高橋秀実『「弱くても勝てます」』

私もこうやって、ただの、アラフォーの、おっさんになってみて思うことは、子供の頃、自分がどうだったのか、そのころ何を考えていたのか、ということが、実際のところ、その多くは、今になってみると、どうでもよかったな、という感じであろうか。
正直、こういった東京のような所での、中学や高校の進学校の話というのは、まったく実感がないだけでなく、すごく、どうでもいいように聞こえる。
妙に、そういうところに、自らのアイデンティティを感じている人を見ると、そこまで自分がエリートであることを誇れるというのは、自分とは違うな、と思うが、例えば、日本の政治家、国家官僚、大学教授、ことごとく、そういった「進学校」や「上の大学」といった、カテゴリーに属している人々で構成されているのだろうと考えたとき(実際に、そういった仕事をもらっていく過程が、そういった人間関係でもあるのだろうと考えたとき)、彼らの、「幸せ」が、そこに紐付いている、という実感なのかもしれない。
しかし、こうやって私が生きてきた実感として、むしろ、社会は「そういったエリートだけが関われる」ような
アイドル
たちが、社会の重要なポイントを「関所」のように、塞いでいるような社会は不健康なんじゃないのか、と考えてきたわけで、私には、しらけた印象しかない。それは、結局のところ、
どういう社会を目指すのか?
という、そういった目指す社会イメージに対して、今を評価すべきであって、エリート・アイドルたちが、キャピピャピと、

  • 頭脳の足りない民草のために考えてやった

みたいなパターナリズムを見せられても、どうせ、千年後には、エリートって滅びてるんじゃねえのかな、くらいの感想しかもたない。
未来社会において、エリートが滅びるだろうという意味は、別に、頭のいい人がいなくなることとは関係ない。私の考える

  • 幼児社会

とは、「卒業のない」社会なのだ。学校に入ったら、死ぬまで、卒業をしない。ずっと、死ぬまで、学校に行く。そうすると、エリート校という概念がなくなる。なぜなら、30代でも、学校に行き、50代でも学校に行き、論文を書き、それぞれ、
評価されるかどうか
だけだからだ。つまり、別に10代に頭がよかったからって、20代や30代に、なんらかの論文を書けるのか、とは、なんの関係もない。大器晩成の人は、世の中には、いっぱいいるので、むしろ、そっちの方が、社会経験もされていて大いに期待できる。
10代で、テストの成績がよかったことは、彼らが、ある種の「がまん」ができる人たちだった、ということを意味しているにすぎない。つまり、彼らはその「環境」に適応した。しかし、そのことが「別の環境」に適応することを、意味しているわけではない。
(つまり、彼らは、その未来の時代においては、エリートではなくて、「10代教育過剰適応児」と呼ばれるようになる、って感じですかね。)
今の、進学制度とは、言わば、上の大学へ選抜して、そこから、国家官僚を選ぶための制度だと言えるだろう。戦前なら、そこに、軍隊の士官養成が関係してくる。つまり、官僚が、自らの図体を維持していくための、便利な制度だということになるだろう。
しかし、未来の世界においては、基本的に、あらゆることが「地域主権」と「直接民主主義」を、上記の生涯教育・生涯研究システムが、理論的にバックアップしていくような社会になっているはずで、そこにおいては、エリートとは、
人々のパイプ役
のような人たちとなっているはずで、非常に限られた役割となっているだろうと考えれば、今あるような「我慢選抜」のような、児童虐待的な教育システムは、不要になる。
そんなふうに、考えているわけだが、どうですかね。
もちろん、私の住んでいた、地方においても、「それなり」に、進学校というのはあった。
自分も、その学区における、進学校と呼ばれるところに行ったから、大学に行ったわけだが、そこは、実に、素朴な地方の学校なわけで、東京のようなところと、比べることすら、意味がないように思う。非常に素朴だった印象がある。
そして、そんな自分の高校も、甲子園に行ったことがあった。たまたま、いいピッチャーがいて、秋の大会で、準決勝まで行ったとか、そんな関係で運よくだったと思う。しかし、掲題の本のように、練習が週一回だけ、ということはない。
そういう意味では、これだけ、短かい時間の部活というのは、私には、意外であったが、ある意味、うらやましくも思う。

