古賀敬太『シュミット・ルネッサンス』

カール・シュミットが、国家のカテゴリーを「敵味方概念」に求めたことは、今さら言うまでもないことであるが、しかし、考えてみると、このことは、ある種のパラドックスになっている。
というのは、もし国家が「敵味方」のカテゴリーによって定義されるなら、もう「敵味方」という概念を必要としなくなったら、国家そのものが必要なくなった、ということを意味しているように思われるからである。
つまり、日本と中国、韓国、北朝鮮が、それなりに、経済的な結び付きが、大きくなって、それなりに、

  • 仲良く

なってしまったら、そもそも、この「区別がいらない」ということになってしまうのではないのか? ということなのである。
この問題が深刻なのは、そもそも、シュミットが、国家の「定義」を、このカテゴリーによってしてしまったからで、それによって、この結果が、
論理的に導かれてしまう
というところにある。
というか、そもそも、第二次大戦以降、世界は、大きな戦争を体験していない。ほとんどは、局地戦の、どちらかといえば、「警察行為」に近いものになっているわけで、本質的な意味での、「戦争」は、非常に少なくなっている。ということは、世界は「平和」になってきたということであって、それってつまり、
国家の死滅
を意味しているんじゃないのか、ということになる。
このことは、逆からも考えられて、そもそも、シュミットの「敵味方」カテゴリーを考えたとき、

  • 政党

というのは、意味不明だ。なぜなら、国家とは「味方としての同質性」によって、定義されているものなのだから、さまざまな政党が、別のことを言っているというのが理解できない。だって、違っていたら「味方」ではないように思えるからだ。つまり、政党で分かれるくらいなら、別の国家に分かれろ、と言われているように思われるのだ。
どうして、こういった方向になるのだろうか。
それは、一つには、ホッブスから始まる「近代」の「定義」が、大きく影響しているのではないか。

シュミットは、無制限の権力の《常態化》に着目して、ホッブズを《主権独裁》の枠組みに位置づている。

ホッブズにあっては、......主権は国民による絶対権力の設定から発生するのであって、このことはカエサル主義の体系、絶対的委任の根底を持つ主権独裁を想起させる。」

こういったホッブスの整理は、次のルソーの「一般意志」が、大きく、このアイデアに縛られている、という印象を受けるわけである。

ホッブズの主権概念を人民に適用したのがJ・J・ルソー(一七一二 - 一七七八)であった。ルソーは、一七六に 年に出版した『社会契約論』において、主権は《一般意思》の行使であるので、それは譲渡不可能で(第二編第一章)、分割不可能(第二編第二章)であり、《一般意思》は誤ることがない(第二編第三章)と主張したルソーにおいてもボダンと同様、主権のメルクマールは立法権であり、主権は不可分で絶対的なものとして解釈されている。こうしたルソーの人民主権概念は当然のことながら、多元主義自由主義法治国家と対立することになる。というのも人民主権が《一般意思》の行使であることによって、主権概念に道徳的優越性がつけ加わり、《一般意思》と同一化した多数者による少数者の抑圧の危険性が生じるからである。人民は、ホッブズやボダンのように法的、政治的主権の担い手であるのみならず、道徳的主権の担い手でもあった。

つまり、ホッブズの「主権」が、シュミットの言う「主権独裁」として定義するなら、ルソーは、「人民」に、その「根拠」を定義した、という特徴があるということで、基本的には、ホッブズの「主権」の、同質性を、ルソーは踏襲している、基本的に、同じ方向で、考えている、と言えると思う。
つまり、ホッブズからルソー、シュミットの流れで、国家を考えたとき、そもそも、多様な「党」によって、構成される政治システムというのは、なにか、「語義矛盾」のような印象を与えるわけである。
シュミットが政治カテゴリーを敵味方で説明するとき、その国家とは「味方」概念で説明される。つまり、敵とは「外国」のことになる。じゃあ、国内における、政治的な「対立」は、なんなのか? ホッブズ、ルソー、シュミットの流れでは、それは「不純」としか、受け取られない。
しかし、言うまでもなく、「主権」という考えは、非常に新しい概念であることに、注目したとき、そこに、さまざまな「政治」を見出せる可能性もあると言えるのではないか。

