが学術的に質的データを収集、解析する場合の基本作法である。調査倫理の基本前提といってもよい。政府事故調査・検証委員会の中間報告には、いずれの情報も特定されないまま結論だけが提示されている。
同委員会を構成する学識経験者が、このようなおよそ基本的な事柄をふまえていないとは考えられない。それゆえ、つぎの可能性が導かれる。報告内容の学術的な妥当性、信頼性を担保するために不可欠なこうした条件を阻害する秘密主義の作用のもとで同委員会が活動した可能性がそれである。
むろん、すべての「関係者」が属性情報の開示を承諾するとはかぎらない。そうした場合は、たとえばチャタムハウス・ルールのようにその場だけでいわばオフレコで情報を提供してもらい、あとでそのことを明記するという手法もある。一部の「関係者」がそうであるというのは、考えられる。けれども、史上最悪の原発事故という公益を著しく損なう事態を前にして「関係者」全員が属性を開示しないというのは、秘密主義の存在を想定させるに余りある。

結局、利害当事者の政府が、自らの「管理」の下に、こういった組織を置いたため、まったくの、トレーサビリティのない、つまり、公共的なアーカイブネスとしては、意味のない、作文を作っただけになってしまった。
対して、国会事故調の報告書は、国内、海外を含めて、非常に評価の高いものになっている。
もう一度、整理しておくと、私たちに必要なのは、それぞれの主張している人の言論者の発言が、実際において、以下のような(安冨さんの言う)「立場」に、非常にひきずられていることを
構造
として、理解しなければならない。つまり、この最初のポイントにおいて、ナイーブでは、全体の「からくり」を理解できない、ということなのである。

1. 当事者とは、問題の内容の規定に本来もっとも関与すべきであるにもかかわらず、内容の規定への関与がかぎあれ、結果からもっとも直接的、間接的影響を受ける反面、責任を問われる可能性は不定というアクターをさす。不定とは、問題の内容の規定に関与していないため、ほとんど責任を負いようがないこともあれば、それでも自己責任を負わされることもある状態をさす。
2. 利害関係者とは、問題の内容の規定にしばしば関与し、結果による間接的影響を受け、責任を問われる可能性も相当程度あるアクターをさす。3. 第三者とは、問題の内容の規定の主役として登場する反面、結果による直接的、間接的影響をほとんど受けず、責任を問われる可能性が想定しにくいアクターをさす。
4. 漁夫の利を得る可能性のある人とは、結果による間接的受益にかかわる場合にのみ問題の内容の規定に関与し、責任はいっさい負わないアクターをさす。5. 傍観者とは、いずれの観点からみても関係が乏しく、またあえて関係をもとうとしないアクターをさす。

3・11以降、御用学者とか、エア御用という言葉が使われてきた。また、ネット上では、さかんに「工作員」疑惑がささやかれている。しかし、大事なことは、それらが、上記の「どこ」に対応した存在なのか、ということです。この
構造
を理解して、反応することが重要だということです。
しかし、なぜ政府は、こういった「秘密主義」を採用することに、なんの疑問ももたなかったのであろう。それは、そもそもの、原子力発電所が、著しく「戦争の道具」としての、意識が高かったのではないか、と考える。原発とは、原子力爆弾に類似する技術であって、国防上の「秘密主義」を、ここでも採用した、ということなのであろう。
このことは、民主党原発ゼロを閣議決定しようとしたときの、有象無象の抵抗があらゆるところから「秘密主義」において、現れ、つぶした、いきさつにおいて、観察されるだろう。
つまり、原発とは、明治政府以降における、産セクターと官・軍セクターのトライアングルで、全ての日本の政策を決めてきた、今までの、

  • 秘密主義

そのものの象徴として、あるということで、これを止めることが、上記のトライアングルの終焉を意味するという抵抗だと考えられるわけです。
もう一度、原発の問題点を整理すると、まず、原発の深刻な事故が、周辺住民にもたらす「被害」が、(半永久的になる場合の避難などを含めれば)まともに、計算ができないくらいの

が発生するし、廃棄物に至っては、今生きている世代より、はるか未来の世代に、「押し付ける」ことになるわけで、そういった

  • 絶対に現役世代で、その「責任」を引き受けられない

ところにある。
結局、あらゆる問題は、その問題の「責任者」が存在しない限り、「問題」でありうるということであり、つまりは、その問題の「責任」を、その「責任者」が、引き受けられているのか、が全ての問題の根本であると思われる。もちろん、すべての責任を一人が担わなくてもいい。細かな細部の所は、現場の人しか知らないわけだから、「その点」においては、現場に近い人が責任をとるしかない。しかし、いずれにしろ、それら分散された責任「全体」で、この問題に対しての責任をカバーできていなければならない。
一般に、こういった「だれも責任を引き受けられない」ものを、国家が政策として推進する場合に、どういった手段がありうるか。
言うまでもなく、「国民が選択する」場合しかない。ところが、上記にもあるように、国家は、原発技術をテロに使われないようにするなどの関係から、徹底して

  • 秘密主義

を貫いてきた。そして、「絶対安全神話」によって、原発を日本に50基以上作った。
ところが、その「絶対安全神話」が、3・11で終了した今、日本列島上で、原発を動かす「正当性」がなくなってしまった。
これには、日本の右翼も左翼も同意しているわけで、政策として、原発ゼロは、産セクターがどのようにあがこうとも、規定路線となっていくことは、間違いないわけで、日本国内の原発は間違いなく、減っていかざるをえない。
そして、おそらく、その動きを私は、

  • 民セクターによる、学セクターのサポート

によって、強く主導されていくのではないか、と予想する。
上記の明治政府以降の分析において、問題は、あまりにもの、

  • 学セクターの無視

にあることは自明だと思う。どう考えても、日本において、学問は軽視されているし、嘲笑されている。
それでいいのか?
ということなのだ。日本国家をひっぱるのは、日本の最先端の学問じゃないのか? むしろ、そうでないことを、なぜ、国民は許すのか。
おそらく、日本においても、原子力倫理委員会のようなものは作られるし、そしてそれは、

  • 学セクターを中心としたもの

にならざるをえないのではないか。日本の学問の最高の水準によって、日本のさまざまな政策を主導的に牽引するようになって始めて、上記で見てきた、明治以来、福沢諭吉以来の、
技術偏重
の、国家システムは訂正され、民セクターが中心的に活躍し、それを学セクターが理論的基盤を提供する
倫理国家
になる可能性が示唆されうるわけである...。

構造災――科学技術社会に潜む危機 (岩波新書)

構造災――科学技術社会に潜む危機 (岩波新書)