通常、野球部というものは「リーリーリー」やら「バッチバッチ」やら、わけのわからぬ奇声を張り上げて練習しているが、開成はいたって静かだった。坊主頭の生徒などおらず、円陣を組むこともない。それぞれが黙々とそれぞれの課題に取り組み、「自分自身に固有の能力を進歩させ」(初代校長高橋是清の教育理念)ているようで、さすがに名門校は違うなあと関心しながあ、練習を眺めていてふと気がついた。
下手なのである。
それも異常に。
ゴロが来ると、そのまま股の間を抜けていく。その後ろで球拾いをしている選手の股まで抜けていき、球は壁でようやく止まる。フライが上がると選手は球の軌道をじっと見つめて構え、球が十分に近づいてから、驚いたように慌ててジャンプをて後逸したりする。目測を誤っているというより、球を避けているかのよう。全体的に及び腰。走る姿も逃げ腰で、中には足がもつれそうな生徒もいる。そもそも彼らはキャッチボールでもエラーするので、遠くで眺めている私も危なくて気が抜けないのである。

しかし、これは、これを書いているライターさんが、「こんなに下手な高校生が、野球部にいちゃいけない」と考えているから、だと思うわけである。言うまでもなく、私がいた高校も、みんな、中学の頃から、野球をやってた人ばかりで、うまかった。つまり、うまくない高校生は、

  • 野球をやってはいけない

そういう雰囲気があるわけである。
しかし、それは、そもそもの「スポーツ」と違うのではないか。なぜ、うまくなければやれないのか。試合に出れないのか。私には、むしろ、この
週に一回3時間の練習
というのは、「まっとう」なんじゃないか、と思うわけである。

開成打線で印象的だったのは実に多彩なバッティングフォームだった。ある選手はバットをホームベースの上に水平にかざし、そこで「正面衝突」をイメージしてから時間を逆戻りさせるように構える。他にも、左手だけでバットを持ち、十分な引き位置を確認しつつ、打つ瞬間にだけ右手を添える。全身の体重を前にかけて構え、ピッチャーが投げるモーションに入ると後ろに大きく体重移動して、全身振り子のようにフルスイングする。今まで見たこともない構え方ばかりで、ここにも一般的でないセオリーがありそうだった。
「打撃で大切なのは球に合わせないことです」
----合わせちゃいけないんですか?
「球に合わせようとするとスイングが弱く小さくなってしまうんです。タイミングが合うかもしれないし、合わないかもしれない。でも合うということを前提に思い切り振る。空振りになってもいから思い切り振るんです」

どうだろう、この「中二病w」。しかし、よく考えてみてほしい。バッティングにおいて、なにが重要か。とにかく、フルスイングが「できる」ことなのだ。フルスイングをするから、前にボールが飛ぶ。じゃあ、あとは、「どうやって」フルスイングが可能になるかを、一人一人が努力して、見つけ出すしかない。監督の言う通りにバットを振ろうとすることで、その子供の受けとる監督の言うスイングが、結果として、その子供のスイングを小さくしていたなら、なんの意味もない。とにかく、その子供に、
その子供にとってのフルスイング、を見付け出させるしかない
のだ。

「大体、僕らみたいに運動神経がない人間は、他の競技だったら、その運動神経のなさがモロに出て、やりようがなかったと思うんです。でも野球は違う。野球は運動神経がないならないなりにやりようがある。投げ方にしても打ち方にしても、ちゃんと考えることでできるようになる。哲学してるみたいで楽しいんです」

進学校とは、ある種の、「中二病w」であろう。彼らのその「想像力」はすさまじい。それは、運動神経を「凌駕」するのだ。想像力で運動神経の上を行く。3年間もあるのだ。週一回の部活でも、彼らの頭なら、きっと、練習の少なさをカバーする
手段
を思いつく。それが、「野球」なのだ...。

「弱くても勝てます」―開成高校野球部のセオリー

「弱くても勝てます」―開成高校野球部のセオリー