ちなみにプロイスにとって主権概念批判には、もう一つの学問的な意図が込められていた。それはゲルマン法を尊重する立場から、《主権》といったローマ法の用語を一掃する企てであった。彼が民主主義者でありながら《人民主権》という言葉を使用せず、《人民の自治》(Selbstverwaltung)という用語を使用するのも、ゲルマン法の伝統に沿ったものであった。彼は、「私たちの論述は主権概念自体に向けられているので、君主主権、人民主権、国家主権の区別に立ち入ることは不必要である」と述べている。ちなみに彼が起草したヴァイマール憲法には《主権》という言葉は見当たらず、「国家権力は人民に由来する」と規定されている。彼は上記の書物の第二部第五章の「主権概念の分析」において、「国家論の課題は、《主権》概念に替えて、《自治》という新しい原理を導入することである。《自治》という実り豊かな理念を生み出したゲルマン法からまた近代の法治国家の基本原理が発展した。それは、《主権》といったローマ的概念やローマ的用語を駆逐し、それにとって替わるのである」と述べている。

いずれにしろ、ホッブズ、ルソー、シュミットの流れにおいては、敵味方カテゴリーにおける、味方の「一つ」性=主権性=主体性、が、大きく規定しているように思われる。つまり、それがなければ、それを、一つのカテゴリーとして提示する意味がない、という感じではないだろうか。
しかし、おもしろいのは、今度はそれを、敵との関係において、考えたときなのである。

しかし、シュミットの《政治的なものの概念》は、対立や敵対関係を否定することに対する批判と同時に、対立をエスカレートさせ、敵を殲滅させることに対するポレーミクをも含んでいた。前者が強調されるあまり、後者が背景に退いている感は否めないが、対立をエスカレートさせる正戦論に対する批判は、シュミットの政治的なものの概念の底流をなしている。そして実はこの二つの批判は、政治的なものを解消しようとする試みが、政治的なものの不可避性によって、かえって対立や闘争をエスカレートさせる逆説として、シュミットにおいては表裏一体の関係にあった。

「敵」とは何か。敵とは、味方でないもの。つまり、「自分たちの中に同化できない」存在を意味していて、つまりは、

  • 不透可な他者

を意味している。彼らは、ルールによるゲーム的な競争や討論を、単純には共有していない、という認識から始まっているわけですね。
だから、物理的な衝突に結果しないことを結論付けられないわけですが、逆に言うと、だからといって、あまりに過激に衝突することは、抑制的であるべき、ということは言えるわけです。
しかし、この関係が、例えば、国内における犯罪関係だったら、どうでしょうか。敵国は(国内法的な基準において)犯罪的な行為ばっかりしているから、(国内法的な基準に照らし合わせて)同等の「懲罰」をくらわせることは「正当である」と主張し始めたら。
つまり、逆説的ではあるが、むしろ、シュミットの言う「敵」概念の方が、「抑制的」である可能性が考えられるわけです。
アメリカによる、イラク戦争フセインを射殺した結果について、ハバーマスもマイケル・ウォルツアーも、基本的には、批判的です。
確かに、ハバーマスが言うように、シュミットのアイデアは、現代社会においては、アナクロニズムに思えます。古典的な国家概念にとらわれすぎていて、国際法的なアイデアについて、低評価すぎると言えるかもしれません。
しかし、例えば、最近の、日本の尖閣の国家所有に対する、中国の「反応」は、典型的な、シュミット的な「戦争形態」のように思われます。つまり、確かに、戦闘行為にまでは、至っていませんが、これも、一種の「戦争行為」なんだと思うわけです。つまり、示威行為であって、こういった行為によって、中国は日本に「意思」を表明しているわけですね。
私たちは、シュミットの使う「敵味方」カテゴリーのアナクロニズムな表現に、とらわれすぎているのかもしれず、もしこれを、ある種の「他者」間における、関係の理論と考えたとき、それを、現在の、東アジアの緊張を、
普遍的理念(=普遍的警察行為)
とは、まったく違った方向からの、
他者の間の「緊張緩和」の方法
の模索として、その可能性を探る一助として、読み直せるのかもしれません...。

シュミット・ルネッサンス―カール・シュミットの概念的思考に即して

シュミット・ルネッサンス―カール・シュミットの概念的思考に即して